第百三十五話 斉の田常、其の君を弑す
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周の敬王38年(紀元前482年)春
鄭軍に包囲された宋軍を救うため、桓魋が救援に向かった。
これを聞いた鄭の将・子賸は
「桓魋を捕えた者には賞を与える」と宣言した。
桓魋は自身に褒賞が懸けられた事を知り、逃走した。
鄭軍は喦の地で宋軍に大勝を挙げ
宋の大夫・成讙と郜延を捕えた。
彌作、頃丘、玉暢、喦、戈、鍚の六邑は
再び空白地となる。
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夏、呉王・夫差が黄池で会盟を行った。
参加したのは、周の卿士・単平公、晋定公、魯哀公である。
諸侯の会盟に周の卿士が加わる事によって
かつての斉の桓公、晋の文公と同様の覇権を確立する事を目論んだ。
これが呉国の絶頂期で、後世の史料の中には
呉王・夫差を春秋五覇の一人に挙げている。
しかし、この頃、呉は大国ながら疲弊しており
いよいよ越王・勾践は雌伏の時を終え、牙を剥き出す時が来た。
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越は倹約に勤めて国力を蓄え、十年間税を徴収せず
民は三年の食糧を蓄えている。
越の国人が句践に請う。
「かつて呉王は、我が君を諸侯の面前で辱めました。
今の越には呉に抗しうる力があります。どうか怨みに報いてください」
句践が彼らに告げる。
「会稽山での屈辱は汝等の罪にあらず。我が過ちである」
越人が言う。
「越の民みな、我が君を父の如く慕っています。
子は父の仇に報い、臣は国君の讎に報いたく思います。
これに力を尽くさぬ者はいません。どうか再戦の機会を与えてください」
句践は国人の要求に応じ、越民を集めて誓った。
「古の賢君は、衆の不足を憂えず
ただ、徳行が寡ないことを恥じたという。
今、呉王の兵は10万を超えるが、徳の寡ないことを恥じず
衆の不足を憂いている。寡人は天を助け、これを滅ぼそう。
汝等には、わしと共に進み、共に退く事を要求する」
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越王・句践は、呉王・夫差が黄池にあって
呉国を留守にしている隙を突いて挙兵した。
夏6月11日、越軍が二路から呉を攻撃した。
越の大夫・疇無余と謳陽が南方から呉の郊外に至る。
呉の太子・友、公子・地、公孫彌庸、寿於姚が
呉の地・泓水の辺で越軍の動きを確認した。
公孫彌庸が越の地・姑蔑に立った旗を見て言う。
「かつて我が父は越帥(越軍)に捕われ、旗を姑蔑人に奪われた。
あの旗は父上のものだ。親の仇を見て報じぬ訳にはいかない」
呉の太子・友が言う。
「今、我が君は呉帥(呉軍)を率いて国を留守にしている。
ここで戦って敗れたら呉は亡ぶであろう。今少し待つのだ」
しかし、公孫彌庸は太子の命に従わず、兵卒五千を集めた。
更に公子・地も公孫彌庸を援ける。
夏6月20日、呉越両軍が戦端を開いた。
呉軍は強く、公孫彌庸は疇無余を捕え、公子・地も謳陽を捕えた。
その後、越王・句践の率いる本隊が到着して呉軍は守りを固めた。
翌日21日、両軍が再戦し、呉軍は大敗を喫する。
太子・友、公孫彌庸、寿於姚が越軍に捕えられたが
公子・地は守りを固めていたため、捕われなかった。
勾践は太子・友を殺した。
さらに翌日22日、越軍が国境を越えて呉の領内に侵攻した。
呉人は黄池にいる呉王・夫差に急使を派遣して
越軍の侵攻と敗報を届けた。
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黄池で会盟を主宰している呉王・夫差は
急使の報告に接したが、敗報を諸侯に知られる事を恐れて
報告に来た七人の使者を自ら幕下で斬って捨てた。
秋7月6日、夫差は黄池で盟約を結ぶ事になった。
呉と晋が歃血(犠牲の血を啜る儀式)の順番で揉めた。
呉王・夫差が言う。
「我が呉国の祖は太伯で、太伯は古公亶父の長男
すなわち季歴の兄、周文王の伯父に当たる。
晋国の祖・唐叔虞は周武王の子で、周成王の弟。
呉君のわしこそが覇者に相応しい家格であろう」
晋定公が反論する。
「我が晋は文公以来、12世に渡って伯(覇者)の地位を保持している。
爵位でも、呉は第四位の子爵、晋は二位の侯爵である。
また、呉は中原から遠く離れた辺境の蛮夷の地にあり
京帥におわす周の天子に一朝事あらば、馳せ参るのに時間がかかろう。
晋都は周都に近く、すぐ応じる事が出来る」
呉王・夫差と晋定公は共に譲る気がなく
盟約の締結が出来ないまま、日没が近づいている。
晋の卿・趙鞅が司馬寅に語った。
「既に日が晩くなったのに、未だ大事は成らぬ。
これは我々の罪である。ここは戦鼓を立て、隊列を整え
わしと汝は死ぬ覚悟で呉帥と戦えば、歃血の序列も定まろう」
司馬寅が言う。「臣が呉陣の様子を探って参ります」
暫くして戻った司馬寅が告げる。
「呉陣に控える大夫はみな意気盛んですが
一方で、呉王は暗気に覆われています。
国元で何か起きたのかもしれません。今少し待ちましょう」
数日後、呉王・夫差は一刻も早く帰国するため
歃血の儀式を晋に譲り、会盟を済ませた。
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呉人が魯哀公を連れて、晋定公に会見しようとした。
この時、魯の大夫・子服何が呉の使者に告げた。
「周天子が諸侯を招集すれば、伯(覇者)が諸侯を率いて天子に会します。
魯の貢物が晋より呉の方に厚いのは、呉を伯と見ているからです。
今、呉君は魯君を連れて晋君の元に向かうと申された。
これでは晋が伯になりますが、呉に何の利益があるでしょう」
呉人は子服何の話を聞いて、会見を中止した。
しかし、暫くして呉人は後悔して、子服何を捕えようとした。
子服何が言う。
「臣は魯に後嗣を残しています。臣が誅殺されても家は潰れません」
子服何は呉人に捕えられ、呉国に向かう。
帰国を急ぐ呉王の一行が戸牖に至ると、子服何が伯嚭に語る。
「臣は魯で代々、祭祀を勤めて来ました。
10月に上帝と先王を祀りますが、祭祀あたる臣が魯におらねば
魯の祝宗は呉を非難し、その罪を上帝と先王に報告するでしょう」
伯嚭がこれを呉王・夫差に報告した。
「子服何を連行しても魯に損失はなく、ただ呉が悪名を成すだけです」
呉王・夫差は伯嚭に同意して、子服何は釈放された。
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呉の大夫・申叔儀が魯の大夫・公孫有山に食を求めた。
公孫有山は貧しいので、申叔儀に伝える。
「佩玉はあるが、縛るところがない。
旨い酒は一杯あるが、ただ眺めるしかない」
これに申叔儀が返答する。
「我々の細糧(米、麦)は既に尽きたが、粗糧(雑穀)ならまだある。
汝が首山に登って『庚癸』(穀物と水を表す隠語)と叫べば提供する」
宋が黄池の会に参加しなかった事を呉王・夫差が咎め
宋を討伐しようとしたが、伯嚭が反対した。
「宋などいつでも討てます。今はとにかく帰国を急ぎましょう」
呉王は宋討伐を中止して帰国した。
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呉は越に敗れて太子・友を失い、国内は暗澹としていた。
呉軍は長期に及ぶ遠征で長く国外にいたため、将兵は疲れており
呉王・夫差はやむなく、厚幣を贈って越と講和する事にした。
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周の敬王39年(紀元前481年)春、魯が西方の大野沢で狩りを行った。
この時、魯の叔孫氏の御者・鉏商が麟を捕えた。
麟は伝説の仁獣とされ、牡は麒、牝は麟で
併せて麒麟と呼ばれ、この出来事を「西狩獲麟」とされる。
叔孫氏は最初、麒麟がどういう動物が分からず
不吉であるとして、山林を管理する官吏に与えた。
後に孔子がこれを見て「麟だ」と言い、受け取ったと言う。
世は乱れ、礼や道徳が失われて久しい事を孔子は嘆き
聖王の治める古の世を理想に掲げ、歴史の教訓から
善悪を明らかにすべく、歴史書「春秋」の編纂を始めた。
しかし孔子は、今の世に聖王、明王は存在しないはずなのに
吉祥とされる麒麟が出現し、自身の抱く道理から外れた事が起きて
孔子は、自分のやってきた事の無意味を知り、激しく落胆した事で
「春秋」の執筆を止め、続きは孔子の死後、弟子等によって加筆された。
孔子曰く「自分の志を下げず、辱めも受けなかったのは
伯夷と叔斉だろう。
柳下恵と少連は志を下げて身を辱めた。
虞仲と夷逸は隠居して世事を語らず
行動は純潔であり、権力との関わりを断った。
私は彼等の誰とも異なり、志を下げて進む事はなく
隠居して世俗を捨てる事もなかった。可も無く不可も無い」
孔子が『春秋』を編纂している時に曰く
「君子は死して名を留めない事を畏れる。
私は何をもって後世から見られるであろうか」
『春秋』の記述は周王室を尊び、夏・商も参考にした。
その文面は簡潔であっても、内包された意義は深い。
周王を尊んだため、王を自称した楚、呉、越の地位を認めていない。
践土の会盟で、晋文公が周襄王を招いた事を非礼としている。
人々の行いが礼に則っているかどうかを判断し、評価した。
孔子は以前、魯の司寇として訴訟を処理していた頃
他者と相談する内容がある場合、独断を下す事はなかった。
しかし、『春秋』の編纂にあっては孔子は独断で
書く必要があれば書き、削る必要があると思えば削除した。
その結果、弟子の中でも特に優秀とされた子夏であっても
『春秋』には一字一句すら建議は出来なかったという。
弟子が『春秋』の教えを受ける時、孔子の曰くに
「後世、私は『春秋』によって知られ、『春秋』によって批判されるだろう」
孔子の独断で『春秋』が編纂されたからである。
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小邾国の大夫・射が句繹を挙げて魯に降った。
射は魯国に使者を送り「子路(孔子の弟子)と約束をすれば
盟約を結ぶ必要はありません」と伝えた。
子路は孔子の弟子の中で、最も誠実として知られていたため
射は魯に帰順する際、魯国と盟約を結ぶよりも
子路との口約束の方を信用したのである。
魯では子路を派遣する事にしたが、子路は辞退した。
魯の卿・季孫肥が冉求を送って子路に伝える。
「謝は魯の盟を信じず、汝の言を信じると言っている。
汝はそれを恥辱とするのか」
子路の曰く「将来、魯と小邾の間に戦が起きれば
私はその理由を問う事が出来なくなるからです。
謝は、臣の道を尽くさずして、私と魯への帰順を約束すれば
彼の行いを義としてしまいます。それは私には出来ません」
この年の5月、魯では日食があったと記録されている。
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斉の大夫・隰斯彌が右相・田常に会いに行き
両者は楼台に登って斉都の四方を見渡した。
三方は遮る物がなく、遠くまで眺める事が出来たが
南面のみ、隰氏の家の樹木が生い茂って、視界を遮っていた。
田常は何も言わなかったが、不快になったと察した隰斯彌は
家に帰ると家臣に命じて、樹木を伐るように命じた。
しかし、樹木に数回斧が入れた頃、隰斯彌は命令を撤回した。
家宰(家臣の長)が問う。「なぜすぐに命を撤回したのでしょう」
隰斯彌が答えた。
「『深淵に魚がいることを知った者は不幸になる』という諺を思い出した。
今、田常は斉で大事を行おうとしている。
わしが彼の内心を察したと知れれば、わしの身は危うくなろう」
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田常は斉の右相で、闞止が左相を務めている。
闞止は、かつて斉簡公がまだ公子・壬で
魯に出奔していた頃からの寵臣なので
斉簡公は闞止を深く信任しており、田常はこれを憂いている。
そこで田常は、自邑で先代・田乞の政治を再び行う事にした。
即ち、大きな容器で民に穀物を貸し出し、返還する時は小さな容器を用いる。
この差分により、民は実質、無償で穀物を得る事が出来る。
やがて、斉の民衆はことごとく田氏に帰心していった。
だが、それでも田常は闞止を厳しく警戒して
朝廷に於いては、何度も振り返って闞止から目を離さないほどであった。
斉の群臣は田常の様子を見て、異変が近い事を察した。
斉候の御者を勤める田鞅(田氏の一族)が斉簡公に忠告をする。
「田氏と闞氏の並存は出来ません。我が君はいずれかを選ぶべきです」
しかし、斉簡公はこの忠告を聞かなかった。
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この頃、田逆(田氏の宗族)が人を殺す事件が起きた。
闞止が斉簡公に謁見会に向かう途中、田逆に遭遇したので
即座に捕えて公宮に入った。
公宮で働く田氏の官吏の一人は
田逆を病であると偽らせ、米の研ぎ汁を送った。
この頃、米を研ぎ汁は洗髪に使うため
病人を清潔にする意味があった。
更に酒と肉を用意し、囚人を監視する役人に振舞い
田氏の人々は、酒に酔った役人を殺し、田逆を逃走させた。
闞止は田逆に逃げられた事で、田氏の報復を恐れ
田氏と和解するため、田常と誓約を結んだ。
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かつて、田豹(田常の一族)が、闞止の家臣になろうとして
大夫・公孫に推挙を依頼した事があった。
その直後に田氏で葬儀があり、中断していたが
喪が明けてから、大夫・公孫が闞止に伝えた。
「田豹という者が、子の臣になりたいと申していますが
彼の為人が気に入らないと思い、報告が遅れました」
闞止は「用いるかどうかはわしが決める」と言って
田豹は闞止に仕える事となった。
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後日、闞止は田豹と政治について語り、満足した。
闞止は田豹を信用して、こう語った。
「わしは田氏を斉から駆逐して、汝を立てようと思う」
田豹は「臣も田氏の連累ですが
田氏の当主に立つ資格はありません。
また、主に逆らう者はごく僅かです。
なぜ駆逐する必要があるのでしょう」と言って謝辞した。
田豹はこれを田逆に告げ、田逆は田常に報告した。
「闞止は斉君の信任を得ています。
先に動かなければ子に禍が及ぶでしょう」
田逆は、田常が事を起こした時に備え、斉の公宮に住んだ。
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夏5月13日、田常とその兄弟を併せた8人が
斉簡公に謁見すべく、公宮へと向かった。
8人兄弟の名は田常の他に、田荘、田歯、田夷
田安、田意茲、田盈、田得である。
闞止が田常と兄弟を迎え入れるために門を出ると
突然、田常の兄弟が中に入って門を閉めたので
闞止は中に入れなくなった。
斉簡公の侍人(宦官)が異変に気付き
田常一行を公宮に入れまいと抵抗したが
公宮に住んでいた田逆が侍人を斬って捨てた。
この時、斉簡公は婦人と檀台で酒を飲んでいた。
田常は簡公に、寝室へ移るように要求したので
簡公は戈で田常を撃とうとしたが
田氏に与する太史の子余が遮り
「田氏は我が君の害を除こうとしているのです」と告げた。
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田常は府庫に住む事にしたが、斉簡公が怒っていると聞き
斉からの出奔を考えて「国君のいない地はあるだろうか」と呟いた。
田逆が剣を抜いて言った。「主よ、躊躇してはいけません。
斉国内における田氏の勢威は充分に足りています。
主が斉を出ると申されれば、主は臣より咎を受けるでしょう」
田常は田逆の脅迫に屈して出奔を諦めた。
闞止は公宮に入れなくなったので、自邸に戻って私兵を募り
公宮の小門と大門を攻撃したが、破る事は出来なかった。
田氏が逃走する闞止を追撃した。
闞止は斉都・臨淄から逃亡し、西南の弇中で道に迷い
田氏の邑・豊丘に至った。
豊丘人は闞止を捕え、斉都へ連行して
田常は斉都の外城で闞止を処刑した。
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田常は、闞止に味方する東郭賈を殺そうとしたが
東郭賈と親しい田逆は、彼の命乞いをしたので釈放した。
東郭賈は斉から亡命するため、斉簡公の名義で車を購入して
斉都の西にある魯との国境に近い耏邑に到達した。
田氏に味方する耏邑の民は、東郭賈の車を奪って東に帰らせた。
斉都に戻って来た東郭賈は、再び斉を出るために
都の雍門を出た時、田豹が東郭賈に車を与えた。
しかし、東郭賈はこれを断って言った。
「田逆は私のために命乞いをしてくれた。
この上、更に田豹が私に車を与えれば
私と田氏の間に個人的な繋がりが出来よう。
闞止に仕えながら、その仇の恩を二度も受けたら
如何にして諸国の士大夫に顔を会わせられようか」
そう語ると、東郭賈は歩いて西に向かい、衛に亡命した。
5月21日、田常は斉簡公を徐州に幽閉した。
斉簡公は落胆し「もっと早く田鞅の言に従っていれば
このような目に遭わずに済んだであろう」と嘆いた。
そして6月5日、田常は簡公を弑逆して
簡公の弟・驁を即位させた。斉平公である。
田常は斉の相として、事実上の斉君に君臨する。
社稷の臣・晏嬰が没して19年、斉景公の崩御から9年が経ち
斉は諸侯に先駆けて戦国時代に突入したと言えよう。