第百三十六話 宋の向氏
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宋の司馬・桓魋は、宋景公の寵愛を受けて
宋の国内で自身の勢力を拡大し、景公をも脅かす存在になった。
宋景公は桓魋を享宴に招いて殺そうと考えたが
桓魋の側でも、同様に宋景公を弑逆しようと目論んだ。
ある時、桓魋が自邑・鞌と、公室の邑・薄の交換を提案したが
宋景公は同意しない。
「薄邑には宋室の宗廟がある。手放せぬ。
その代わり、汝には鞌に加え、七邑を与えよう」
桓魋は加増の謝意を示すためと称し、宋景公を享宴に招いた。
宴の当日、桓魋は密かに、武装させた家中の衆を享宴の場に移動させる。
宋景公はこれに気づき、側近の皇野に告げる。
「わしは桓魋を育てて来たが、もはや手に負えぬ。
今や宋に仇を為す者となり、禍を招く事となった。どうすればいい」
皇野が進言する。
「臣下に不義の者がいたら、天も憎みます。まして人であれば尚更です。
桓魋の兄、左師・向巣に助けを求めましょう」
向巣は食事をする度に鐘を撃つ習慣があった。
この時も鐘の音が聞こえたため、景公が言う。
「向巣はこれから食事をするようだ」
暫くして再び鐘の音が聞こえた。
「食事が終わったらしい。向巣を招聘せよ」
と景公が言うと、皇野が車に乗って向巣に会いに行った。
皇野が向巣に語る。
「狩猟で禽獣の足跡を確認する役目の者が
『逢沢に一頭の鹿がいます』と報告して参ったので
『桓魋が来ない。左師と共に狩猟をしよう』と我が君が申されました。
我が君は、子に直接伝えるのを憚ったので
臣が遣いに参りました」
向巣は皇野と共に宋景公に謁見すると、景公が真相を話した。
聴き終えると、向巣は拝礼したまま立てなくなった。
皇野は「我が君は向巣と盟約を結ぶべきです」と言うと
宋景公が「汝に難を与える事となれば
天と祖先が私に咎を与えるだろう」と返す。
向巣は「桓魋の不恭は宋の禍です。臣は君命に従いましょう」と言った。
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皇野は宋景公から、兵を挙げる許可を得た後
私兵を率いて桓魋を攻撃した。
この時、皇野の一族、旧臣らは反対したが
新しい家臣は桓魋討伐に賛成したと言う。
皇野の動きを知った桓魋の弟・子頎が兄に伝えた。
桓魋は宋の公宮に攻め入ろうとしたが
桓魋の別の弟・子車が兄を諫めて言った。
「国君に仕える事が出来ず、更に国を攻撃しても
国人は支持しないでしょう。民がなければ決して成功しません」
桓魋は宋都を奔り、自邑の曹(6年前、宋に滅ぼされた曹国の跡地)
に入り、謀叛を起こした。
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6月、宋景公が向巣に曹を討伐させたが、向巣は桓魋に敗れた。
向巣は桓魋の討伐に失敗した事で
宋景公に処罰されるのではないかと畏れ
宋国内の大夫を人質として自分の元に送るよう、景公に要求した。
しかし、宋景公は人質を送ることを拒否したので
向巣は弟の桓魋に降伏して、そのまま曹に入った。
しかし、向巣は曹討伐の指揮を執っていたため
曹人の恨みや反発を恐れ、今度は曹人を人質に取り
自分の安全を確保しようと考えたが、弟の桓魋が反対した。
「国君に仕える事が出来ず、民を質にすれば罪を得るでしょう」
弟に諫められた向巣は人質を取る事を諦めた。
すると、曹の民は向氏に背き、向巣と桓魋を殺そうとしたので
桓魋は衛に、向巣は魯に奔った。
向巣と桓魋の弟・司馬牛は兄たちの亡命を知り
自邑を宋景公に返上し、自らは斉に奔った。
宋景公は魯に使者を送り
「わしは汝と盟約を結んだ。向氏を絶えさせることはない」
と向巣に伝え、帰国するように伝えたが、向巣は辞して答える。
「臣の罪は、向氏の族滅に値するほど重いでしょう。
もし、先代の縁と功によって後代を残せるのであれば
それは国君の恩恵ですが、臣は帰国する事は出来ません」
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桓魋が衛地に至ると、衛の公文氏が桓魋を攻撃して
桓魋が有する「夏后氏の宝玉」を要求した。
桓魋は複数の宝玉を持っていたので
別の玉を偽って公文氏に与え、衛から斉に向かった。
斉に入った桓魋は、斉の相国・田常に保護されて
田常は桓魋に次卿の地位を与えた。
桓魋より先に斉に入った司馬牛は
田常から邑と大夫の地位を与えられていたが
彼は兄の桓魋を嫌っていたので、邑と地位を返上して
斉を出て呉に向かった。
しかし、呉人は司馬牛を嫌ったので、司馬牛は宋に帰国した。
これを知った晋の上卿・趙鞅が司馬牛を招聘する。
一方で、斉の田常も再び司馬牛を招いたが
司馬牛は晋・斉どちらも拒み、魯の城門外で自害して果てた。
彼が魯に入って果てたのは
彼もまた、孔子の弟子だったからかもしれない。
遺体は魯の阬氏によって、丘輿にて埋葬された。
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田常は斉簡公を弑逆した後
斉の諸大夫の反発を防ぐため、盟約を結ぶ事にした。
田氏に協力する者は、家族の安全を保障するが
盟約に参加しなければ、死刑に処す、と宣言する。
大夫・石他人が言う。
「昔、斉の国人は皆、国君にのみ仕えていた。
しかし、今は国君を棄て、田氏に仕えねばならぬ。
田氏に従う事は出来ないが、盟約を結ばねば父母が死ぬ。
盟に従えば君臣の礼を失う。ならば、臣は退いて礼を守ろう」
そう言うと、石他人は自害した。
田常が斉簡公を弑逆した時、勇士六人を派遣して
子淵栖を捕え、服従を要求した。
この時、子淵栖は田常に、こう言った。
「子は臣下でありながら国君を弑殺した。
脅しに屈して服従すれば、臣は無知、非仁、無勇の者となる。
臣から智、仁、勇が失われれば、子に協力する意味はない。
もし、この三物があるならば、子に従う事は出来ない」
田常は子淵栖を釈放した。
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斉簡公を弑逆した後、田常は
諸侯に罪を問われ、斉に侵攻される事を恐れた。
そこで、国境を接する魯や衛から奪った地を返還し
晋の公室、智氏、趙氏、魏氏、韓氏と友好を約し
南方の呉・越に使者を派遣し、多額の贈物を送った。
国内では民に多くを施し、功績がある者を賞し、安定させた。
田常が斉平公に進言する。
「民に徳を施すのは、人が好む事。我が君が行ってください。
刑罰を執行するのは人々が嫌うので、臣が行いましょう」
しかし、5年後には、田常が斉の実権を完全に掌握した。
国氏、高氏、鮑氏、晏氏と言った斉の大族を尽く滅ぼし
斉の領内で、安平以東から琅邪に至る地を
田氏の直轄する邑にした事で
斉の大半の土地が田氏の支配地となった。
田常は、背の高い女性を好んだので
斉の国中から身長七尺(約160cm)以上の女性を集めて
自分の後宮に入れた。その人数は100人を超え
田常が死んだ時、子供は男子だけで70人を超えたと言う。
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斉簡公が田常に弑殺されたと聞いた孔子は
魯哀公に謁見して斉討伐を請うた。
魯哀公が孔子に尋ねる。
「魯は長く斉からの圧迫を受け、今や衰耗して久しい。
如何にして魯が斉を討とうというのか」
孔子がこれに答える。「田常はその君を弑しました。
斉の民は彼に帰心していません。魯と斉の民を合わせれば勝てます」
「ならば、季孫肥と相談せよ」
孔子は魯候の元を退出して
魯の三桓(季孫、叔孫、孟孫)氏に斉討伐を請うた。
しかし、魯候と同じ理由で拒否された。
孔子が人に語った。
「私もかつては、魯の大夫であった。
それゆえ、無理と分かっていても
斉討伐を言わない訳にはいかなかったのだ」
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かつて、魯の仲孫彘が自邑の成で馬を飼おうとした。
しかし、成邑の宰(家臣の長)・公孫宿が拒否した。
「成の民は毎年のように重税を課されて
貧困に苦しんでいます。馬を飼う余裕はありません」
仲孫彘は怒り、成邑を襲撃したが
従者が中に進入できず、引き返したので
仲孫彘は腹いせに、使者を鞭で打った。
秋8月13日、仲孫彘の父で魯の上卿・仲孫何忌が死んだ。
成邑の人々が喪に参加しようと仲孫何忌の邸に向かうが
喪主を務める仲孫彘は、彼らを拒否して、中に入れようとしない。
そこで成邑の人々は上衣を脱ぎ、衢道(大路)で大哭して
孟孫氏(仲孫氏)の命に従うことを約束したが
それでも仲孫彘は彼らを受け入れなかった。
成邑の人々は仲孫彘への謀反を計画した。
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楚の大夫・王孫圉が晋を聘問した。
晋定公が宴を開き、王孫圉を歓迎する。
趙鞅が佩玉を帯び、音を鳴らしながら
相(国君の補佐)となり、王孫圉に問う。
「かつて楚には白珩という玉があると聞きました。
それは未だに楚にありますか」
「ございます」
「あれは歴史ある宝です。何代の楚君に継がれたのでしょう」
「楚では、玉は宝ではありません。楚の宝とは人材を指します。
ただ音を響かせ、外観が美しいだけの白珩は
先王の玩具に過ぎない物です」
王孫圉の言葉を聞き、趙鞅は佩玉を外した。