第百三十八話 哲人、逝く
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周の敬王40年(紀元前480年)春正月
魯の成邑が叛し、斉に帰属したので
魯の上卿・仲孫彘が成を討伐した。
しかし、魯は敗れ、仲孫彘は輸に城を築いた。
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夏、楚の重臣・子西と子期が呉を攻撃し、桐水に至る。
陳の閔公が呉を慰労するために
大夫・公孫貞子を使者として呉に送ったが
公孫貞子は呉都に近い良邑で死んだため
配下の陳人は公孫貞子の霊柩を呉に運ぼうとした。
呉王・夫差は太宰・伯嚭を送って陳の使者を慰労した。
(なお、この時点では、まだ呉は越に滅ぼされていない)
「今の呉国は雨季にあり、洪水で霊柩を損なう恐れがある。
それは我が君の憂いを増やす事となるので
我が君は陳国の聘問を敢えて辞退すると申された」
陳の上介(副使の筆頭)を勤める芋尹・蓋が言う。
「陳君は、楚の無道によって呉国を侵し、良民を失わせていると聞き
臣を使者に加え、呉君を慰問させました。
今、不幸にも使者は天憂に遭い、命を落としましたが
我々は君命を廃さないため、呉国に向かっています。
ところが今、呉君は、霊柩が呉都に至る必要はないと臣に伝えました。
これは君命を草莽に棄てるようなものです。
礼を棄てて、諸侯の主になれるでしょうか。
君命を奉じるためであれば、洪水に遭って命を落としたとしても
それは天命なので、呉国の過ちではありません」
呉は陳の使者を受け入れた。
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秋、斉の田瓘(斉の相国・田常の兄)が楚に向かう途上
衛を通過した時、衛の卿・孔悝に仕える子路(孔子の弟子)が
田瓘に会い、こう語った。
「天は田氏を斧斤として、斉の公室を削り
いずれ田氏がそれを享受するでしょう。
今、成邑の事で、斉と魯は争っていますが
田氏にとっては、魯との関係を改善し、時を待つのが良策でしょう。
敢えて魯国との関係を悪くする事はありません」
田瓘がこれに返答する。
「臣は子の言を受け入れましょう。
弟(田常)にも、それを伝えてください」
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冬、魯と斉が講和するため、魯の子服何が斉に入った。
子貢(孔子の弟子)が介(副使)を務める。
子貢が魯から斉に帰順した成邑の宰(統治者)・公孫宿に告げた。
「人は皆、臣下という立場にいますが、主に背く者もいます。
斉人は子に力を貸していますが、二心を抱いていませんか。
子は魯国の祖・周公旦の末裔で
魯の公室から代々、恩恵を享受しながら不義を行っている。
祖先から受け継がれてきた利を得る事が出来なくなり
宗国を失うことになっては、今後どうするでしょう」
公孫宿が言う。
「臣はもっと早く、子の言を聞くべきであった。その通りです」
斉の田常が賓館で、魯の子服何に面会した。
「斉君は臣に対し、魯の使者にこう伝えよと申された。
『わしは衛君に仕えているように、魯君にも仕えたい』」
子伯何は子貢を前に出し、田常に返答を伝えさせた。
「それは魯候の願いでもあります。21年前、晋が衛を攻めた時
斉は衛を援けるために晋を攻め、兵車五百を失う大敗を喫しましたが
当時の斉君・景公は衛に、自らの領地を割いて
済水より西の禚、媚、杏の三邑を与えたのです。
しかし7年前、呉が魯に乱を加えた時は、斉は魯の困難に付け入り
魯から讙と闡の二邑を奪い、斉に失望しました。
もし、魯が衛のように斉に仕える事が叶えば、それは我が君の願うところです」
田常は子貢の話を聞いて大いに恐縮し、成邑を魯に返還する事にした。
成邑の宰・公孫宿は兵を連れて斉の邑・嬴に移った。
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衛の卿・孔圉は太子・蒯聵の姉・孔姫を娶って孔悝を産んだ。
孔氏の家臣に渾良夫という、背の高い美男子があり
孔圉の死後、寡婦となった孔姫は、彼と通じるようになった。
この頃、蒯聵は戚邑にいた。
孔姫が蒯聵の住居に渾良夫を送ると、蒯聵は彼にこう告げた。
「もし汝が私を衛の国都に入れる事が出来れば
汝を大夫に任じ、孔姫を妻に迎えさせ
死罪に及ぶ罪を犯しても、三度まで赦す特権を与えよう」
渾良夫は喜び、蒯聵と盟約を結んで、孔姫に協力を求めた。
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冬12月、渾良夫と蒯聵が衛都・帝丘に入り
孔氏の外圃(家の外の菜園)に住んだ。
日が暮れてから、二人は女装をして車に乗り
寺人(宦官)の羅が御者になり、孔氏の家に向かった。
二人の訪問を受けた孔氏の家老・欒寧が誰かと問うと、
「姻妾(婚姻関係にある家の婢妾)です」と答えた。
欒寧は蒯聵と渾良夫を中に通した。
蒯聵と渾良夫は孔姫に会って食事をした後
孔姫が戈を持って部屋に入り、蒯聵と五人の配下は
武装して部屋を出て、盟約の犠牲に使う豚を載せた車が後に続く。
孔悝を見つけた蒯聵等は、孔悝を脅迫して盟約を強制し
孔氏の家に建てられた台に登った。
欒寧は異変に気づき、子路(季子)に急使を送って変事を告げた。
同時に獲を御者にして
車上で酒を飲み、肉を食べながら衛の公宮に向かった。
車上での飲食は、恐れを抱いていない事を表している。
欒寧は衛出公を奉じ、魯に出奔した。
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子路が衛都に向かう途中で
衛都を出た子羔(衛の大夫・孔子の弟子)に会った。
子羔「衛都の門は既に閉められた」
子路「それでも私は行かねばならない」
子羔「もう間に合わない。わざわざ難を受ける必要はない」
子路「私は孔氏の禄を食んできた。難から逃げる訳にはいかない」
子羔は衛を出奔して孔子のいる魯に向かい、子路は衛都に入った。
孔氏の家の門は孔悝の臣・公孫敢が守っている。
子路が到着すると、公孫敢が閉じられた門の内側から告げた。
「入っても無駄である」
公孫敢の声を聞いた子路が言う。
「汝は蒯聵のために門を守って利を求め、難から逃げている。
私は孔氏の禄を利とするから、孔氏の難を救わなければならぬ」
この時、家の中から使者が外に出た。
子路はその隙に門内に突入し、台上の蒯聵に語った。
「太子(蒯聵)が衛候となれば、孔氏を重く用いましょうか。
もし太子が孔氏を殺しても、後に続く者が出てくるでしょう」
子路は更に言う。
「太子は無勇である。台に火を放てば、孔氏を放すであろう」
子路が火をつけると聞いて恐れた蒯聵は
石乞と盂黶を台の下に送り、子路を攻撃させた。
甲冑を着けていない子路は戈で撃たれ、冠の紐が切れた。
子路は「君子は冠を正しく被って死ぬのだ」と言って紐を結び直し
その間に戈で全身を切り裂かれて死んだ。
衛で乱が起きたと聞いた孔子は
「子羔は戻って来るが、子路は死ぬだろう」と言い
果たしてその通りになった。
その後、子路の遺体が醢(塩漬け肉)にされたと聞いた孔子は
家にある全ての肉を捨てるように命じて
以後、死ぬまで肉を一切食べなかったという。
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孔悝は蒯聵と盟約を結び、衛の国君に立てた。衛荘公である。
荘公は、衛出公に仕えていた群臣を信用出来ないので、排除を考えた。
まず、司徒・子還成に語る。
「わしは長く国外にあり、困難を味わった。汝も同じ経験をせよ」
子還成は退出してから褚師比にこの事を告げて
共に衛荘公を攻撃しようとしたが、実行する機会は得られなかった。
衛荘公はその後、群臣を皆殺しにしようとしたが
群臣が結束して謀反を起こそうとしたので、諦めた。
かつて太子・蒯聵に仕えていた公孟彄は
5年前に蒯聵を見限り、衛に帰国して大夫になっていた。
蒯聵が衛君に即位して衛荘公となった事により
公孟彄は衛候からの報復を恐れて、斉に亡命した。
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天体で、熒惑(火星)が心宿を守った。
天体を12分割すると、心宿は宋の位置を示す。
宋景公がこれを憂うと、司星(天体を観測する官)・子韋が言う。
「天の禍を臣下の身に移す事が出来ます」
景公「股肱の臣に禍を移す訳にはいかない」
子韋「禍を民に移す事が出来ます」
景公「民あっての国君である。禍を移す事は出来ない」
子韋「禍を収穫に移す事が出来ます」
景公「不作になれば民が困窮する。禍を移す訳にはいかない」
子韋「天は高くとも、低い所に住む者の言を聞きます。
今、我が君は人君となる三言があったので
熒惑は自然に動き、宋を離れるでしょう」
熒惑を観測すると、三度移動した。
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周敬王41年(紀元前479年)春2月
衛の子還成と褚師比が宋に出奔した。
衛荘公が大夫・鄢肸を周都に派遣して周王室に報告する。
「衛候は太子の頃、父母の罪を得て晋に奔りましたが
晋は王室との縁により、同姓を棄てず(周、晋、衛いずれも姫姓)
その身をを河上(黄河の辺)に置きました。
その後、太子は天の恩を受け、衛候に即位が叶いました。
衛候はここに、臣を天子の元へ送り、これを報告します」
周敬王が卿士・単平公に言葉を伝えさせる。
「汝の主が先君を継ぐことを周室は嘉し、その地位を回復させる。
恭敬であれば、天が衛候に福を与えるであろう」
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孔子が病に罹ったと聞いた子貢が見舞いに来た。
この時、孔子は杖をついて屋敷の門の周りを歩いていた。
「子貢よ、汝はなぜ来るのが遅くなったのか」
と言い、嘆息して歌った。
「太山が崩れ、梁柱が倒れ、哲人は終わる」
孔子が涙を流して子貢に言う。
「天下が道を失って久しく、私の考えに賛同する者もいない。
我が先祖は殷人である。葬儀は殷の葬礼に従え」
7日後の夏4月11日、孔子は亡くなった。
享年は72歳、あるいは73歳であった。
魯哀公が孔子を追悼して語った。
「天は魯を見放し、国老を残さず、ただ魯候一人にのみ位を守らせる。
今、模範とする者がいなくなった。我はこれを哀しみ、憂う」
これを聞いた子貢が言う。
「国君は魯で良い終わりを迎えられない。
夫子(孔子)はかつてこう言った。
『礼を失えば暗愚になり、秩序を失ったら過失となる』
夫子(孔子)が生きている間は用いなかったのに
死後、態度を変える事は非礼にあたる」
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孔子は魯城の北、泗水の沿岸に埋葬された。
孔子の弟子は三年の喪に服した。
三年後、弟子たちは、ある者は去り、ある者は留まった。
子貢は孔子の墓の近くに小屋を建て、六年の喪に服してから去った。
百を超える家の弟子や魯の国人が
孔子の墓の周りに集まり、村を形成し、孔里と命名される。
魯国では代々、孔子冢(墓)で歳祀を行い
儒学者も孔子冢を訪れ、儀礼や儀式について語るようになった。
孔子冢の大きさは一頃(1.82ヘクタール)あったという。
孔子が住んでいた居宅の堂や弟子の部屋は
後に『孔子廟』となり、孔子の衣冠、琴、車、書籍が収蔵された。
春秋時代と戦国時代の境界は、昔から所説ありますが
「孔子の死」も一説としてはありかもしれません。