第百四十話 周敬王、卒す
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楚恵王と葉公・沈諸梁は、恵王の弟・子良を
令尹(宰相)にするべきか、牧卜で確認した。
牧卜とは、卜いの内容を語らず、亀の甲羅で卜う事である。
沈尹・朱が牧卜の卦を告げた。
「吉です。大役を任せるに足る、と出ました」
しかし、葉公が反対した。
「王弟が相国になれば、いずれ二心を抱き、王位を狙うかもしれません」
その後、再び卜った結果、前の令尹・子西の子・公孫寧が任じられた。
これが前年の事であった。
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衛荘公が北宮で夢を見た。
何者かが昆吾の観(北宮の南にある楼台)に登り
髪を振り乱しながら、北を向いて叫んでいる。
「昆吾の廃墟に登ると、瓜が果てしなく育っているのが見える。
衛の家系は断絶せず栄えよう。余が衛侯を援け、君位を継がせたからだ。
それなのに、余は太子・疾に陥れられ、死罪に処せられた。
余は渾良夫である。天に余の無実を叫ぼう」
衛荘公は目が覚めてから、自ら筮を行い
筮師・胥彌赦が占いの結果を語った。
「害にはなりません」
衛荘公は喜び、胥彌赦に食邑(領地)を与えると言ったが
胥彌赦は辞退して、その場から急いで逃走した。
荘公が暴虐で無道の君であった事から
事実を述べても恨みを得るだけだと判断して
安心させるため、偽りの結果を述べたからである。
衛荘公が訝しみ、再び卜うと、繇(卜辞)はこう出た。
「泳ぎ疲れた魚が、流れを横切って不安でいる。
門を閉ざし、洞穴を塞いで、後ろの壁を飛び越える」
(衛荘公が暴政を行って自らを衰弱させ、大国に滅ぼされ、亡命する)
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冬10月、晋が再び衛を攻撃し、衛都の外城に入った。
晋軍は更に侵攻して、衛都の内城に突入しようとした時
晋軍を率いる趙鞅が制止した。
「昔、晋の上大夫・叔向の言がある。
『他国の乱に付け込んで国を滅ぼせば、後代が絶える』」
衛の国人は、衛荘公を駆逐して晋と講和した。
衛荘公は斉に出奔した。
晋は衛襄公の孫・般師を衛君に立て、兵を還した。
しかし冬11月、衛荘公が斉の支援を受けて
斉の邑・鄄から、衛都・帝丘に帰還し、衛候に復位した。
入れ替わるように、衛君・般師は出奔する。
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ある時、衛荘公が城壁に登って遠くを眺めていると
戎族の住む邑を見つけた。
荘公が近臣に、その場所について尋ねると
近臣は、戎州の説明をした。
説明を聞いた荘公が怒って叫ぶ。
「衛は周室から分枝した姫姓の諸侯国である。
国の中に戎族がいてはならぬ」
衛荘公は自ら軍を率いて戎州を滅ぼした。
その後、戎の邑を破壊し、痕跡を亡くすため
工匠(建設労働者)を休ませず働かせた。
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衛荘公は卿・石圃を放逐しようと企んだが
石圃がこれに気付いて、機先を制すべく、謀叛を起こした。
11月12日、石圃は、過酷な労働に苦しんでいる工匠と結託して
衛荘公のいる公宮を攻めた。
公宮で荘公に味方する者は少なく、僅かな間に衛候は窮地に立つ。
衛君は門を閉じて命乞いをしたが、石圃は赦さなかったので
逃走すべく、北の壁を飛び越えた時、転落して股の骨を折った。
骨折で動けない衛荘公の元に、滅ぼされた戎州の民が襲撃する。
そこへ太子・疾と、太子の弟の公子・青が
公宮の壁を飛び越えて荘公に続いたが、戎州人に殺された。
しかし、結果として衛荘公を援ける形となったので
荘公は逃走に成功して、戎州の一族・己氏の家に逃げ入った。
かつて衛荘公は、城壁の上から己氏の妻を眺め
その髪が美しいと思ったので、髪を剃り落とし、
衛候夫人・呂姜の鬘にした事があった。
己氏の家に入った荘公は、所有する璧玉を見せて
「わしを援けてくれたら、汝に璧を与える」と語った。
「ここで汝を殺し、その璧を奪えばいいだけではないか」
己氏は衛荘公を弑殺し、璧を奪って逃走した。
衛の暴君・荘公の在位は僅か二年であった。
衛人は出奔していた般師を帰国させ、衛候に復位する。
しかし12月、斉が衛を討伐したので、衛は斉に和平を請うた。
斉軍は講和の条件として
衛霊公の子、公子・起を衛君に擁立して
衛候・般師を捕えて斉に引き上げた。
斉に遷った般師は斉都の郊外・潞に住んだ。
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魯哀公が斉平公と蒙で面会して、盟約を結んだ。
魯の上卿・仲孫彘が相(国君の補佐)を勤める。
斉平公は、跪いて頭を下げた(稽首)のに対し
魯哀公は腰を曲げて頭を下げるだけ(拝礼)で返礼した。
これに斉人が怒り、魯候は無礼であると詰ったが
魯候の相・仲孫彘は「稽首は天子(周王)にのみ行う礼である」と言った。
仲孫彘が斉の卿・高柴に尋ねた。
「この会盟で、誰が牛耳を執るべきであろうか」
犠牲に用いる牛の耳を切り、その血を皿に取って
最初に啜る者は、諸侯の盟主である事を意味する。
転じて、今日の日本で集団を支配する事を意味する
「牛耳る」の語源となった。
高柴がこれに答える。
「9年前、鄫衍の役では呉の公子・姑曹が牛耳を執り
5年前の鄖の会盟では、衛の卿・石魋が執った」
仲孫彘が言う。「ならば今回は私の役目であろう」
牛耳を執る者は、会盟を主宰する立場を意味するが
実際に牛耳を切るのは、盟主ではなく小国の役目である。
鄫衍の役で大国の呉が牛耳を執ったのは礼から外れていた。
魯は小国なので、仲孫彘は自分が牛耳を執ると言ったのである。
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宋の右師・皇瑗の子・麇には
田丙という友人がいる。
麇は兄・酁般の有する酁邑を奪って田丙に与えたので
怒った酁般は、司馬・桓魋の家臣・子儀克に相談する。
子儀克は宋都・商丘に入り、宋景公夫人に告げた。
「麇が桓魋を国に入れようとしています」
これを聞いた宋景公は、大夫・皇野に意見を求めた。
かつて皇野は妻・杞姒が産んだ子・非我を嫡子に立てようとしたが
麇は「長幼の序に従い、非我の兄を嫡子に立てるべきです」
と言って、反対した事があった。
皇野は麇の忠告を無視して、非我を嫡子に立てたが
それ以来、自分に反対した麇を憎んでいる。
景公に意見を求められた皇野はこう答えた。
「右師・皇瑗は老齢なので、乱を起こす事はないでしょう。
しかし、麇が後を継げば、乱を起こすかもしれません」
宋景公は麇を捕えた。
皇瑗は恐れて晋に出奔したが、宋景公に呼び戻されて
ほどなく捕えられた。
年が明けて、周の敬王43年(紀元前477年)春
宋景公は丹水の辺で皇瑗と麇を処刑した。
間もなく、丹水が塞がり、宋で洪水が起きた事で
宋景公は皇瑗と麇の冤罪を知り、皇氏の家系を回復させ
皇瑗の甥・皇緩を右師に任命した。
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楚は中原の南にあり、秦は西方にある。
楚と秦の間に、巴という国があり、この年に
楚を攻撃して、楚の邑・鄾を包囲した。
以前、楚の公孫寧が令尹になる前に、右司馬に任命する事を卜った。
観瞻が「吉です」と言ったので
楚恵王は公孫寧を右司馬に任命した。
巴国の軍が楚に侵攻したとの報せが楚都に届き
群臣は誰を将帥にするかを卜おうとしたが、楚恵王が言った。
「既に公孫寧が志に適っている。卜う必要はない」
楚恵王は公孫寧に兵を預け、巴軍の討伐を命じた。
なお、この時、公孫寧は既に令尹になっている。
公孫寧の補佐には寝尹・呉由于と工尹・薳固が選ばれた。
二将とも、29年前の柏挙の役で
楚昭王の危機を救った勇将である。
春3月、楚の公孫寧、呉由于、薳固が鄾で巴軍を破る。
楚恵王は公孫寧を析に封じた。
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夏、衛の大夫・石圃が衛君・起を斉に逐った。
入れ替わって、衛出公・輒が斉から戻って衛候に復位し
即位後、石圃を追放した。
衛荘公に廃され、国外に出奔していた
石魋と太叔遺が呼び戻され、元の官職に復した。
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秦君・悼公が薨去した。在位15年であった。
悼公の子が即位して、秦厲公となる。
この年、晋の妊婦が七年も子を産まず
西山に住む女子が男子になったという怪異が起きた。
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周敬王44年(紀元前476年)春、越が楚に侵攻した。
夏、楚の公子慶、公孫寬が
越軍を撃退するために越の地・冥まで進出したが
越軍は既に撤退していたので引き上げた。
秋、楚の葉公・沈諸梁が越の侵攻に対する報復で東夷を攻撃した。
楚の侵攻により、越に従っていた東夷のうち
三つの族が、東方の地・敖で楚と盟約を結んだ。
冬、周敬王が崩御して、周敬王の子・仁が周王に即位した。
周元王である。
魯の大夫・叔青が周敬王の弔問のため、周都に入った。
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周元王元年(紀元前475年)春、斉人が魯に来て会見に招いた。
かつての覇権国・晋は、智、趙、魏、韓の四卿で政権を争い
晋公室の権威は衰えきって、もはや覇者ではない。
晋と覇権を争い続けて来た南方の雄・楚も
呉・越との戦いが続き、中原に進出する余裕はない。
この状況で、斉の相国・田常は
自らが諸侯の盟主となろうと野心を抱く。
夏になり、斉と魯、それに他の諸侯(どの国かは不明)が
斉の邑・廩丘で会盟を行う。
ここで諸侯は、5年前に鄭に侵攻した
晋に対する報復を支援するため、晋討伐について話し合った。
会盟に参加した諸侯が兵を率いて鄭に向かうが
鄭が諸侯の出兵を断ったため、諸侯軍は帰還した。
周敬王が死んだ時点で、春秋時代は実質的に終わりです。
それまで諸侯は、名目上だけとはいえ、周王をトップに祭っていたけど
元王以降は、ほとんど気にしなくなります。
この物語も、ここで終わっても良かったんですが
とりあえず、晋陽の戦いまでは書く予定です。
これが春秋時代と戦国時代を分けるターニングポイントなので。
なお、戦国時代以降は、あまり興味がありません。
俳人・齋藤愼爾氏の言を借りて表現すれば
「幻の桃源郷の破片が、原始の彩りを以て魂を鋭く揺する」
要素が薄いんです。
自分の中では、春秋時代がギリギリで、原始の色彩を放っている時代です。