第百三十七話 呉の滅亡
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本国が越の侵攻を受けたと聞いた呉王・夫差は
黄池の会盟から帰国したところである。
越軍は既に退いたので、夫差は兵と民を休めるために
越への報復を兼ねた侵攻は見合わせて
越に使者を送り、一旦は講和を結ぶ事にした。
越の大夫・文種が越王・句践に進言する。
「呉が越に攻め入る様子は見受けられず、師(軍)を休めています。
呉の民は疲弊し、食がなく飢えている様子。
今は呉に休息の時を与えず、戦って呉の利を奪うべきです。
呉が再戦を望んでも、我々が勝つでしょう。
もし、呉が越と講和を求めるなら、越に有利な条件で結びましょう」
越王は同意して「汝の言、大いに善し」と言い
再び、呉を討伐する準備を始めた。
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この時、楚の大夫・申包胥が使者として越に来た。
越王が申包胥に質問する。
「呉君は無道にも越の社稷・宗廟を滅ぼし
我が祖先を辱め、祭祀を絶やそうとした。
わしは呉と越、どちらが天の正義を得るか決めるべく
兵車、士卒を既に準備したが、勝つ条件とは何であろうか」
申包胥は「臣には答えかねます」と言い、即答を避けたが
勾践は頑なに質問を続けたので、申包胥が返答する。
「呉は強国です。諸侯から貢賦を得られるでしょう。
越君はこれに対し、何に頼って戦うのでしょう」
「わしは臣民と飲食を共にし、質素と倹約に徹する事で
呉へ報復する時を待ち、その疲弊を討つ事で勝ちを得るつもりだ」
「その道は間違ってはおりませんが
それだけで呉と戦い、勝つ事は難しいでしょう」
「越に病人がいれば、わしは自ら慰め、死者は自ら埋葬し
老人を敬い、子を慈しみ、孤児を育て、民の苦難を取り除いてきた。
これらによって勝ちを得たいと思う」
「それは善事ですが、所詮は小恵に過ぎません」
「わしは民に対し、我が子のように寛容であり
誠実と慈恵で民に接してきた。政令を正し、刑罰を緩め
民の欲する物を施し、嫌うことを除き、善を称え、悪を制してきた」
「それは聖王の道と言えましょう。しかし呉を討つには足りません」
「富む者から財を奪わず、貧者に施しを与えて不足を補い
余った物を税として納めさせ、貧富の両者に利をもたらしてきた」
「素晴らしい事ですが、まだ戦えません」
「呉・越の西に楚があり、北西には晋、北には斉がある。
わしはこれら大国に多大な財物、子女を献上して服従を示して
諸国との友好関係を続けている」
「それ以上加えることは出来ないでしょう。
しかし、それでもまだ呉とは戦えません。
戦とは智が始めにあり、仁を次とし、勇がこれに次ぎます。
不智は民を知る事も、天下を測る事も出来ません。
不仁では兵と飢労の苦難を共に出来ません。
不勇では困難に対して決断する事が出来ません」
勾践は「子の言が良く分かった」と言って納得した。
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越王・句践が舌庸、苦成、文種、范蠡、皋如を招いた。
五人とも越の有力大夫である。彼らに質問をした。
「わしは呉を討つための条件を、楚の申包胥に尋ねて
既にその忠告を受ける事が叶った。
次に諸大夫に問いたい。越は何によって呉と戦うべきか」
舌庸「賞を明らかにすれば戦えます」
越王「道理にかなっている」
苦成「罰を明らかにすれば戦えます」
越王「兵が勇猛になろう」
文種「旗の色を明らかにすれば戦えます」
越王「将兵の行動が迅速統一できよう」
范蠡「防ぎと備えを万全にすれば戦えます」
越王「用意が周到であれば攻め入られない」
皋如「戦鼓等の進退を明らかにすれば戦えます」
越王「兵が混乱しなければ、よく戦えよう」
句践は全ての意見を採用した。
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越王・句践が国中に命を発した。
「従軍する者は皆、国都の城門の外に集まるがよい」
勾践が集まった国人に宣言した。
「汝らに良策がある者は述べよ。だが、偽りがあれば罰する。
五日後に出師を発する。それまでの間、よく考えよ」
越王・句践が宮内に入り、夫人に命令を出した。
越王は寝門前の屏風(外と中を遮る壁)を背にして北向きに立ち
夫人は屏風に向いて南向きに立つ。
「今後、宮内の事を外に出してはならず、外事を中に入れてはならない。
内の失敗が外に漏れ出た場合、汝の責任である。
外の失敗が内に知られれば、わしの責任である。
わしは呉を討つ。汝に会えるのはこの場所までだ」
越王が寝門を出た時、夫人は屏風を越えずに送り出した。
越王・勾践が留守を命じた大夫達を集め
朝堂の門の檐を背にして立ち、大夫達は檐を向いて立つ。
越王が大夫達に命じる。
「わしの留守中、失政があれば、汝等の責任である。
士卒が命をかけず、国外で戦に敗れれば、わしの責任である。
以後、内政の事が外に出てはならず
外政の事が中に入ってはならない。
わしが汝等に会うのはこの場所までである」
越王は朝堂を出て、大夫達は檐から出ずに見送った。
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越王・句践は郊野に壇を築き、戦鼓を叩き、出陣した。
越王は陣に入り、罪人を処刑して言った。
「この者は玉環を賄賂にして、軍の規律を乱した」
翌日、越軍が陣を移動させると、越王は別の罪人を処刑して言った。
「この者は軍令に逆らった」
更に翌日、陣を移動して、越王が三人目の罪人を処刑した。
「この者は王命に逆らった」
越軍は呉国との北境に至り、越王は四人目の罪人を処刑した。
「この者は放埓で自身を御せなかった」
越王・句践が全軍に告げる。
「父母が共に六十歳を超え、かつ兄弟がいない者はいるか」
該当する者が集まると、越王が彼らに告げる。
「汝等は老いた親がいるのに、越国のために死のうとしている。
それでは父母が苦境に陥るであろう。
父母から離れ、我が元へ馳せ参じた事で、十分に礼を尽くした。
汝等は帰って父母を最期まで見送れ。
しかる後に、また大事が起きれば、改めて汝等と共に事を謀る」
翌日、句践は再び全軍に告げた。
「兄弟全てがここにいる者は集まるがよい」
該当する者が集まると、越王が彼らに語る。
「もし、我が事が成功しなかったら、越の兵は全滅するであろう。
家の祭祀を絶やしてはならぬ。兄弟のうちから一人を選んで帰らせよ」
また翌日、越王が全軍に告げた。
「この中に、眼病を持つ者や
従軍に耐えられぬ虚弱な者がいれば、帰るがよい」
翌日、全軍を移動させ、罪人を処刑して宣言した。
「この者は心と行いが勇敢に出来ず、臆病であった」
越の将兵は決死の覚悟を決めた。
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越の出兵を知った呉王・夫差は、これに応じるべく
兵を率いて松江の北に駐軍した。
一方の越王・勾践は松江の南に対陣して、中軍を左右二軍に分け
近臣の私卒君子が兵六千を率いる。
翌日、松江で呉越両軍の水軍が激突した。
戦いは両軍が一定の距離を置いて、矢の応酬に終始する。
呉軍は未だ疲労が濃く、越軍を一気呵成に襲うほどの気力がなく
対する越軍は余裕をもって呉軍を牽制する。
夕方になると越王・勾践は、右軍と左軍の全兵士の口に
枚を噛ませて声を出さないようにさせ
左軍を松江の戦場から五里(約2.1km)ほど遡った場所で待機させ
右軍は五里ほど下った場所に待機させた。
そして深夜、左右両軍に命じて松江に入らせ
川の中腹で戦鼓を敲かせた。
深夜、突如として響き渡った戦鼓の音を聞いた呉軍は驚嘆し
「越帥(越軍)は二手に分かれ、我々を挟撃にするつもりだ」と
朝になるのを待たず、兵を二分して越軍に対抗しようとする。
呉軍の動揺を確認した越王・勾践は、中軍にも枚を噛ませ
戦鼓を敲かず、喚声も挙げず、静謐なまま
松江を渡り、呉軍を急襲した。
想定外の方面から襲撃を受けた呉軍は壊乱状態に陥り
それを見届けた越の左軍と右軍は松江を渡り、攻撃に加わった。
夜が明ける頃、呉軍は壊滅的な被害を蒙り、潰走を始める。
敗走を続ける呉軍に対し、越軍は徹底的に追撃を加え
呉軍は囿で敗れ、続いて没でも敗れ
更には郊外でも破れ、三戦して三敗した。
呉軍の敗残兵は呉都・姑蘇に帰還する。
なおも追撃の手を緩めない越軍も呉都に突入し、王台を包囲した。
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呉王・夫差は越の勢いに恐れて王孫雒を派遣し、講和を求めた。
越王・句践に面会した王孫雒が夫差の言を告げる。
「かつて越君が呉に講和を求め、越の民を率いて呉に服したので
我が君は越との友好を考え、天の凶兆を恐れて
越の祭祀を絶やさず、越と講和して今日に至りました。
今、呉君の不道により、呉は越の罪を得た事により
越君が自ら呉邑を訪れました。
呉君は講和を求め、越に服し、呉の民を越の臣とする事を望みます」
これに越王・勾践が返答する。
「昔、天が越を呉に与えた時、呉はそれを受け取らなかった。
そして今、天は呉を越に与えようとしている。
わしは天の命を聞かず、呉君の命を聞く道を選ぶつもりはない」
呉による講和は越に拒否された。
越王が使者を送って呉王に伝える。
「今、天は呉を越に与えた。これを受け入れねば、天は越を罰するであろう。
人の生は短く、国君は簡単に死を選んではならない。
わしは呉君を、民300人と共に、越の東境・甬句に送る。
呉君が彼等と安逸に暮らし、寿命を全うする事を願う」
しかし、呉王・夫差はこれを辞退して言う。
「天は呉に禍を降し、呉の君臣は宗廟・社稷を失い
呉の土地と人は越が有する事となった。
わしは呉君として罪に服さねばならぬ」
夫差は死ぬ前に伍子胥を祀って語る。
「伍子胥の諫言は全て正しかった。
呉に降った禍は、わしが伍子胥を諌死させた事が原因である。
死ぬ事への悔いはないが、あの世で伍子胥に会わせる顔がない。
わしが死んだ後、顔を布帛で覆ってくれ」
臣下にそう告げると、呉王・夫差は自刃して果てた。
すでに夫差の太子は戦死しており、呉の社稷を継ぐ者はなく
ここに、呉国はその歴史を閉じた。
越王・勾践は夫差を篤く葬る一方で
呉の太宰・伯嚭を、呉を滅ぼした奸臣として処刑した。
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呉を滅ぼした越王・勾践は北上して中原諸侯に侵攻した。
宋、鄭、魯、衛、陳、蔡の国君が玉器をもって越に入朝した。