第十一話 衛の混迷
衛は、周王朝時代の諸侯国の中でかなり長寿です。
建国は周の武王が殷を滅ぼした西周王朝の初期で
45代続き、最後は紀元前209年に
秦の始皇帝を継いだ二世皇帝・胡亥によって滅ぼされました。
もっとも、戦国時代以降は、ほとんど存在感ありませんけど。
* * *
衛の15代君主・宣公が、まだ公子・晋であった頃
父である衛荘公の妾・夷姜と私通し、男子が生まれた。
急子と名付けられた、この男子は
不義によって生まれたため、民間で育てられた。
州吁の乱の後、公子・晋が衛君に即位した後
正妃である邢妃に興味なく、夷姜を愛した。
衛宣公は夷姜が産んだ急子を宮廷に呼び戻して
嫡子に定め、弟の公子・職に教育を託した。
急子が16歳の時、斉僖公の長女と婚姻を決めたが
彼女が絶世の美女であったため、衛宣公は自分のものにしようとした。
衛宣公は淇河の河岸に高台を建設し、新台と名付けた。
そして、嫡子・急子を宋国へ遣り、急子の弟である公子・泄を斉国に遣って
斉僖公の娘を新台に迎えた。これが宣姜である。
衛の国人は「新台」という詩を作り、衛宣公の淫蕩を嘲った。
派手な新台 満々たる河水
燕婉の求めしは 老醜の籧篨か
魚網が敷かれ 白鳥去る
燕婉の求めしは かの戚施か
籧篨、戚施は共に醜い容貌で、宣公に喩え
燕婉は温順な容貌を意味し、宣姜に喩えている。
世子・急子は宋から帰国して、新台へ復命に行った。
衛宣公は汝の母であると言って宣姜に会わせ、急子は恭しく母に礼を尽くした。
宣公は宣姜を得てから新台に住み着き、夷姜を顧みなくなった。
3年後、宣姜は二子を生んだ。長男を寿、次男を朔と言う。
衛宣公は宣姜を愛し、かつて急子に注がれた愛情は寿と朔に移り
急子を廃嫡し、寿と朔に衛君を継がせたいと思うようになった。
だが、公子・寿は急子と仲がよく、急子もまた、父に似ず、優しく慎み深い。
この様子を見た宣公は、なかなか本心を言い出せなかったため
公子・泄に、将来、公子・寿が君主になるのを助けてやってくれと頼んだ。
一方、公子・朔は兄2人と違って出来が悪い。
父母の寵愛に甘えて無頼の徒を集め、衛君の座を狙って
兄たちを邪魔と感じていた。
公子・朔は急子を排除する事を目論み、母の宣姜を唆した。
「我が君は母上や我々兄弟を大事にしておられますが
将来、衛君の位を継ぐのは嫡子の急子でしょう。
夷姜は母上に父上の寵愛を奪われ、我らを恨んでおります。
急子が衛君になれば、夷姜は国母となって大権を握る事になり
そうなれば、我々親子は害されるでしょう」
宣姜は本来、急子へ嫁してきたのだが
今は宣公の妻であり、子もいるので、急子は邪魔者である。
以後、事あるごとに急子の讒言を宣公の耳に入れていた。
宣公は急子に猜疑心を持つようになり
夷姜に子供の教育が悪いと言って責めた。
夷姜は怒りと悔しさで胸が詰まり、ついに自害した。
母の死で、急子は悲しみに暮れたが
衛君に咎められるのを怖れ、誰もいないところで密かに泣いた。
公子・朔は宣姜に「急子は生母が死んだので
我々を同じ目に遭わせると言ってます」と急子を誹謗した。
宣姜は急子を恐れて宣公に讒言した。
宣公は最初は信じてなかったが
昼夜となく急子の抹殺を唆され、ついに宣公もその気になった。
* * *
この頃、斉僖公から紀国討伐の出兵要請があった。
宣公と公子・朔は相談して、出陣の期日を決めるという名目で
急子に白い旗を持たせて斉国に使者に立たせることにした。
衛から斉に向かう途中、莘野(現在の山東省莘県)という地がある。
公子・朔は、ここに子飼いの賊を待ち伏せさせて
急子を暗殺する予定であった。
公子・寿は公子・朔の計画に気づき、急子に伝えたが
「子は父の命に従うのが孝である。主命に従わなければ逆徒である」
と言って旅立った。
公子・寿は泣いて引き止めたが聞かなかった。
「兄上は仁義の人である。私が代わりに死ぬ事にしよう」
公子・寿は酒を持って急子に追いつき、送別の宴を申し出た。
「私は君命を帯びている。留まることはできない」
「兄弟の別れの酒です。どうか気持ちをお受けください」
「ならば、少しだけ」
公子寿は急子に多くの酒を飲ませて泥酔させ、急子から白旗を盗んだ。
急子の随行者に手紙を渡し、世子が目覚めたら渡すよう指示して
自分の部下を連れてすぐ出発した。
莘野に近づくと、果たして無頼漢が襲ってきた。
公子寿は斬殺された。
急子は目が醒めて、従者から寿の手紙を渡された。
「寿が代りに参ります。兄上はお逃げ下さい」とあった。
急子は「寿は私の身代わりになった」と言って泣いた。
その後、公子・寿の後を追い、彼もまた莘野で賊に遭遇し、殺された。
思いがけず兄が2人ともいなくなった公子・朔は密かに喜び
賊には約束の数倍の褒美を与えた。
宣姜は嫡子の急子を除けた事と、長男の寿が死んだ事で悲喜こもごもであった。
急子を託された公子・職と、寿を任されていた公子・泄が
事の次第を衛宣公に報告した。
宣公は2人の子が殺されたと聞かされ、驚いて声もなかった。
しばらくして、やや落ち着いた後「宣姜がわしを誤らせた」と言った。
ほどなく衛宣公は病に罹り、半月ほど後、崩御した。
公子・朔が喪を発し、衛君を継いだ。衛の恵公である。
庶兄の公子・碩(字は昭伯)は恵公に服さず、斉へ出奔した。
公子・泄と公子・職は恵公を恨み、急子と寿の仇討を考え続けた。
* * *
衛恵公は即位した年に、斉と紀の戦いに援軍を出して、鄭に敗れた。
そのため、鄭厲公に恨みを持っていた。
その後、鄭の使者が来て、鄭厲公が出奔したので
衛に住む前の鄭君であった昭公(公子・忽)を迎えることになった。
恵公は喜んで昭公の帰国を援助した。
祭足は帰国して鄭君に復位した鄭昭公に
追放を止められなかった事を謝罪した。
昭公は祭足を罰しはしなかったが、内心では不満があった。
高渠弥は、以前から鄭昭公とはそりが合わない。
昭公が復位すると、誅殺されるのを恐れたので
昭公を殺し、公子・亹を鄭君に立てようと考えた。
その頃、鄭の先君であった厲公(公子・突)は蔡に居るが
元より鄭君への復位を諦めてはいない。
そのため、鄭にある檪邑を根城にしたいと思っていた。
そこで檪邑を預かる檀伯に使者を出し
檪邑の一時借用を頼んだが、檀伯は断った。
それならと、蔡人を商人に扮装させて、檪邑へ商売に行かせ
檪人と結託して檀伯を殺し、公子・突は檪邑に住み着いた。
突は檪の城壁を修築し、堀を広げて軍を拡充し
鄭を襲撃しようと謀り、遂に鄭に敵対する事になった。
祭足はそれを聞いて昭公に報告し、大夫の傅瑕に命じて
大陵に兵を駐屯させ、突の進路を抑えた。
公子・突は鄭の準備を見て、魯侯の元へ行き、宋との仲介を依頼した。
宋公はこれに応じて宋、蔡、衛の連合軍を公子・突に貸し与えた。
衛恵公は鄭昭公が復位の時に護衛の労をとったが
昭公はそれに対して謝礼をしなかった事が不満であった。
そこに宋から鄭攻めの話が来たので、自ら出陣した。
* * *
公子・泄と公子・職は、衛恵公に謀殺された急子と寿の仇討を目論んでいる。
「我が君は遠方へ出た。今こそ好機」
「事を成就するには君主を擁立しなければならぬ」
そこへ、衛の大夫・甯跪が彼らを訪ねて来た。
「公子らは莘野の恨みをお忘れではないようですな」
「だが、新たな衛君が見つからぬ。君主不在となれば衛の民が苦しむ」
「公子・黔牟は人柄が良く、しかも周王の婿です。衛君に適任でしょう」
三人は誓約を結び、この事を決めると
かつて、急子と寿に仕えていた家臣たちに使いを出して
「衛侯は鄭討伐に行ったが敗死した」という偽の情報を流し
公子・黔牟を衛君に擁立した。
百官の朝見が終った後、衛候・朔が二人の兄を殺して
父君を憤死させた罪を公表した。
そして急子と寿、二公子の喪を発し、使者を周へ派遣して即位を告げた。
大夫の甯跪は郊外に陣を張り、衛恵公の帰路を押えた。
公子・泄は宣姜を殺そうとしたが、公子・職が制止した。
「宣姜は斉侯の妹だ。斉侯を怒らせるのはまずい」
そこで宣姜を別宮へ移した。
* * *
一方、宋、魯、蔡、衛の連合軍は公子・突と共に鄭を攻めた。
祭足は自ら兵を率いて大陵へ行き、傅瑕と共に敵に当たり
巧みに応戦したので、四国はこれを破る事ができず、引き揚げた。
衛恵公は引き返す途中、二公子が反乱を起こして
公子・黔牟を衛君に立てたことを聞き、斉に亡命した。
斉襄公にとって衛恵公は甥なので厚遇し、いずれ復国させることを約束した。
衛恵公(公子・朔)は襄公に感謝して
「無事に帰国が叶えば、衛の倉に眠る宝を全て斉候に献上いたします」
と言ったので、斉襄公は喜んだ。
そこへ魯の使者が来て、斉侯に王姫を降嫁させる件について
周王の許可が下りたという報告があった。
魯侯は周王から婚姻の司掌を命じられたので
その相談のため、自ら斉国に来たいという。
斉襄公は魯候に嫁いだ妹の文姜を思い出し、永く会っていないから
夫人も一緒に来られたし、と使者を遣わした。
「衛への出兵は何時になさいますか」と大夫たちが訊ねると
「衛君・黔牟も天子の婿だ。わしは今、周と婚姻を結ぼうとしている。
その件は暫らく置いておく」と襄公は言った。
だが、衛君が宣姜を殺す恐れがあるので
公子・朔が衛恵公に復位する時、斉に亡命している公子・碩を
衛に帰国させ、宣姜を公子・碩の妻にせよと指示した。
公子・碩は衛に戻り、衛君・黔牟と会い、斉侯の考えを伝えた。
衛の国人は、宣姜が中宮(諸侯の正妻)を僭称している事に不満であったから
これを機に中宮の地位を剥奪できるので、文句を言う者はいなかった。
ただ、当の公子・碩が拒否した。
宣姜が父の妾であるという倫理的な嫌悪感があったからである。
斉候の使者として衛に赴いた公孫無知は困り
公子・職に「この事がうまく行かなければ、私は斉に帰国できません」
と言うと、職は斉侯の機嫌を損ねるのを心配して、一計を案じた。
公子・碩を酒宴に招待して泥酔させ
別宮へ連れて行き、宣姜と同衾させようとしたのである。
この計略は成功し、宣姜と碩は夫婦になり、男女五人が生まれた。
長男の斉子は早世したが、次男は申、三男は毀で、共に将来、衛君となる。
長女は宋桓公に、次女は許穆公に嫁いだ。
* * *
鄭の相国・祭足は四国との戦に勝利したが
公子・突が檪邑に籠っているのは実に厄介で、対策を考えた。
斉と公子・突は、紀と戦った時の恨みがあるので、斉が突に与する心配はない。
しかも今の斉候は即位したばかりなので、修好を図るには好都合であり
魯公は斉侯と周王の娘との結婚を司掌するほど、斉と魯はうまくいっている。
鄭が斉、魯と盟約を結べば、宋を怖れる必要はなくなる、と判断して
祭足は自分が使者になり、両国の訪問に向かった。
だが、祭足が鄭を留守にしている間に
以前から鄭昭公に恨みのあった高渠弥が公子・亹と共謀して
鄭昭公を暗殺したのである。復位した昭公の在位は3年に満たなかった。
そして、公子・亹が7代目の鄭君となった。
鄭の国政は祭足と高渠弥が担う事になった。
筆者として疑問に感じたのは
衛君・黔牟が周王の婿という点。
周と衛は同じ「姫」姓なので
当時の常識である「同姓婚は禁止」に違反しています。
諸侯同士の婚姻ならたまにありますが
周王自らがルールを破る事がありうるのか、と。