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東周概略史 ~天の時代~  作者: 友利 良人
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第百四十話 周敬王、卒す





     *    *    *




 楚恵王と葉公ようこう沈諸梁ちんしょりょうは、恵王の弟・子良しりょう

令尹れいいん(宰相)にするべきか、牧卜まきぼくで確認した。

牧卜とは、うらないの内容を語らず、亀の甲羅で卜う事である。


沈尹ちんいんしゅが牧卜の卦を告げた。

「吉です。大役を任せるに足る、と出ました」


しかし、葉公が反対した。

「王弟が相国になれば、いずれ二心を抱き、王位を狙うかもしれません」


その後、再び卜った結果、前の令尹・子西の子・公孫寧こうそんねいが任じられた。

これが前年の事であった。




     *    *    *




 衛荘公が北宮で夢を見た。

何者かが昆吾こんごの観(北宮の南にある楼台)に登り

髪を振り乱しながら、北を向いて叫んでいる。

「昆吾の廃墟に登ると、うりが果てしなく育っているのが見える。

衛の家系は断絶せず栄えよう。余が衛侯を援け、君位を継がせたからだ。

それなのに、余は太子・しつに陥れられ、死罪に処せられた。

余は渾良夫こんりょうふである。天に余の無実を叫ぼう」


衛荘公は目が覚めてから、自らぜいを行い

筮師・胥彌赦しょじしゃが占いの結果を語った。

「害にはなりません」


衛荘公は喜び、胥彌赦に食邑しょくゆう(領地)を与えると言ったが

胥彌赦は辞退して、その場から急いで逃走した。

荘公が暴虐で無道の君であった事から

事実を述べても恨みを得るだけだと判断して

安心させるため、偽りの結果を述べたからである。


衛荘公が訝しみ、再び卜うと、よう卜辞ぼくじ)はこう出た。


  「泳ぎ疲れた魚が、流れを横切って不安でいる。

  門を閉ざし、洞穴を塞いで、後ろの壁を飛び越える」

(衛荘公が暴政を行って自らを衰弱させ、大国に滅ぼされ、亡命する)




     *    *    *




 冬10月、晋が再び衛を攻撃し、衛都の外城に入った。

晋軍は更に侵攻して、衛都の内城に突入しようとした時

晋軍を率いる趙鞅ちょうおうが制止した。

「昔、晋の上大夫・叔向しゅくきょうの言がある。

『他国の乱に付け込んで国を滅ぼせば、後代が絶える』」



 衛の国人は、衛荘公を駆逐して晋と講和した。

衛荘公は斉に出奔した。


晋は衛襄公の孫・般師はんしを衛君に立て、兵を還した。



 しかし冬11月、衛荘公が斉の支援を受けて

斉の邑・けんから、衛都・帝丘に帰還し、衛候に復位した。


入れ替わるように、衛君・般師は出奔する。




     *    *    *




 ある時、衛荘公が城壁に登って遠くを眺めていると

戎族じゅうぞくの住む邑を見つけた。


荘公が近臣に、その場所について尋ねると

近臣は、戎州じゅうしゅうの説明をした。


説明を聞いた荘公が怒って叫ぶ。

「衛は周室から分枝した姫姓の諸侯国である。

国の中に戎族がいてはならぬ」


衛荘公は自ら軍を率いて戎州を滅ぼした。


その後、戎の邑を破壊し、痕跡を亡くすため

工匠こうしょう(建設労働者)を休ませず働かせた。




      *    *    *




 衛荘公は卿・石圃せきほを放逐しようと企んだが

石圃がこれに気付いて、機先を制すべく、謀叛を起こした。


11月12日、石圃は、過酷な労働に苦しんでいる工匠と結託して

衛荘公のいる公宮を攻めた。


公宮で荘公に味方する者は少なく、僅かな間に衛候は窮地に立つ。


衛君は門を閉じて命乞いをしたが、石圃は赦さなかったので

逃走すべく、北の壁を飛び越えた時、転落して股の骨を折った。


骨折で動けない衛荘公の元に、滅ぼされた戎州の民が襲撃する。

そこへ太子・しつと、太子の弟の公子・せい

公宮の壁を飛び越えて荘公に続いたが、戎州人に殺された。


しかし、結果として衛荘公を援ける形となったので

荘公は逃走に成功して、戎州の一族・己氏きしの家に逃げ入った。



 かつて衛荘公は、城壁の上から己氏の妻を眺め

その髪が美しいと思ったので、髪を剃り落とし、

衛候夫人・呂姜りょきょうかつらにした事があった。


己氏の家に入った荘公は、所有する璧玉を見せて

「わしを援けてくれたら、汝に璧を与える」と語った。


「ここで汝を殺し、その璧を奪えばいいだけではないか」


己氏は衛荘公を弑殺し、璧を奪って逃走した。

衛の暴君・荘公の在位は僅か二年であった。



 衛人は出奔していた般師を帰国させ、衛候に復位する。


しかし12月、斉が衛を討伐したので、衛は斉に和平を請うた。


斉軍は講和の条件として

衛霊公の子、公子・を衛君に擁立して

衛候・般師を捕えて斉に引き上げた。


斉に遷った般師は斉都の郊外・に住んだ。




      *    *    *




 魯哀公が斉平公ともうで面会して、盟約を結んだ。


魯の上卿・仲孫彘ちゅうそんていが相(国君の補佐)を勤める。


斉平公は、ひざまずいて頭を下げた(稽首けいしゅ)のに対し

魯哀公は腰を曲げて頭を下げるだけ(拝礼はいれい)で返礼した。


これに斉人が怒り、魯候は無礼であるとなじったが

魯候の相・仲孫彘は「稽首は天子(周王)にのみ行う礼である」と言った。



仲孫彘が斉の卿・高柴こうさいに尋ねた。

「この会盟で、誰が牛耳ぎゅうじるべきであろうか」


 犠牲に用いる牛の耳を切り、その血を皿に取って

 最初に啜る者は、諸侯の盟主である事を意味する。

 転じて、今日の日本で集団を支配する事を意味する

 「牛耳る」の語源となった。


高柴がこれに答える。

「9年前、鄫衍しょうえんの役では呉の公子・姑曹こそうが牛耳を執り

5年前のいんの会盟では、衛の卿・石魋せきかいが執った」


仲孫彘が言う。「ならば今回は私の役目であろう」


 牛耳を執る者は、会盟を主宰する立場を意味するが

 実際に牛耳を切るのは、盟主ではなく小国の役目である。

 鄫衍の役で大国の呉が牛耳を執ったのは礼から外れていた。

 魯は小国なので、仲孫彘は自分が牛耳を執ると言ったのである。




      *    *    *




 宋の右師うすい皇瑗こうえんの子・には

田丙でんへいという友人がいる。


麇は兄・酁般すうはんの有するすう邑を奪って田丙に与えたので

怒った酁般は、司馬・桓魋かんかいの家臣・子儀克しぎこくに相談する。


子儀克は宋都・商丘しょうきゅうに入り、宋景公夫人に告げた。

「麇が桓魋を国に入れようとしています」


これを聞いた宋景公は、大夫・皇野こうやに意見を求めた。


かつて皇野は妻・杞姒きじが産んだ子・非我ひがを嫡子に立てようとしたが

麇は「長幼の序に従い、非我の兄を嫡子に立てるべきです」

と言って、反対した事があった。

皇野は麇の忠告を無視して、非我を嫡子に立てたが

それ以来、自分に反対した麇を憎んでいる。


景公に意見を求められた皇野はこう答えた。

「右師・皇瑗は老齢なので、乱を起こす事はないでしょう。

しかし、麇が後を継げば、乱を起こすかもしれません」


宋景公は麇を捕えた。


皇瑗は恐れて晋に出奔したが、宋景公に呼び戻されて

ほどなく捕えられた。


年が明けて、周の敬王43年(紀元前477年)春

宋景公は丹水たんすいの辺で皇瑗と麇を処刑した。


間もなく、丹水が塞がり、宋で洪水が起きた事で

宋景公は皇瑗と麇の冤罪を知り、皇氏の家系を回復させ

皇瑗の甥・皇緩こうかんを右師に任命した。




    *    *    *




 楚は中原の南にあり、秦は西方にある。

楚と秦の間に、という国があり、この年に

楚を攻撃して、楚の邑・ゆうを包囲した。


以前、楚の公孫寧が令尹になる前に、右司馬に任命する事を卜った。

観瞻かんせんが「吉です」と言ったので

楚恵王は公孫寧を右司馬に任命した。


巴国の軍が楚に侵攻したとの報せが楚都に届き

群臣は誰を将帥にするかを卜おうとしたが、楚恵王が言った。

「既に公孫寧が志に適っている。卜う必要はない」


楚恵王は公孫寧に兵を預け、巴軍の討伐を命じた。

なお、この時、公孫寧は既に令尹になっている。


公孫寧の補佐には寝尹しんいん呉由于ごゆう工尹こういん薳固えんこが選ばれた。


二将とも、29年前の柏挙はくきょの役で

楚昭王の危機を救った勇将である。



 春3月、楚の公孫寧、呉由于、薳固が鄾で巴軍を破る。


楚恵王は公孫寧をせきに封じた。




      *    *    *




 夏、衛の大夫・石圃せきほが衛君・起を斉にった。


入れ替わって、衛出公・ちょうが斉から戻って衛候に復位し

即位後、石圃を追放した。


衛荘公に廃され、国外に出奔していた

石魋せきかい太叔遺たいしゅくいが呼び戻され、元の官職に復した。




      *    *    *




 秦君・悼公とうこう薨去こうきょした。在位15年であった。

悼公の子が即位して、秦厲公しんれいこうとなる。



 この年、晋の妊婦が七年も子を産まず

西山に住む女子が男子になったという怪異が起きた。




      *    *    *




 周敬王44年(紀元前476年)春、越が楚に侵攻した。


夏、楚の公子慶こうしけい公孫寬こうそんかん

越軍を撃退するために越の地・めいまで進出したが

越軍は既に撤退していたので引き上げた。


秋、楚の葉公・沈諸梁が越の侵攻に対する報復で東夷とういを攻撃した。

楚の侵攻により、越に従っていた東夷のうち

三つの族が、東方の地・ごうで楚と盟約を結んだ。


冬、周敬王が崩御して、周敬王の子・仁が周王に即位した。

周元王である。


魯の大夫・叔青しゅくせいが周敬王の弔問のため、周都に入った。




      *    *    *




 周元王元年(紀元前475年)春、斉人が魯に来て会見に招いた。


かつての覇権国・晋は、智、趙、魏、韓の四卿で政権を争い

晋公室の権威は衰えきって、もはや覇者ではない。


晋と覇権を争い続けて来た南方の雄・楚も

呉・越との戦いが続き、中原に進出する余裕はない。



 この状況で、斉の相国・田常でんじょう

自らが諸侯の盟主となろうと野心を抱く。


夏になり、斉と魯、それに他の諸侯(どの国かは不明)が

斉の邑・廩丘りんきゅうで会盟を行う。


ここで諸侯は、5年前に鄭に侵攻した

晋に対する報復を支援するため、晋討伐について話し合った。


会盟に参加した諸侯が兵を率いて鄭に向かうが

鄭が諸侯の出兵を断ったため、諸侯軍は帰還した。


周敬王が死んだ時点で、春秋時代は実質的に終わりです。


それまで諸侯は、名目上だけとはいえ、周王をトップに祭っていたけど

元王以降は、ほとんど気にしなくなります。


この物語も、ここで終わっても良かったんですが

とりあえず、晋陽の戦いまでは書く予定です。

これが春秋時代と戦国時代を分けるターニングポイントなので。


なお、戦国時代以降は、あまり興味がありません。


俳人・齋藤愼爾氏の言を借りて表現すれば

「幻の桃源郷の破片が、原始の彩りを以て魂を鋭く揺する」

要素が薄いんです。


自分の中では、春秋時代がギリギリで、原始の色彩を放っている時代です。

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