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東周概略史 ~天の時代~  作者: 友利 良人
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第十二話 斉候の淫蕩

現代の私たちが知る春秋時代の歴史は

今日まで伝わる「史記」「春秋」「周礼」「詩経」「論語」等の文献資料と

発掘された甲骨文字、鼎に鋳られた金文、竹簡等を元にして

歴史学者や歴史作家たちの手によって分析、解釈されたものです。




       *     *     *




 斉を聘問した鄭の相国・祭足を、斉襄公は歓待した。


しかし彼の口から、高渠弥こうきょびが鄭昭公を弑殺して

公子・を新たな鄭君に擁立したと聞いて怒り

秘かに、鄭を討つ事を決めた。



 その頃、魯桓公と夫人・文姜が斉に到着したので

ひとまず鄭の件は置き、自ら濼水らくすいへ赴き、魯候を迎えた。


 魯桓公と文姜は濼水で斉襄公と面会し、共に斉都・臨淄りんしに入った。

魯候は周王の命を伝え、婚儀の段取りを決めた。

斉候は感謝して、宴を開いて歓待した。

宴席の途中、斉候は妹の文姜を伴い、宮中へ入って行った。


 斉候と文姜の態度に疑念を抱いた魯候は、人をやって調べたところ

斉候と文姜が私通している事を知ったので、これを激しく非難したが

ここは他国なので、帰国してから対応を決める事にした



 斉襄公は魯候に自分の淫行が露見した事を知った。

文姜を帰してしまうのは惜しいが、魯侯の報復も恐ろしい。


 そこで公子・彭生ほうせいに、宴が終った後で魯侯を宿舎へ送り届ける時

車の中で殺すように指示した。

彭生は紀との戦いの時、魯軍から矢を受け

瀕死の重傷を負った恨みがあるので、この君命を承知した。



 襄公は宴を開き、魯候に多量の酒を飲ませて酩酊させ

彭生を呼んで、酔い潰れた魯侯を車に乗せた。


しばらく進んだところで、彭生は熟睡した魯侯を絞殺した。


「魯侯は酒毒で急逝なされた。我が君に報告して くれ」と彭生は周りの者に指示した。

魯候の家臣は、みな主君が殺された事に気づいていたが

彭生を恐れて口にせず、命令に従った。



 斉襄公は魯侯が急死したとの報を聞くと、慟哭どうこくして悲しんで見せ

手厚く納棺し、魯国に使者を送り、棺の引取りを依頼した。


 魯の従者は帰国して、車中で魯君が殺された事を報告した。

魯の大夫・申繻しんじゅは「国に一日たりとも君主なき日があってはならん。

先君の柩がお戻りになられたら、世子・同を喪主として

葬儀を執り行い、即位の礼を行う」と宣言した。



 魯桓公の庶子で長男の公子・慶父けいほ(字は孟)が言った。

「斉侯は先君の正妃で実妹の文姜を姦淫し

それが知られるや、我が君を弑したのです。

人の道を外し、礼を失する事、あまりに甚だしい。

私に兵車300乗をお預け頂けたら、きっと斉に報復いたしましょう」


 申繻は返事に迷い、施伯せいはくに斉討伐の可否を相談した。

「斉は大国。もし戦に敗れると斉の無道を認めてしまう。

車中での事故を究明して、斉侯に公子・彭生を誅殺させれば

諸侯に対する説明も出来るので、斉もそれに応じるでしょう」



 申繻は施伯の進言に従い、慶父を説得し、施伯に国書を書かせた。

世子・同は服喪中なので、大夫の名で国書を提出して

柩の引取りのために、斉国へ使者を派遣した。



 斉襄公は国書を読んだ後、彭生を呼び出し、処刑した。

彭生は処刑される寸前、斉候に罵声を浴びせた。


周囲にいる者は密かに斉候を嘲った。




       *     *     *




 斉襄公は周へ婚姻の許可を感謝する使者を派遣し

同時に魯侯の霊柩車を魯へ送り届けさせたが、文姜は斉に留めた。


 魯の申繻は世子・同と共に柩を郊外まで迎えた。

同は直ちに葬儀を行ない、魯君に即位した。魯の荘公である。


 申繻、顓孫生ぎょくそんせい、公子・でき、公子・えん曹沫そうばつ

彼ら魯の文武の臣は朝廷の綱紀を正し

公子・慶父、公子・牙、公子・季友も国政に参画した。



 申繻は施伯の才能を推挙して、上士に登用した。

魯荘公は群臣を集め、斉侯の婚姻の司掌に関して相談した。


施伯が口を開いた。「魯国には三つの恥がございます」


「三つの恥とは何か」


「先君は生前より継位に疑義がございました。これが恥の一です。

先君夫人が斉に残ったままである事。これが第二の恥です。

斉候は先君の仇であり、喪中にもかかわらず

婚礼の手続きを進めなければな りません。

断れば王命に背き、断らなければ世間に嘲笑される。これが第三の恥です」


「三つの恥をどう解消すればよいのか」


「先君の即位は周王の承認を得ておりませんが

周王より司掌をお命じになられた、この機に

先君の継位の追認をお願いできれば、第一の恥は解消します」


「礼をもって先君夫人をお迎えし、我が君が母への孝をお尽くしになれば

第二の恥も解消しましょう」


「王妃のために公館を建て、我が君は服喪を理由に

上大夫に王妃をお迎えに行かせ、ご案内します。

これで王命に背かず、大国に逆らわず、礼を失することもありません。

三つの恥はすべて解消できると考えます」


「施伯の智謀は素晴らしい」

魯君は彼の案に従った。



 魯の上大夫である顓孫生が周へ王妃を迎えに行き

同時に先君の栄誉のために、即位追認のための

正式な礼装を調えた天子の使者を願い出た。


 周荘王はこれを認め、魯桓公の名を下賜する魯への使者として

周公・黒肩が使者を申し出たが、荘王は許さず、大夫の栄叔えいしゅくが選ばれた。


 先王は荘王の弟、克を可愛がり、臨終の時、黒肩に克を頼むと託していた。

そのため荘王は黒肩を疑っており、彼が諸侯と交流して

王子克の与党が増えるのを心配して、彼を重用しない。


 黒肩は王が自分を疑っているのが分かったので

その夜、王子・克の屋敷へ行って、王姫の結婚の日に反乱を起こし

荘王を殺して王子克を擁立する相談をした。


 だが、周の大夫・辛伯しんはくがその謀計を聞き、荘王に密告した。

黒肩は殺され、王子・克は追放されて燕に亡命した。




          *     *     *




 顓孫生は王妃を斉に送り届け、魯侯の命を奉じて文姜を魯へ連れ帰る話をした。

斉襄公は渋ったが、止むを得ず帰すことにした。


 帰国途中、しょうの宿が綺麗であったため

「ここは魯でも斉でもない。ここに住む。魯に帰るのは死後にする」

と言ってそこから動かず、顓孫生は魯侯に報告した。


 魯侯は承知し、祝丘しゅくきゅうに別宮を建てて文姜を迎えた。

魯荘公にとって文姜は生みの母であり、父の仇でもある。

文姜が魯に帰国せず、禚と祝丘を行き来したおかげで魯侯は孝を全う出来た。



 一方、斉襄公が魯桓公を殺し、妹と通じるという

人倫に反した行為に、斉の国人が騒ぎ出した。


 斉襄公は周王に使者を出し、王姫を迎えて婚儀を結んだが、収拾がつかない。

そこで国外に目を向けさせようと、外征を企んだ。



 鄭国は弑逆事件を起こし、衛国は君主を追放している。

どちらも問題行為であるが、衛君・黔牟けんぼうは周王の婿であり

王姫を夫人に迎えたばかりでもあるため、衛との有事は好ましくない。


そこで、先ず鄭の罪を問う事に決めたが

鄭と戦で勝てる見込みは高くない。



 襄公は一計を案じ、鄭君・子亹に書簡を送り、首止しゅしでの会盟を呼びかけた。



 斉と盟約を結ぶのは鄭の利益になると喜んだ鄭君・子亹は

重臣の高渠弥、祭足と共に首止へ向かう事にした。


高渠弥は応じたが、祭足は仮病を使って同行しなかった。


原繁げんはんが祭足に尋ねた。

「我が君が斉と友好を結ぼうとしているのに、なぜ相国は同行しないのでしょう」


「斉侯は残忍で気概が大きい。先君・昭公は斉に功があったので

昭公を弑逆した我が君に対し、何か思うところがあるはず」


「もし、その『何か』が起きれば、次の鄭君は誰になりましょう」


「公子・儀であろう。 我が旧主・荘公が子儀には国君の相があると申されていた」


「貴殿の智謀には皆感心しています。私も様子を見ます」




          *     *     *




 斉襄公は首止の会盟で兵を伏せて置き

鄭君・子亹が壇上に上がった時を狙って殺害した。


それを見た高渠弥は観念して捕えられ、車裂の刑に処された。



 斉襄公は鄭に使者を送った。

「貴国の臣・高渠弥は、主君を弑して庶子を立てた大罪人。

先君の弔いの意味で鄭国のため、これを誅殺しました。

新君を立てられ、今後も鄭斉両国の友好を希望します」


原繁はこれを聞き「祭足の知恵は余人の及ぶ所ではない」と讃嘆した。



 鄭では新君に誰を推戴するか協議した。


叔詹しゅくせんは「檪邑らくゆうにおられる公子・突をお迎えしては」と提案した。


祭足は「一度出奔した君主は宗廟を辱める。公子・儀を推戴すべきである」と言った。


原繁は祭足に賛成し、陳国から子儀を迎え、8代目の鄭君になった。


祭足は上大夫、叔詹は中大夫、原繁は下大夫に任命された。


鄭の君臣は民を慈しみ、災害に備え、斉、陳に友好の使者を派遣し

楚と同盟を結び、毎年貢納して属国になる事になった。


このため、檪邑にあって鄭君の座を狙う公子・突は

鄭国内に隙を見出せず、鄭では平和が続いた。




          *     *     *




 斉襄公に嫁いだ王姫は、貞淑で誠実な婦人で、襄公と正反対である。

王姫は襄公と文姜の関係を聞き

「人倫に悖り、禽獣にも劣る行為です。人非人に嫁いだのも運命」

と嘆き、一年足らずで亡くなった。



 襄公は王姫が亡くなって、頻繁に禚や祝丘に行くようになり、文姜と淫楽に耽った。


また、魯荘公を武力で威嚇し、自ら大軍を率いて紀国に侵攻し

紀国の三つの邑を奪い、更に紀の都を包囲して使者を送り

「降伏すれば国は存続させる」と紀侯を脅迫した。


 「斉は父祖からの仇敵である。仇にひざまずく真似は出来ない」

紀侯はそう言って、魯に救援を頼んだ。


これを知った斉襄公は「紀を援助する者は討つ」と公言した。


 魯荘公は鄭に紀の救援を頼んだが

公子・突が檪邑にいて、鄭都を襲う機会を窺っているので

兵は出せない、との返答であった。


 そこで魯侯は単独で滑まで軍を進めたが

魯軍より遥かに多い斉の大軍を見て、三日で引き返した。



 紀侯は観念して、城と妻子を弟の嬴季えいきに委ね

宗廟に別れを告げて、他国へ出奔した。


 翌朝、嬴季は大夫らと諮った。

「国に殉じて死ぬか、先祖を祀るか、いずれが大切であろう」

「先祖の祀りが大切でございましょう」全員そう答えた。

「宗廟を祀る事ができるのなら、膝を屈しても惜くはない」

嬴季は斉に降伏し、斉の臣民となって宗廟を守ることを願い出た。


 斉侯はこれを許した。

嬴季は紀国の土地人民の記録を全て斉国に渡した。


 襄公は戸籍簿を受取り、宗廟の側に三十戸を置き、嬴季を廟主とした。


だが、紀候夫人の伯姫は屈辱のあまり、心臓麻痺で亡くなった。

伯姫は魯から紀に嫁いで来た女性なので

斉襄公は夫人の礼をもって葬儀を行い、魯の機嫌をとった。


 伯姫には叔姫と言う妹がいて、姉と共に紀国へ嫁いで来た。

斉襄公は彼女を魯に帰してやろうとしたが

「女性にも義があります。姉と共に嫁して参った限りは

紀国の女性であり、死すれば紀国の霊となります」と言って断った。

襄公はこれを許可した。彼女は数年後に亡くなった。


斉が紀を亡ぼしたのは周荘王7年(紀元前692年)である。




       *     *     *




 この年、楚の武王(熊通ゆうつう)は、隋が朝見しないのを理由に

討伐の兵を出したが、雄図半ばにして陣中で没した。


 楚の令尹・闘祈とうせきはこれを隠し、そのまま軍を進めて隋城に迫った。

隋は恐れて講和を申し出て来たので、王命と偽って隋侯と盟約を結んだ。


 軍を引き返し、漢水を渡ったところで武王の死を公表して

武王の嫡子・熊貲ゆうしが即位した。楚の文王である。



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