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東周概略史 ~天の時代~  作者: 友利 良人
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第百三十八話 哲人、逝く




   *    *    *




 周の敬王40年(紀元前480年)春正月

魯の成邑せいゆうが叛し、斉に帰属したので

魯の上卿・仲孫彘ちゅうそんていが成を討伐した。


しかし、魯は敗れ、仲孫彘は輸に城を築いた。




     *    *    *




 夏、楚の重臣・子西しせい子期しきが呉を攻撃し、桐水とうすいに至る。



陳の閔公びんこうが呉を慰労するために

大夫・公孫貞子こうそんていしを使者として呉に送ったが

公孫貞子は呉都に近い良邑りょうゆうで死んだため

配下の陳人は公孫貞子の霊柩れいきゅうを呉に運ぼうとした。



 呉王・夫差は太宰たいさい伯嚭はくひを送って陳の使者を慰労した。


(なお、この時点では、まだ呉は越に滅ぼされていない)


「今の呉国は雨季にあり、洪水で霊柩を損なう恐れがある。

それは我が君の憂いを増やす事となるので

我が君は陳国の聘問へいもんを敢えて辞退すると申された」


陳の上介(副使の筆頭)を勤める芋尹ういんがいが言う。

「陳君は、楚の無道によって呉国を侵し、良民を失わせていると聞き

臣を使者に加え、呉君を慰問させました。

今、不幸にも使者は天憂てんゆうに遭い、命を落としましたが

我々は君命を廃さないため、呉国に向かっています。

ところが今、呉君は、霊柩が呉都に至る必要はないと臣に伝えました。

これは君命を草莽そうもうに棄てるようなものです。

礼を棄てて、諸侯の主になれるでしょうか。

君命を奉じるためであれば、洪水に遭って命を落としたとしても

それは天命なので、呉国の過ちではありません」


呉は陳の使者を受け入れた。




     *    *    *




 秋、斉の田瓘でんかん(斉の相国・田常でんじょうの兄)が楚に向かう途上

衛を通過した時、衛の卿・孔悝こうかいに仕える子路しろ(孔子の弟子)が

田瓘に会い、こう語った。


「天は田氏を斧斤ふきんとして、斉の公室を削り

いずれ田氏がそれを享受するでしょう。

今、成邑の事で、斉と魯は争っていますが

田氏にとっては、魯との関係を改善し、時を待つのが良策でしょう。

敢えて魯国との関係を悪くする事はありません」


田瓘がこれに返答する。

「臣はあなたの言を受け入れましょう。

弟(田常)にも、それを伝えてください」




     *    *    *




 冬、魯と斉が講和するため、魯の子服何しふくかが斉に入った。

子貢しこう(孔子の弟子)が介(副使)を務める。


子貢が魯から斉に帰順した成邑の宰(統治者)・公孫宿こうそんしゅくに告げた。

「人は皆、臣下という立場にいますが、主に背く者もいます。

斉人はあなたに力を貸していますが、二心を抱いていませんか。

あなたは魯国の祖・周公旦しゅうこうたんの末裔で

魯の公室から代々、恩恵を享受しながら不義を行っている。

祖先から受け継がれてきた利を得る事が出来なくなり

宗国を失うことになっては、今後どうするでしょう」


公孫宿が言う。

「臣はもっと早く、あなたの言を聞くべきであった。その通りです」



 斉の田常が賓館ひんかんで、魯の子服何に面会した。

「斉君は臣に対し、魯の使者にこう伝えよと申された。

『わしは衛君に仕えているように、魯君にも仕えたい』」


子伯何は子貢を前に出し、田常に返答を伝えさせた。

「それは魯候の願いでもあります。21年前、晋が衛を攻めた時

斉は衛を援けるために晋を攻め、兵車五百を失う大敗を喫しましたが

当時の斉君・景公は衛に、自らの領地を割いて

済水せいすいより西のしゃくきょうの三邑を与えたのです。

しかし7年前、呉が魯に乱を加えた時は、斉は魯の困難に付け入り

魯からかんせんの二邑を奪い、斉に失望しました。

もし、魯が衛のように斉に仕える事が叶えば、それは我が君の願うところです」


田常は子貢の話を聞いて大いに恐縮し、成邑を魯に返還する事にした。


成邑の宰・公孫宿は兵を連れて斉の邑・えいに移った。




     *    *    *




 衛の卿・孔圉こうぎょは太子・蒯聵かいかいの姉・孔姫こうきを娶って孔悝こうかいを産んだ。


孔氏の家臣に渾良夫こんりょうふという、背の高い美男子があり

孔圉の死後、寡婦となった孔姫は、彼と通じるようになった。



 この頃、蒯聵は戚邑せきゆうにいた。

孔姫が蒯聵の住居に渾良夫を送ると、蒯聵は彼にこう告げた。

「もし汝が私を衛の国都に入れる事が出来れば

汝を大夫に任じ、孔姫を妻に迎えさせ

死罪に及ぶ罪を犯しても、三度まで赦す特権を与えよう」


渾良夫は喜び、蒯聵と盟約を結んで、孔姫に協力を求めた。




     *    *    *




 冬12月、渾良夫と蒯聵が衛都・帝丘に入り

孔氏の外圃がいほ(家の外の菜園)に住んだ。


日が暮れてから、二人は女装をして車に乗り

寺人(宦官)のが御者になり、孔氏の家に向かった。


二人の訪問を受けた孔氏の家老・欒寧らんねいが誰かと問うと、

姻妾いんしょう(婚姻関係にある家の婢妾ひしょう)です」と答えた。

欒寧は蒯聵と渾良夫を中に通した。



 蒯聵と渾良夫は孔姫に会って食事をした後

孔姫がを持って部屋に入り、蒯聵と五人の配下は

武装して部屋を出て、盟約の犠牲に使う豚を載せた車が後に続く。


孔悝を見つけた蒯聵等は、孔悝を脅迫して盟約を強制し

孔氏の家に建てられた台に登った。


欒寧は異変に気づき、子路(季子)に急使を送って変事を告げた。


同時にかくを御者にして

車上で酒を飲み、肉を食べながら衛の公宮に向かった。

車上での飲食は、恐れを抱いていない事を表している。


欒寧は衛出公を奉じ、魯に出奔した。




     *    *    *




 子路が衛都に向かう途中で

衛都を出た子羔しこう(衛の大夫・孔子の弟子)に会った。


子羔「衛都の門は既に閉められた」

子路「それでも私は行かねばならない」

子羔「もう間に合わない。わざわざ難を受ける必要はない」

子路「私は孔氏の禄をんできた。難から逃げる訳にはいかない」


子羔は衛を出奔して孔子のいる魯に向かい、子路は衛都に入った。



 孔氏の家の門は孔悝の臣・公孫敢こうそんかんが守っている。

子路が到着すると、公孫敢が閉じられた門の内側から告げた。

「入っても無駄である」


公孫敢の声を聞いた子路が言う。

「汝は蒯聵のために門を守って利を求め、難から逃げている。

私は孔氏の禄を利とするから、孔氏の難を救わなければならぬ」


この時、家の中から使者が外に出た。

子路はその隙に門内に突入し、台上の蒯聵に語った。

「太子(蒯聵)が衛候となれば、孔氏を重く用いましょうか。

もし太子が孔氏を殺しても、後に続く者が出てくるでしょう」


子路は更に言う。

「太子は無勇である。台に火を放てば、孔氏を放すであろう」


子路が火をつけると聞いて恐れた蒯聵は

石乞せききつ盂黶もうえんを台の下に送り、子路を攻撃させた。

甲冑を着けていない子路はで撃たれ、冠の紐が切れた。


子路は「君子は冠を正しく被って死ぬのだ」と言って紐を結び直し

その間に戈で全身を切り裂かれて死んだ。



 衛で乱が起きたと聞いた孔子は

「子羔は戻って来るが、子路は死ぬだろう」と言い

果たしてその通りになった。


その後、子路の遺体がかい(塩漬け肉)にされたと聞いた孔子は

家にある全ての肉を捨てるように命じて

以後、死ぬまで肉を一切食べなかったという。




     *    *    *




 孔悝は蒯聵と盟約を結び、衛の国君に立てた。衛荘公である。

荘公は、衛出公に仕えていた群臣を信用出来ないので、排除を考えた。


まず、司徒・子還成しかんせいに語る。

「わしは長く国外にあり、困難を味わった。汝も同じ経験をせよ」


子還成は退出してから褚師比ちょしひにこの事を告げて

共に衛荘公を攻撃しようとしたが、実行する機会は得られなかった。


衛荘公はその後、群臣を皆殺しにしようとしたが

群臣が結束して謀反を起こそうとしたので、諦めた。



 かつて太子・蒯聵に仕えていた公孟彄こうもうきょう

5年前に蒯聵を見限り、衛に帰国して大夫になっていた。


蒯聵が衛君に即位して衛荘公となった事により

公孟彄は衛候からの報復を恐れて、斉に亡命した。




     *    *    *




 天体で、熒惑けいわく(火星)が心宿しんしゅくを守った。

天体を12分割すると、心宿は宋の位置を示す。


宋景公がこれを憂うと、司星しせい(天体を観測する官)・子韋しいが言う。

「天の禍を臣下の身に移す事が出来ます」


景公「股肱の臣に禍を移す訳にはいかない」

子韋「禍を民に移す事が出来ます」

景公「民あっての国君である。禍を移す事は出来ない」

子韋「禍を収穫に移す事が出来ます」

景公「不作になれば民が困窮する。禍を移す訳にはいかない」


子韋「天は高くとも、低い所に住む者の言を聞きます。

今、我が君は人君となる三言があったので

熒惑は自然に動き、宋を離れるでしょう」


熒惑を観測すると、三度移動した。




     *    *    *




 周敬王41年(紀元前479年)春2月

衛の子還成と褚師比が宋に出奔した。


衛荘公が大夫・鄢肸えんきつを周都に派遣して周王室に報告する。

「衛候は太子の頃、父母の罪を得て晋に奔りましたが

晋は王室との縁により、同姓を棄てず(周、晋、衛いずれも姫姓)

その身をを河上(黄河の辺)に置きました。

その後、太子は天の恩を受け、衛候に即位が叶いました。

衛候はここに、臣を天子の元へ送り、これを報告します」


周敬王が卿士・単平公ぜんへいこうに言葉を伝えさせる。

「汝の主が先君を継ぐことを周室はよみし、その地位を回復させる。

恭敬であれば、天が衛候に福を与えるであろう」




     *    *    *




 孔子が病に罹ったと聞いた子貢が見舞いに来た。


この時、孔子は杖をついて屋敷の門の周りを歩いていた。

「子貢よ、汝はなぜ来るのが遅くなったのか」

と言い、嘆息して歌った。

「太山が崩れ、梁柱が倒れ、哲人は終わる」


孔子が涙を流して子貢に言う。

「天下が道を失って久しく、私の考えに賛同する者もいない。

我が先祖はいん人である。葬儀は殷の葬礼に従え」


7日後の夏4月11日、孔子は亡くなった。

享年は72歳、あるいは73歳であった。



 魯哀公が孔子を追悼して語った。

「天は魯を見放し、国老を残さず、ただ魯候一人にのみ位を守らせる。

今、模範とする者がいなくなった。我はこれを哀しみ、憂う」


これを聞いた子貢が言う。

「国君は魯で良い終わりを迎えられない。

夫子(孔子)はかつてこう言った。

『礼を失えば暗愚になり、秩序を失ったら過失となる』

夫子(孔子)が生きている間は用いなかったのに

死後、態度を変える事は非礼にあたる」




     *    *    *




 孔子は魯城の北、泗水しすいの沿岸に埋葬された。

孔子の弟子は三年の喪に服した。


三年後、弟子たちは、ある者は去り、ある者は留まった。


子貢は孔子の墓の近くに小屋を建て、六年の喪に服してから去った。


百を超える家の弟子や魯の国人が

孔子の墓の周りに集まり、村を形成し、孔里こうりと命名される。


魯国では代々、孔子冢こうしちょう(墓)で歳祀を行い

儒学者も孔子冢を訪れ、儀礼や儀式について語るようになった。

孔子冢の大きさは一頃(1.82ヘクタール)あったという。


孔子が住んでいた居宅の堂や弟子の部屋は

後に『孔子廟こうしびょう』となり、孔子の衣冠、琴、車、書籍が収蔵された。



春秋時代と戦国時代の境界は、昔から所説ありますが

「孔子の死」も一説としてはありかもしれません。

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