第百四十一話 范蠡の転身
* * *
晋の卿でありながら、晋公室のみならず、諸侯をも圧倒してきた
趙鞅が死に、末子の趙無恤が趙氏を継いだ。
趙無恤は亡父の喪に際して、喪食(喪中の食事)を減らし
通常よりも質素な食事を摂った。
呉が越からの侵攻を受けたと聞いて、更に簡素にした。
趙氏の家臣・楚隆が趙無恤に問う。
「三年、喪に服すのは篤い孝心の顕れと言えましょう。
主はそれを更に簡素にしました。これは何のためでしょうか」
趙無恤がこれに答える。
「6年前、黄池の会盟で、先主(趙鞅)と呉君は
盟約を結び『好悪を共にする』と誓った。
今、越が呉を包囲したから、先主の嗣子である私は
呉と共に越と戦いたいと思っているが
晋の卿に過ぎない私の及ぶところではない。せめて喪食を減らす事にした」
楚隆「臣が呉君にそれを伝えましょうか」
趙無恤「可能であれば、汝は呉に向かってほしい」
楚隆は呉に向かった。
* * *
楚隆は呉都を包囲する越軍の陣中に入った。
「呉は中原の諸国をしばしば侵してきた。
今、越君が自ら呉を討伐したと聞き、中原の人々は皆喜んでいる。
臣は越に協力すべく、呉に入り、様子を探りに行きたい」
越王・勾践は楚隆の要求を認めた。
楚隆が呉王・夫差に謁見し、言上を述べる。
「晋の卿・趙氏が臣を遣わし、不恭の謝罪に参りました。
黄池の盟で、先臣(趙鞅)が呉君と『好悪を共にする』と誓いました。
今、呉君は難に遭いながら、趙氏はこれと労苦を厭う気はありませんが
呉・越に晋国の力が及ぶところではありません。
よって臣はこれを呉君に報告するため、参上いたしました」
呉王・夫差が拝礼稽首して楚隆に言う。
「我が不才のため、越に仕える事も適わず、趙氏の憂いを生んだ。
汝の言を拝受しよう」
夫差は一箱の珠玉を楚隆に渡し、これを趙無恤に贈るように伝えた。
「越は呉を滅ぼすであろう。
わしが良い終わりを迎える事はない」
楚隆は珠玉を受け取り、晋に帰国した。
ほどなく呉は越によって滅ぼされる。
* * *
趙鞅の死に前後して、晋定公も崩御した。
子の錯が晋君に即位した。晋出公である。
* * *
年が明けて、周の元王2年(紀元前474年)夏5月
越王・勾践は斉と魯に初めての使者を送った。
既に越が呉に勝利するのは時間の問題と判断して
勾践は、夫差と同様、中原に進出する事を考えるようになった。
秋8月、斉平公、魯哀公、邾隠公が顧で盟約を結んだ。
前回(4年前)の斉と魯の会盟で、魯君が斉君の稽首に対し
拝礼で応じた事は無礼であると、斉人が再び譴責した。
人々が魯を風刺する歌を作った。
「魯人は数年経っても過ちに気がつかず、我々を嗔らせる。
彼等の意思は古く、頑迷に過ぎて、二国の憂いを生んでいる」
(魯人之皋、数年不覚、使我高蹈。唯其儒書、以為二国憂)
今回の会盟では、魯哀公が先に陽穀に入った。
斉の大夫・閭丘息が言う。
「魯君は自ら斉君を訪問すべく、慰労に来ました。
斉の群臣が伝車を送り、斉君に報告しましょう。
返答が来るまでの間、魯君は疲れておられるでしょう。
群臣が急いで舟道に館を設けます」
舟道は斉の領内にあるため、斉人は魯候を捕えるつもりである。
魯哀公はこれに気付き、辞退して言った。
「貴国の群臣を煩わせるわけにはいきません」
* * *
15年前、呉王・夫差が邾に侵攻した事があった。
その2年後、邾隠公は魯に出奔し、更に斉に遷った。
国君を喪った邾国では、太子・革が留守中の政治を行う事になる。
周の元王3年(前473年)夏4月、邾隠公が斉から越に奔った。
越が呉を滅ぼしつつあり、勢力を拡大し始めたのを見たからである。
越に入った邾隠公が越王・勾践に訴える。
「呉君は無道にも、国君たる私を捕え、子(太子・革)を立てました。
それで私は魯に逃れたのです」
越王・勾践は隠公を邾に帰国させた。
すると今度は太子・革が越に奔った。
* * *
冬11月27日、越が呉を滅ぼした。
越王・句践は呉王・夫差を甬東に住ませようとしたが
夫差は「わしは既に老いた。越君に仕える事は出来ない」
と言って首を吊り、自害して果てた。
越王・句践は夫差の死体と共に越に帰還した。
呉を平定した越王・句践は
長江下流域の三川の春祭と、太湖周辺の五湖の秋祭を始め
祠を建立して、自らの功績を後世に伝えた。
* * *
呉を滅ぼした越王・句践が越都・会稽に帰還すると
勾践を支えてきた賢臣・范蠡が句践に別れを告げた。
「呉が滅び、臣の役目は終わりました。
我が君は、どうか徳に勉め、国を治めてください」
勾践が驚いて語る。「わしには、汝が言った事の意味が分からぬ」
范蠡が言う。「臣とは、国君が憂いたら国君のために労し
国君が辱めを受けたら国君のために死ぬと聞きます。
以前、我が君は会稽で呉君より辱めを受けましたが
臣は事を成すため、死にませんでした。
今、既に事が成就したので、臣は会稽の罰を受けることを願います」
越王はなおも范蠡を説得する。
「もし、汝の過失を赦さず、その長所を無視する者がいれば
その者は、良い終わりを迎えないであろう。
わしは汝と共に越を治めるつもりでいる。
断ると申せば、汝と妻子は死ぬ事になろう」
范蠡がこれに返答する。
「臣は国君の言を聞きました。我が君は法を行ってください。
臣はただ、自らの意思に従います」
范蠡は越を去り、軽舟に乗って長江を越えた。
范蠡が去った後、越王・勾践は工匠に命じて
上質の金属を用いて范蠡の像を作らせ、これを毎朝礼拝して
越の大夫には十日ごとの拝礼を命じた。
また、会稽の周囲三百里を范蠡の領地であると宣言した。
「今後、范蠡の地を侵す者は、良い終わりを迎える事はない。
皇天后土(天地の神)と四郷地主(四方の神)が
これを証明するであろう」
* * *
越を去った後の范蠡はどうしたであろうか。
彼は軽舟に乗って江湖に去り、姓名を変えて
鴟夷子皮と名乗り、斉に入った。
鴟夷とは皮袋の事である。
かつて呉王・夫差が伍子胥を殺した時、その死体を鴟夷に入れた。
范蠡は自分にも罪があるとして、鴟夷と名乗ったらしい。
鴟夷子皮は斉の海岸で家族と共に耕作、商業、塩業に励んで
短い間に数十万の富を生んだと言う。
斉の群臣は、その賢才を聞いて、鴟夷子皮を相に任じた。
しかし鴟夷子皮は嘆息して語る。
「千金を手に入れ、卿の身分を得るのは、庶人の極である。
久しく尊名を受けるのは不吉だ」と言うと、相の地位を返上して
全財産を知人や同郷の者に分け与え、斉を去った。
* * *
鴟夷子皮と家族は、斉から陶に入り、名を朱公と改めた。
朱公は陶が天下の中心に位置しているため
四方の諸侯に通じ、商品の行き交う場所と見て
貨物を作って蓄え、時に応じて利を求めた。
しかし、人から利を奪おうとはしなかった。
朱公は19年間で、千金の富を得る事、三度に及び
二度、その財産を貧しい友人や疎遠になった兄弟親族に分け与えた。
朱公は年老いると、子や孫の意見に従った。
子や孫は、朱公の業を受け継ぎ、更に発展させ
巨万の家財を成したという。
後世の商人は、誰もが陶朱公を称賛したという。
* * *
魯に猗頓という貧しい者がいた。
農耕や養蚕に従事しているが、いつも飢えと寒さに苦しんでいる。
ある日、猗頓は陶朱公の噂を聞き、学びに行った。
朱公は猗頓に富を作る方法を教え、こう言った。
「汝が速く富を得たいのなら
五種の家畜(牛、馬、羊、豚、驢馬)を飼育すればいい」
教えを受けた猗頓は西河に移り、牛と羊を猗氏の南で飼った。
10年後、牛も羊も数えられないほどの数に繁殖した。
また、猗氏の南には河東の塩池があったので
牧畜と塩業の両方で成功を収めた猗頓の富は
王候に匹敵するほどになり、猗頓の名は天下に知れ渡った。
* * *
朱公が陶に住み、子(少子)が産まれた。
少子が成長した頃、朱公の次男が人を殺し、楚国の官吏に捕えられた。
朱公は「人を殺せば死罪となるのは道理である。
せめて、晒し者にされないよう、市ではない場所で処刑するようにしたい」
と言い、少子を楚に送って様子を探ることにした。
千溢(一溢は一掴み)の黄金を器に入れ、一輌の牛車に乗せて
少子が出発しようとした時、朱公の長男が楚に行くことを願い出た。
しかし朱公は同意しなかったので、長男が言った。
「家督を継ぐのは長子です。父上は、弟が罪を犯したのに
長子を送らず、少小を送ろうとしている。私が不肖だからでしょうか」
そう言うと、長男は自害しようとしたため、母が言った。
「少子を送っても、志を果たせるとは限りません。
先に長男を失う必要があるでしょうか」
結局、朱公は長子を派遣することに同意し
旧友の荘生に渡す書を準備して、長男に告げた。
「楚に着いたら千金を荘生に贈り、全て彼の言に従え。
決して彼に逆らってはならぬ」
長男自身も数百金を集め、楚へと向かった。
* * *
長男が楚に到着すると、荘生の家を探した。
荘生の家は外城の傍にあり、生い茂る雑草をかき分けて
ようやく門に至った。貧しい家である。
荘生に面会を果たすと、長男は父に言われた通り
書信と千金を荘生に渡し、それを読んだ荘生が言う。
「子はここに留まってはならぬ、早く去るがよい。
弟はすぐに釈放されるが、理由を探ってはならない」
長男は荘生の家を離れたが
荘生の貧しい様子を見て、彼では弟を助けられないと思い
しばらく楚に留まって、自分が集めた数百金を
楚の貴人に贈り、弟の釈放を頼んだ。
荘生は貧しくとも清廉な君子として楚国に名が知られ
楚王以下、誰もが師と仰いで尊敬している人物である。
朱公から贈られた千金も、自分のものにする気はなく
事が済めば朱公に返す予定で、妻に千金を渡して告げた。
「これは朱公の金である。いつになるかは分からないが
いつでも返せるよう、決して遣ってはならぬ」
朱公の長男は荘生の意図を理解しておらず
千金を無駄にしたと思っている。
* * *
荘生はすぐ楚王に謁見して語った。
「凶星が楚の頭上に移りました。楚に禍が起きるでしょう」
楚王は不安になり、荘生にどうすればいいか問う。
荘生「ただ徳を積むのみです。徳だけが害を除けるでしょう」
楚王「汝の言い分は分かった。すぐ行動しよう」
楚王は人を送り、三銭の府(国庫(貨幣)を保存している倉庫)
を閉じるように命じた。
三銭とは夏、商、周の時代に使われた金幣で
黄が上幣、白が中幣、赤が下幣である。
それを知った楚の貴人が驚き、朱公の長男に告げた。
「王は大赦を行う。子の弟は救われよう」
長男がその理由を聞くと、貴人が言う。
「王は大赦をする前に必ず三銭の府を閉じる。
昨晩、王は人を送って府を閉じさせたのだ」
「なぜ、大赦を行う前に府庫を閉じるのであろう」
「大赦が行われる前に盗難が起きれば
盗賊をすぐに釈放しなければならないからだ。
それを防ぐため、貨幣を保管する倉庫を事前に封鎖する」
* * *
朱公の長男は、大赦が荘生の手柄と知らないので
千金もの財礼を荘生に贈った事が、ますます無駄だったと思い
再び荘生に会いに行った。
長男と再会した荘生が驚いて言った。「汝はまだ楚に留まっていたのか」
「私は弟を救うために楚に来ましたが、楚王が大赦を行うと聞いて
安心しました。だから子に別れを告げに来たのです」
荘生は長男が千金の財を取り戻しに来たと知った。
「金は奥の部屋にいる妻に預けてある。持っていくがよい」
長男は部屋に入り、財貨を取り戻すと、満足して楚を去った。
* * *
荘生は朱公の長男に裏切られた事を屈辱として
再び楚王に謁見して、こう語った。
「臣が凶星の話をしたので、王は徳を修めて報いると申されました。
しかし、臣が外を歩くと、道行く人々がこう言っているのです。
『陶の富豪・朱公の次子が人を殺し、楚で捕えられた。
朱公の家族は、多くの金銭を王の左右に贈った。
王は楚国の事を想わず、朱公の賄賂に騙されて大赦を出した』」
楚王が激怒して叫んだ。
「わしは不徳かもしれぬが、朱公の子だけのために恩恵を施しはしない」
楚王は即座に朱公の次子を処刑して、翌日に大赦を行った。
朱公の長男は弟の遺体を運んで陶に帰国した。
* * *
長男が家に帰り、次子の遺体を見て、母と家臣が哀哭した。
しかし朱公は笑って言った。
「次子が殺されるのは分かっていた。長子は弟を援ける事よりも
我慢ならぬ事が楚であったに違いない。
長子は若い頃からわしと苦労してきたから、財を重視している。
少子は家が裕福になってから産まれたので、財を軽視している。
少子を荘生の元へ送ろうと思ったのは
彼なら財を躊躇なく棄てられると思ったからだ。
長子を送った結果、次子は殺されてしまった。
今更、悲しむ事ではない」