第百三十九話 白公の乱と、陳の滅亡
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夏6月、衛荘公が衛都の郊外・平陽で饗宴を催し
孔悝に褒賞を与え、諸大夫にも贈物を下賜した。
その席上で、孔悝は振舞われた酒に酔い
衛荘公が彼を送って帰ったが、深夜、孔悝を追放した。
孔悝は母の孔姫を車に乗せて平陽を発ち
西の平陽門に至ると、副車を孔氏廟がある場所に送り
神主を保管する石箱(祏)を運ばせた。
かつて孔悝の家臣であった子伯季子は
衛荘公が即位してから抜擢され、衛荘公の臣になった。
その子伯季子が孔悝の追撃を衛候に請い、荘公は同意する。
子伯季子は途中で祏を運ぶ孔悝の副車に遭遇したので
孔悝の家臣を殺し、その副車に乗った。
孔悝は、副車が戻って来るのが遅いので
不安になり、家臣の許公為を送った。
許公為が孔子廟に向かう途中で、子伯季子に遭遇した。
「不仁の者と争って負けるはずがない」と、許公為は叫び
子伯季子に、先に矢を射よ、と告げる。
子伯季子は三矢を射たが、いずれも許公為には当たらない。
次に許公為が矢を射ると、一矢で子伯季子を射抜いた。
孔悝が許公為の車を追って合流し
子伯季子が乗っていた車から祏を回収して
一行は宋に亡命した。
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既に43年も昔の事になるが、楚平王の太子・建が
佞臣・費無忌の讒言により、宋に奔り、その後は鄭へ遷った。
鄭で厚遇された太子・建が晋に使いした時に
晋人が鄭を襲う計画を立てており、太子・建もこれに加わった。
鄭に戻った太子・建に晋人が間諜を送り、連絡を取り合う。
しかし、太子・建が鄭から下賜された邑(領地)で
民に対して暴虐な態度を取ったので
邑の民が太子・建と晋の陰謀を鄭に訴えた。
鄭が調査すると、晋の間諜が発見され、事が露見された。
鄭の宰相・子産は太子・建を処刑した。
太子・建には勝という子がいて、この難を避けて呉に亡命した。
それから34年が経って、楚の令尹・子西(太子・建の兄弟)が
勝を楚に招こうとしたが、葉公・沈諸梁が反対した。
「勝は狡猾で乱を好むと聞いています。楚に禍を与えるでしょう」
子西がこれに反論する。
「勝は信があり、勇であると聞いている。
辺境に置けば楚国の守りとなるであろう」
葉公が言う。
「仁に適う事を信といい、義を行うことを勇と称します。
勝は有言を実行し、死を恐れぬ勇士を求めています。
口にした事は不仁でも実践するのは信ではなく
義に合わぬ事に命を懸けるのは勇ではありません。
勝を招けば、子は必ず後悔するでしょう」
子西は葉公の忠告を聞かず、勝を招いて
呉との国境・白県の大夫に任じた。以後、勝は白公と称する。
白公・勝は、父である太子・建の恨みを晴らすため
令尹・子西に鄭の討伐を懇願したが
「未だ楚は不安定である。今少し待ってほしい」
と子西は言って、白公・勝の要請を拒否した。
それから5年が過ぎ、再び白公・勝が鄭討伐を請うと
子西はようやく同意した。
しかし、この時に晋が鄭を攻撃したので
楚昭王は鄭を援け、これと盟約を結んだのである。
この時に令尹・子西は鄭から賄賂を受け取ったとの風評があった。
白公・勝がこれに激怒して叫んだ。
「令尹は鄭人と共にある。同じ我が讎である」
白公・勝は自らの手で剣を磨いた。
それを見た楚の司馬・子期(子西の弟)の子・平が尋ねた。
「白公は、なぜ自ら剣を磨いているのでしょう」
「汝の叔父(子西)を殺す準備をしている」
平はこれを子西に報告した。
子西が言う。
「白公は卵である。わしの翼で温め、生育させている。
わしの死後、楚で令尹や司馬を務めるのは白公である。
敢えてわしを殺し、その地位を奪う必要などない」
これを聞いた白公・勝は侮蔑を込めて語る。
「令尹は勘違いをしている。わしは地位など望んでいない。
彼は我が仇である。天寿を全うさせる事は出来ない。必ず殺さねばならぬ」
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それから4年が過ぎ、この年の夏の事である。
白公・勝が臣下の石乞に語った。
「王と二卿(令尹・子西と司馬・子期)を討つには
五百人の士が必要であろう」
石乞は「白県のみで五百人の士は得られません。
しかし、南方に熊宜僚という勇者がいます。
彼を得れば、五百人に匹敵するでしょう」と告げた。
白公と石乞は熊宜僚に会いに行き、話をした。
大いに満足して挙兵の計画を話したが、熊宜僚はこれを断って
石乞が熊宜僚の首に剣を当てても動じない。
白公、曰く「利に誘惑されず、脅しに屈せず、媚びもしない。
これこそ士である。殺してはならぬ」と言い、立ち去った。
この頃、呉が慎を攻撃したので
白公が兵を率いて呉軍を撃退した。
白公が呉との戦で得た戦利品を献上すると
願い出ると、楚恵王が同意した。
白公は、これを機に乱を起こす決意を固めた。
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秋7月、白公・勝が乱を起こし、令尹・子西と司馬・子期は
朝廷で殺され、楚恵王は白公に捕えられた。
子西は死ぬ間際に「葉公がわしを諫めた通りとなった。
葉公に会わせる顔がない」と言い、袖で顔を隠して死んだ。
子期は「わしは勇力で国君に仕えた。終わりもそうあらねばならぬ」
と言うと、樟木を引き抜き
力尽きるまで敵兵を殺し続けた末に死んだ。
石乞が語る。
「府庫を焼き、王を殺さねば、乱は成功しません」
だが白公は反対した。
「王を殺すのは不祥である。府庫を焼いたら民の蓄えが無くなる。
何をもって国を守るというのか」
石乞がなおも言う。
「楚国を擁して、その民を治め、恭敬な態度で政治を行うのです。
必ず吉祥を得られるでしょう。国の蓄えは他にもあり、心配ありません」
しかし、白公は石乞の進言を聞き入れなかった。
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楚都・郢で白公の乱が起きた時、葉公・沈諸梁は蔡にいた。
異変を聞いた臣下が葉公に語る。「国都に戻るべきです」
しかし葉公は同意しない。
「無道に幸を求める者(白公)は、欲求に際限がない。
我欲のままに事を行い、不公平を招き、人心が離れるまで待つのだ」
その後、白公が楚の隠大夫・管脩を殺したとの報が届き
ようやく葉公は郢に向かう事にした。
管脩は、200年前に斉桓公を覇者にした名宰相・管仲の子孫で
楚に遷っており、賢人として高名であった。
葉公は白公が賢人を殺したと聞いたので
恐れる必要はないと判断し、反撃を開始した。
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楚恵王を拉致して高府(府庫の一つ)に入れ、二卿を処分した白公・勝は
石乞に門を守らせ、楚恵王の叔父・子閭を王に立てようとしたが
子閭は辞退したので、白公は剣を以て脅迫した。
子閭が言う。
「子が楚国を安定させ、楚の社稷を正すと言うなら
それは私の願いでもあるので従おう。
もし、私利を専らにして楚を傾け、それを顧みないのであれば
たとえ私は死ぬとしても、子には従えない」
白公は子閭を殺した。
楚の大夫・圉公陽が王宮の壁に穴を開けて中へ侵入し
恵王を背負って昭夫人(楚昭王の夫人)の宮に運んだ。
蔡から葉公が楚都・郢に到着し、北門に至る。
葉公を見た楚人が忠告する。
「子は甲を被るべきです。
楚の国人は誰もが子を望んでいます。
賊が子を傷つけたら、民の望みが絶たれます」
葉公は助言に従い、甲を被って進んだ。
すると別の楚人に会い、こう言った。
「子はなぜ甲を被っているのでしょう。
楚の国人はみな子を望んでいます。
子の顔を見れば安心して、賊を相手に奮戦するでしょう。
甲で顔を隠すべきではありません」
葉公は甲を脱いで先に進み、人心を安定させ、士気を高めた。
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公宮に向かう途中、箴尹・固に遭遇した。
彼は白公・勝の側に附こうとしていたので、葉公が説得する。
「もし、白公の害した二卿(子西と子期)がいなかったら
楚が呉より侵攻を受けた後、復興出来たであろうか。
子は徳を棄て、賊に従い、国の安全を保てると思われるか」
箴尹・固は白公を棄て、葉公に従う事にした。
葉公は箴尹・固と楚恵王の家臣に白公を攻撃させる。
白公は一戦して敗れ、その後、山に逃げた後
もはや勝機は去ったと見て、自縊して果てた。
石乞は白公の遺体を隠した後、葉公に降伏した。
石乞を捕えた葉公は、白公の死体の場所を尋ねたが
「知っているが、白公に言うなと命じられた」と答える。
葉公は「言わなければ、汝を煮殺す」と脅迫した。
これに石乞は答える。
「白公が勝てば、私は楚国の卿になれたであろう。
だが、負けたら処刑される覚悟は最初から決めていた」
葉公は石乞を煮殺した。
白公・勝の弟・王孫燕は呉の地・頯黄へ逃走した。
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白公の乱を鎮圧した後、葉公が令尹と司馬の政務を兼任する。
その後、乱の後始末を済ませて国が安定すると
子西の子・公孫寧を令尹に任じ
子期の子・公孫寬を司馬に任命した後
自らは告老(引退)して自邑の葉へと退いた。
楚恵王が司馬・公孫寬を楚の北境の地・梁に封じようとしたが
公孫寬これを辞退して王に告げる。
「梁は険要の地で、しかも中原諸侯と接しています。
もし将来、臣の子孫に二心を持つ者が現れれば、楚の憂いとなりましょう。
国君に従う者は恨みを抱かず、もし恨みを持てば上を脅かし
上を脅かせば誅殺を恐れ、二心を抱くようになります。
臣は上を脅かさず、恨みを抱いても二心を持たぬつもりですが
子孫については、臣には分かりかねます」
楚恵王が言う。
「汝の仁は子孫を忘れず、その恩恵は国に宏く及ぶ、
子孫は汝の遺命に必ず従うであろう」
楚恵王は魯陽の地を公孫寬に与えた。
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かつて衛荘公の寵臣が、太叔遺に酒を要求した事があった。
しかし太叔遺は拒否したので、この寵臣はそれを恨んでいる。
ある時、衛荘公が夢を占ったので、寵臣はこれを利用するため
卜人(占い師)と組んで、荘公にこう告げた。
「国君の位置より西南の一角に住む大臣(太叔遺)が
いずれ衛国に害を及ぼす、との事です。彼を除かねばなりません」
衛荘公は太叔遺を追放し、太叔遺は晋に出奔した。
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年が明けて、周の敬王42年(紀元前478年)春正月
衛荘公が渾良夫に訊いた。
「わしは先君を継ぎ、衛候に即位したが、宝器を持たぬ。
先君が魯へ奔った時に府庫より運び出したせいだ。どうすれば良い」
渾良夫が進言する。
「太子・疾と、出奔した先君は、共に我が君の子です。
そこで、先君を呼び戻し、太子と先君を比べて
資質に優れた方を後嗣に選ぶと宣言します。
先君が太子より劣るようであれば、宝器を取り戻せましょう」
この会話を聞いていた衛荘公の童僕が太子・疾に伝えた。
太子・疾は犠牲に用いる豚を用意し、屈強な家臣5人を引き連れて
公宮に向かうと、衛荘公を捕えた。
そして、自分を後嗣にする事と、渾良夫を殺す事を
誓わせるための盟約を結ぶように強制した。
しかし、衛荘公はこれに同意せず、太子に語る。
「わしは衛候に即位する時、渾良夫の死罪に当たる罪を
三回まで赦すという盟約を結んだ。これを違える事は出来ない」
太子・疾は「それでは渾良夫が四回、罪を犯したら
その時こそ、彼を殺してください」と言った。
衛荘公はこれに同意した。
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しばらく後、衛荘公が庭園に虎の装飾を施した小屋を建てた。
小屋が完成すると、天下に名の知られた人物を集め、食事を行った。
この時、太子・疾が渾良夫も参加するように伝えた。
渾良夫は二頭の牡馬に牽かせた車に乗り
紫の衣と狐裘(狐の皮で作った衣)を着て庭園に向かう。
渾良夫は到着すると紫衣と狐裘を脱ぎ、剣を帯びたまま食事を始めた。
それを見て取った太子・疾は渾良夫を捕え、その罪を数えた。
「汝は、国君にしか許されない紫衣を着た。これが罪の一つ。
国君の饗宴で剣を帯びたまま食事をした。これが二つ。
二頭の牡馬に牽かせた車に乗るのは、卿の身分にのみ許される。
だが、汝の身分は大夫に過ぎない。これが三つ。
国君の前で衣服を脱いだ。これで四罪となる」
太子・疾は渾良夫を殺した。
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晋の正卿・趙鞅が衛に使者を送り
衛の太子・疾の聘問を要求した。
「衛君が晋に亡命していた頃、趙氏の元に身を寄せていた事で
趙氏は晋君の譴責を受けております。
衛の太子が晋に来れば、趙氏は譴責から免れますが
もし来なかったら晋君は、趙氏が衛の入朝を拒んでいる、と譴責なさるでしょう」
しかし衛荘公は、国内が安定していないことを理由に
太子・疾の聘問を拒否した。
一方、太子・疾は晋の使者の前で、衛荘公の欠点を訴えた。
夏6月、趙鞅が晋軍を率いて衛都を包囲した。
衛荘公の夫人が斉の公女だった縁から
斉の卿・国観と田瓘が衛を支援する。
晋と斉の会戦が始まる前、晋の勇士が単身で
斉陣に挑戦すべく接近したので、斉軍はこれを捕えた。
田瓘がこの捕虜に接見して語る。
「斉帥を率いる国観は『晋師を避けてはならぬ』とわしに命じた。
わしはこの命に逆らえぬが、汝を煩わせるつもりはない」
そう言うと、田瓘は捕虜を釈放して晋に帰した。
趙鞅は帰還した勇士の報告を聞き、田瓘を恐れた。
「わしは衛の討伐は卜ったが、斉との戦いは卜っていない」
そう言うと、晋軍は衛都の包囲を解き、晋に帰還した。
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楚で白公・勝が乱を起こした時、陳国が
楚の混乱の隙を衝いて侵攻した。
しかし、白公の乱はすぐに平定され、楚は安定したので
楚恵王は陳への報復を考え、諸臣に意見を求めた。
太師・子穀が楚王に告げる。
「右領・差車と左史・老は
かつて陳の討伐に参加した事があり、任せられます」
葉公・沈諸梁がこれに反対した。
「差車と老は身分が低く、兵は侮り、命令に従わないであろう」
子穀は反論する。
「才能のある者を用いる事が大事です。
身分の貴賤は問題ではありません」
なかなか将が決まらないため、楚恵王は卜いで決める事にした。
卜いの結果、公孫朝(子西の子)が吉と出たので
公孫朝が楚軍を率いて陳に侵攻した。
楚の出師を知った陳は兵を出して抵抗したが、敗れた。
楚軍は陳都を包囲する。
秋7月8日、楚の公孫朝は陳都を陥とし
国君・閔公は殺され、陳都は楚の邑となる。
陳の後嗣は絶え、その社稷を継ぐ者はおらず
陳国は滅び、歴史から消えた。
陳の滅亡を見た沈諸梁が語る。
「天命は疑うべきではない。前の令尹(子西)は、陳に恨みを抱いていた。
天が陳を滅ぼそうとして、 令尹の子に加担したのだ」