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東周概略史 ~天の時代~  作者: 友利 良人
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第十三話 天に正道ありや

春秋時代の初期、鄭は強国で、鄭の荘公は後世、小覇と称されましたが

同時期には東の大国・斉もまた同様に諸侯の上に立っていました。


春秋時代、最初に覇者となったのは、有名な斉の桓公ですが

実際は桓公の前から、そのお膳立ては出来上がっていました。




       *     *     *




 斉襄公には、生まれたばかりの女子がいた。

魯荘公には未だ夫人がいないので

荘公の母・文姜はその子と婚約するように言った。


 「生まれたばかりでは、私と歳が離れすぎています」

と荘公は渋ったが、文姜が強く薦めるので

いずれ年頃になれば、という事で婚姻を結んだ。


結果、斉襄公と魯荘公は元から伯父・甥の関係で

さらに婿舅の関係も重なった事になる。



 ある日、斉・魯両君はしょうの地で狩猟を行った。


魯候の放つ矢は百発百中で、斉候は甥の腕前を称賛した。


この時、斉人の中に、魯候は斉侯の養子ではないのか

と言う者がいたので、魯荘公は怒り、その者を殺した。

斉人を殺されても、斉襄公は咎めなかった。


文姜は、この禚の狩り以来、頻繁に兄の斉候と会うようになった。



 斉侯が禚から斉都に帰ると、衛の旧主・さくが紀を亡ぼした祝いに来ており

衛君討伐について尋ねたので、宋、魯、陳、蔡に使者を遣わし

諸侯の連合で衛を討ち、朔を衛君に復位させるための会盟を行った。


 斉襄公は兵車500乗を出し、公子・朔と共に衛の国境に先行し

ほどなく四国の軍勢も集まった。


衛侯は五ヶ国の軍勢が攻めてきたと聞いて

大夫の甯跪ねいきを周に派遣して救援を依頼した。




         *     *     *




 周王は群臣を集め「誰か、衛を救える者はいないか」と聞いたが

周公・忌父きほ、西虢公・伯は口を揃えて

「王室は鄭に敗れて以来、権威を失って、諸侯は王の号令に従いません。

王姫が亡くなった事で斉候と王室の縁戚も消え

しかも斉は四国の兵を糾合し、君主復国の名目もあり、勝ち目はございません」と言う。


 この時、下士の子突が発言した。

「五国の連合に衛を攻める大義名分はございません。

衛君・黔牟けんぼうは王の認可を得ています。公子・朔は衛君になれません」


 虢公がそれをたしなめる。「権威とは力で保証されるものだ。

いかに王の認可があろうとも、王室にかつての力はない。

先王は鄭討伐において、矢を射かけられて負傷し、戦に敗れた。

今、五国の力はその鄭に数倍する。周王が救援を出しても効果はない」


 子突はこれに対し

「天下は、道が武に優っていれば正であり、武が道を押えた時に変が起こります。

王命には道理がなければなりません。正道は一時、力に負けても最後には勝ちます。

道理を弁えぬ者が力を振りかざし、誰もこれに逆らわぬ場合

天下に善悪の基準がなくなり、王の存在意義はなくなるでしょう」と反論した。


 周公が発言した。

「衛を救援する軍を出すなら、卿が王軍を率いるのか」


「王軍は司馬の管轄であり、臣の任ではありませんが

お許しいただければ、司馬の代理として衛に赴きます」


「勝算はあるのか」


「道義に基づき、五国が罪を悔いて撤兵してくれれば宜しいのですが

何とも申せません」


「突が行けば、王室を思うものが現われるかも知れません」

大夫の富辰ふしんがそう言うと、周王も承知した。


 衛の使者、甯跪は帰国し、間もなく子突の率いる王軍が進発した。

周、虢両公は子突の成功を嫌い、兵車200乗しか与えなかった。




         *     *     *




 この頃、五国の軍はすでに衛都・朝歌を包囲しており

衛は王軍の到着を待ち望んでいた。


 しかし、子突の率いる王軍は

陣を張る前に五国の襲撃を受け、壊滅した。


子突は「王命を奉じて戦死するも忠義の魂は失わず」

と言って、敵陣に斬り込み、数十人を斬って力尽き、自刎して果てた。


衛兵は王軍が破れたと聞き、万策尽きたと判断し、逃亡した。


残された者は諸侯軍に降伏して、公子・朔は衛城に入った。



 公子・せつ、公子・職、甯跪は僅かな兵と共に

衛君・黔牟を擁して衛都を出たが

途中で魯軍に遭遇して敗れ、甯跪は秦に逃亡し、三公は捕えられた。


 魯侯は衛の三公子を朔に渡したが、処分を決しかねて斉候に預けた。

斉襄公は公子・泄と公子・職を斬り、先君・黔牟は周都に護送した。



 朔は復位し、再び衛恵公となった。

約束通り、斉襄公に衛都の倉に蔵された宝を献上した。


斉襄公は、三公子を捕えた魯候の功を評価し

衛から贈られた財宝の半分を魯侯に贈与し

宋、陳、蔡にも十分に謝礼を贈った。




         *     *     *




 斉襄公は子突を破り、衛の先君・黔牟を放逐した後、周王の討伐に備えて

連称れんしょう管至父かんしほ葵丘ききゅう(現在の山東省淄博)への駐屯を命じた。


 彼らは出発前に襄公に尋ねた。

「任期は何時まででしょう」


 襄公はその時、瓜を食べていたので

「今は瓜が熟した時期であるから、来年の瓜が熟す頃に後任を送る」



 二将は葵丘に駐留し、一年が過ぎた。


 ある日、兵が初物の瓜を持ってきた。

二将はそれを見て約束を思い出し、斉都へ使いを送って斉候の様子を探らせたところ

斉侯は谷城で文姜と戯れ、約束を忘れていた。


報告を聞いた連称は怒り、斉候を暗殺しようと管至父に持ち掛けた。

「我々を辺境に追いやり、実妹と戯れる者を斉君とは認めぬ」


「我が君は瓜が熟す頃に交代させると申されました。

まず交代をお願いして、それが聞き入れられなければ実行しましょう」


管至父はそう宥め、連称も納得した。



 両将は使者を送り、襄公に瓜を献上して、交代を願い出た。


 襄公は怒って「交代を出すかどうかはわしが決める事である。

汝等の請いは認めん。来年の瓜が熟すまで、もう一年待つがよい」


 使者が帰って報告すると、連称は管至父に告げた。

「最早、やるしかあるまい。そなたに策はないか」


「主君を弑逆するならば、上に戴く者を用意せねばなりません」

「誰か適任の者はおらぬか」

「我が君の甥、公孫無知に話をしてみましょう。

以前より我が君に反感を持ち、密かに謀反を企んでいると噂されています」


 連称と管至父は腹心の側近を公孫無知に送り

彼らの決心を綴った手紙を届けた。



 二将からの手紙を読んだ公孫無知は

自身が斉候になれる時が来たと喜び、同意する返信を送った。


この頃、連称の従妹が斉襄公の後宮に入っているが、寵を受けていない。

そこで公孫無知は、この女性を利用して襄公の身辺を探らせ

事が成就し、自らが斉候に就いた暁には、夫人にする事を約束した。




         *     *     *




 周荘王の11年(紀元前686年)の冬

斉襄公は姑棼こふんの郊外、貝丘山ばいきゅうざんへ狩りに行くと決めた。


これを聞いた公孫無知は、葵丘の二将に伝えた。



 連称は「我が君が狩に出て、国が空になった所で

斉都を襲撃して公孫殿を擁立しようと思う」と管至父に話した。


「我が君は、斉に隣接する魯の国君と叔父・甥の関係です。

もし、魯国に援軍を依頼したら防げないでしょう。

そこで、姑棼に伏兵を置き、先に主君を弑してから

公孫に即位して頂く方が万全です」


連称は同意し、密かに兵を率いて貝丘山へ向かった。



 斉襄公は予定通り、11月に姑棼へ出発した。

率いるは力士の石之紛如せきしふんじょ、宦官の孟陽もうよう、それに鷹と犬だけである。


 貝丘に着くと、襄公と家臣らは慣れた段取りで

周囲を柵で囲み、林に火をつけて鷹、犬を放った。


 突然、火の中から巨大な猪が飛び出し、襄公の車の前に来て拝跪はいきした。


この時、家臣は皆狩りに出ており、襄公の側には孟陽しかいない。


襄公は「孟陽、あの大猪を射よ」と命じた。


孟陽は弓をつがえ、大猪を凝視すると

「我が君、この大猪は、公子・彭生です」と叫んだ。


「8年も昔に処刑した彭生が、なぜ大猪の姿でここに現れたのだ」

襄公は怒り、孟陽の弓を取上げて自分で射たが、当たらない。


大猪は二本足で立上がり、歩いて襄公に近づくと、大声で吠えた。


 襄公は恐れ戦いて車から落ち、足をくじいて、片方のくつが脱げ落ちた。

大猪は、その沓を咥えて、何処かへと逃げ去った。


従者が襄公を助け起こして車に寝かせ、狩を中止して姑棼の離宮に帰った。




         *     *     *




 離宮へ戻った襄公は、沓を無くした事に気づいたので

徒人・費に持ってくるよう命じた。

「沓は大猪が咥えてく行き、見つけられませんでした」

襄公は怒って、費の背中を鞭で打った。


費が帰宅するのに門を出ると

丁度、連称が兵を引連れて来たところに遭遇し、捕えられた。


「我が君はどこにおられる」

「寝室です」

「もう寝ているか」

「まだです」

連称は苛立ち、費を斬ろうとしたので

「臣が我が君の寝室へご案内しますから、お赦し頂きたい」

と命乞いした。


だが、連称は費の言を信用せず、なおも斬ろうとしたので

費は服を脱ぎ、先刻、斉候の鞭で打たれた背を見せた。


連称はそれを見て彼を信じ、案内するように命じて

管至父の元へ使者を送って連絡した。



 費が離宮に戻ってくると、石之紛如に出会ったので

連称が謀反を起こした事を告げた。

その後、すぐ寝室へ向かい、襄公にも知らせた。


費の報せを聞いた襄公は恐れて、寝台の下に隠れた。

孟陽は襄公の身代わりにるため、同じ寝衣を着て寝台に横たわった。



 ほどなく連称は兵を率いて乱入してきたので

徒人・費と石之紛如は剣を取ってこれと戦ったが

連称の兵に取り囲まれて討ち取られた。


連称は襄公の寝室に突入して、、寝台に寝ている人影を両断した。

だが、遺体を見ると、それは襄公ではなく、孟陽であった。


 部屋中を見渡すと、寝台近くの床に片方の沓が落ちている。

それは、襄公が大猪に取られたはずの沓であった。


連称は寝台の下を除く。果たして本物の襄公が隠れていた。


連称は襄公の罪を宣言して、これを斬った。



 翌日、斉襄公の遺体は、費、石之紛如、孟陽らと共に

姑棼の離宮の庭に埋められた。




      連称が見た沓は、先に大猪がくわえて行ったはずである。

      なぜそれが、襄公の寝室に転がっていたのであろうか。

      冤罪を受けた亡霊の復讐であったのか。恐ろしい話である。




 こうして、人の道を外した暴君・斉襄公は

多くの恨みを買い、最後は家臣の手により弑逆された。


 連称と管至父は斉都に帰国し、公孫無知は彼らを迎え入れた。

公孫無知が新たな斉君となった。



 連称の従妹、連妃が斉候夫人となり

連称は斉の宰相になって国舅と号し、管至父は亜卿あけい(次席の卿)となった。


だが、いかな暴君であったとはいえ、国君を弑逆して

自らが即位した者に、斉の諸大夫は心服していない。


斉の宿老たる高氏と国氏は病と称し、参内しなかった。




          *     *     *




      周の王権が力を喪失して、20年余りが過ぎた。


       「天下は、道が武に優っていれば正である」

  と唱えた周の下大夫・子突は、僅かな兵と共に討死した。誰がこれを哂えよう。



           鄭、斉、衛、宋、魯、陳、蔡など

         有力諸侯は力の赴くまま、気儘に振舞い

     これを統べる存在はなく、天下に礼が失われて久しい。


     黄河の畔は混迷を極め、民の怨嗟が地上に満ちた。



      果たして、天がこの地の混沌を嘆いたか

  ほどなく、王権とは異なる秩序を敷く者が、斉に現れることとなる。



斉襄公の最期については、東周列国史を参考にしました。

元より創作の色濃い逸話ですが、彼が謀反によって殺されたのは史実です。


なお、妹・文姜との相姦関係も、作り話の可能性が高いです。

それだけ方々に恨みを買っていた人物なので

このような逸話が生まれ、現在まで残ったのでしょう。

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