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東周概略史 ~天の時代~  作者: 友利 良人
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第十話 祭足、鄭君を逐う

諸侯同士で盟約を結ぶ場合、周王の元で誓いを立てるのが本来のルールですが

この頃には周王を無視して、諸侯が無断でやってます。


諸侯同士で揉め事が起きれば戦いになるし、異民族が襲撃してくる事もあります。

かつては周王が、これらの仲裁や支援を行いましたが、その力を喪ったため

力を持つ諸侯が周王に代わって行う必要が生じたわけです。




          *    *    *




 宋荘公は、鄭への過大な要求に、魯侯が憤っている事は承知していたが

宋・魯が兵火を交える事態は想定していなかった。


そこで宋公は斉侯に仲介を依頼するため、公子・遊を斉へ遣わした。

斉候が今の鄭君を好いていないと聞いたからである。


 

「我が君は、鄭の公子・突の鄭君即位に協力した事を悔やみ

貴国と協力して鄭を攻め、鄭の先君・忽の復位を考えております」

と、公子突の忘恩を訴え、さらに南燕伯が斉との和平を望んでいるので

配慮願いたいと頼んだ。



 だが、公子・遊が斉へ向かうべく出国して間もなく

宋の国境から「魯と鄭が攻めて来ました」との急報が届き

宋公は家臣を集め、対策を協議した。


宋の公子・御説ぎょせつは宋公を諌めた。

「鄭、魯の軍はあまりに強勢。これは我らが鄭に対して

強欲に過ぎた結果、魯との友好関係までが拗れた結果。

ここは宋が罪を認めて講和を求め、戦を回避するべきです」


これに南宮長万が異議を唱えた。

「敵軍は既に城下へ迫っております。

全く抵抗せず講和を結べば、宋の恥を天下に晒す事となりましょう」


太宰の華父督かほとくは長万に賛成したので

宋公は公子・御説の忠告を却下して

南宮長万を将に任じ、300乗の兵車を出陣させた。




          *    *    *




 魯侯と鄭伯は宋君の出陣を要求したが、宋君は出てこなかった。

代わりに出てきた南宮長万は、魯・鄭の両君を確認すると

敵君を生け捕る大功を求め、敵陣へと突撃した。


 宋軍の突撃に対し、二君は少し後退し、代わりに左右から二人の将が出た。

魯の公子・できと鄭の大夫・原繁げんはんである。


 両将は宋軍を包み込むように包囲し、宋の先陣を率いていた猛獲もうかくを捕えた。

宋は兵車も兵士も捕えられ、宋の陣地に逃げ戻ったのは半数に満たなかった。



 南宮長万は猛獲を取り戻すため、長男の南宮牛を出陣させた。


鄭の将はまだ若い南宮牛を見て果敢に攻撃した。

牛はしばらく戦った後、敵わぬと見たか、逃走した。


鄭将は牛を追撃して、宋陣の近くまで来ると

突然、南宮長万が後方から出現し、それを見た南宮牛は反転して

鄭将を挟み撃ちにし、これを捕えた。


捕えられた鄭将を取り戻すべく、鄭の原繁も出陣した。

すると宋の太宰・華父督が自ら宋軍を率いて応戦してきた。


更に魯の公子・溺までが助成に加わり

日没まで混戦が続いて、両軍共に多大な損失を蒙った。



 翌日は休戦して両軍は捕虜交換を行い

猛獲は宋に戻り、鄭将も鄭に帰還した。



 一方、斉に向かった宋の使者、公子・遊は斉僖公に宋公の命を伝えたが

「鄭君は兄を追放して即位した者で、わしはこれに不満がある。

しかし、我が国は今、紀国との問題を抱えており、貴国に構う余裕はない。

もし、貴国が紀討伐の援軍を出してくれるなら、こちらも援軍を出そう」と答えた。



 公子遊は帰国し、斉僖公の要求を宋公に報告した。




          *    *    *



 

 さて、魯侯と鄭伯が陣中で宋攻撃を協議していたところへ

紀国から魯候に火急の報せが届いた。

「我が国は斉国に攻められ、危機にある。

魯と紀は永く友好を築いてきた。その誼で救援をお願いしたい」 という内容である。


 魯桓公は驚き、鄭伯に

「紀君が危ない。救援に行かざるを得ません。

宋城も簡単には陥ちそうにない。とりあえず引揚げましょう。

宋公が再び魯に過大な要求をして来る事はないでしょう」と伝えた。


 鄭厲公は「ならば、我が国も紀国救援に向かいましょう」

と言い、直ちに陣を引き上げ、共に紀国へと向かった。

魯侯が先行し、鄭伯は殿軍を勤めた。



 宋は公子・遊から斉の援軍が来ないという報告を受け

直後に敵が後退したのを見て、斥候を追って探らせたところ

「鄭、魯は国境を越え、紀国へ向かいました」

と言う報告があったので安心した。

 

「斉が、我が国の鄭攻撃を援助してくれるのであらば

我が国も、斉が紀を攻めるのを援助せねばいけません」

と、太宰の華父督が進言すると、宋公も同意した。


南宮長万は自ら名乗りを挙げ、戦車200乗を率いて紀国へと向かった。



 斉僖公は紀国を攻撃するため、衛侯とも面会し

さらには南燕伯にも来援を請うた。


だが、衛の宣公は出兵しようとした直後、病死してしまった。

宣公の世子・さくが即位した。衛の恵公である。


衛恵公は即位後、先君の喪に服したが

斉との約定を守り、戦車200乗の援軍を出した。


南燕伯はこれを機に斉と修好を図ろうと、自ら兵を率いて会盟に参加した。




        *    *    *




 斉、衛、宋、南燕の諸侯連合軍に包囲された紀侯は

都邑の溝を掘り、高塁を築き、堅く籠城して救援を待った。


ほどなく、魯と鄭の二君が救援に来たという知らせが入った。

紀侯は大変喜び、直ちに呼応する手配をとった。



 先行した魯桓公が先に到着し、紀の都城を包囲する斉侯に面会した。

「弊国と紀国は姻戚関係にあります。

紀候の犯した貴国への罪に対し、深くお詫び申し上げ

お赦し頂きたく、お詫びに参上いたしました」


これに対し、斉候は

「かつて、我が祖先、哀公は、紀候の讒言を蒙り

時の周王に捕われ、ほう(釜茹での刑)にされました。

それから既に八代を経ましたが、未だ報復は適っていません。

貴国が親戚を援け、当方は先祖の仇を討つとなれば、戦しかありますまい」

と返し、魯候の提案を退けた。



 魯侯は怒って公子・溺を出撃させ

斉はこれを迎え撃つに、公子・彭生ほうせいを投じた。


彭生は豪傑の誉れ高く、公子・溺、秦子、梁子と

魯の三将が一斉にかかっても敵わなかった。



 衛と南燕の両君も、斉・魯が戦っているのを見て攻撃に参加した。


ほどなく鄭伯の軍も到着し、原繁が斉侯の本営に突撃した。


籠城していた紀侯もまた、弟の公子・嬴季えいきに城兵を率いて加勢させる。


かくして斉、魯、衛、南燕、鄭、紀の六国の軍勢が入り乱れ、混戦となった。



 魯侯は南燕伯を確認すると

「谷丘の盟約で、宋、魯、燕は有事には協力すると盟約を結んだ。

宋が盟約を破ったので、わしは宋を討った。貴国も宋と同じであるか」と詰った。


南燕伯は盟約に背いた事を恥じ、兵を退いて帰国した。


南燕軍が抜けた事で戦の均衡は崩れ、紀、魯、鄭が優勢となり

衛軍は大きな損害を出し、斉兵にも多大な犠牲が出た。



 そこに宋軍が到着した時、もはや大勢は決しており

魯・鄭両軍は勝利の余勢を駆って宋軍を叩いた。


宋軍はまだ陣立てが出来ておらず、大敗を喫した。



 紀邑での戦いは終結し、衛、斉は敗残兵を率いて帰国した。


斉侯は紀城を振り返り

「斉在れば紀無く、紀在れば斉なし」と叫んだ。




        *    *    *




 紀侯は魯、鄭両君を迎えて歓待し、翌日、両国も帰国した。


 その後、鄭厲公は魯に修好の使者を派遣して、武父の盟約を確認した。

これより魯と鄭、宋と衛がそれぞれ同盟国となった。


この頃、鄭の檪邑がくゆうを守備していた大夫の子元が亡くなり

後任には檀伯だんはくが就いた。



 斉僖公は紀に敗れ、屈辱と憤懣により、病に臥った。

冬に入り、いよいよ病状は重くなり、世子・諸児しょげいを枕頭に呼んだ。


「紀は斉にとって代々の仇敵である。

紀を滅ぼさぬ限り、たとえ死んでも祖先累代の墓に入る事を許さぬ」

諸児は父の遺命を受けた。


 次に僖公は弟の夷仲年いちゅうねんの子、無知を呼んで諸児に会わせ

「無知はわしの唯一の甥である。よく協力して事に臨むがよい」



周桓王22年(紀元前698年)、斉僖公は薨去して

世子・諸児が斉君となった。斉の襄公ある。




      *    *    *




 さて、宋荘公は鄭に恨み骨髄で、鄭が宋に渡した黄金や玉璧を

斉、蔡、衛、陳の四国に分け与え、鄭討伐に協力を依頼した。


 斉君は喪中なので大夫の雍廩ようりんに150乗の兵車を与えて

援軍を送るに留め、蔡、衛も将を派遣した。



 鄭厲公は戦う覚悟を決めたが、祭足が反対した。

「宋は大国で、しかも三国を味方につけています。

これに勝つのは難しく、負ければ鄭の社稷を危うくするでしょう。

よしんば勝てたとしても宋の恨みを買うだけの事。

ここは静を以て動を制す。堅く守って出ないのに限ります」


しかし、厲公は祭足の献策に躊躇している様子であったため

祭足は民に籠城を命じて

「戦いを想起する発言は慎むべし。違反者は斬る」と令を発した。



 宋荘公は鄭の籠城を見て、鄭の東郊をほしいままに略奪し

鄭国の祖廟を破壊し、辱めた。


鄭厲公は祭足を恨んだ。

「 わしは鄭君でありながら祭足の傀儡ではないか」 と鬱憤を漏らし

密かに祭足を除こうと考えるようになった。




     *    *    *




 翌年3月、周の桓王が病に倒れた。


病床にある王は、周公・黒肩を呼び

「周の礼法に従い、世子・を次の周王に立てよ。

だが、わしは次男の王子・克が可愛い。

佗が卒去した後、次の王には克が就けるよう、汝が取り計らってくれ」

と言い残して崩御した。


周公は遺命に従って、世子・佗を王にした。周の15代・荘王である。



 鄭厲公は周桓王の葬儀に哀悼の使者を出そうとしたが

祭足がこれを諫めた。

「桓王は先君に恨みを抱いておりました。

祝耼しゅくたんが桓王を弓で射た事もあります。

使者を出すと、王は侮辱されたと受け取るでしょう」


 厲公は従ったが、心中は穏やかではなかった。



 ある日、鄭厲公は大夫・雍糾を呼び出した。

「卿は祭足の娘婿であるが、義父をどう思っておる」


「臣の婚姻は宋君の策謀によるもの。父の本心ではありませんでした。

父は常々、先君の話をなさっており

機会あらば我が君の廃位を目論んでおられるご様子」


厲公は祭足を暗殺する事に決め、雍糾に命じた。

「卿が祭足を始末すれば、卿を鄭の執政に任じよう」



 雍糾は喜び、その夜、自宅で酒宴を行って大酔した折

妻の雍姫に祭足殺害の君命を漏らしてしまった。



 後日、雍姫は祭足の邸宅に行き、母に質問をした。

「父と夫で意見が割れた場合、どちらに従うべきでしょうか」


「夫になれる男はいくらでもいるが、父は一人しかいない。

較べるまでもない事です」


それを聞いた雍姫は、夫の雍糾よりも父の祭足に従う事に決め

夫が父を暗殺しようとしている事を母に伝えた。



 祭足は雍糾を殺し、その死体を池に晒した。



 雍糾の計画が失敗したと聞いた厲公は

「祭足はわしを許さないだろう」と判断して蔡国へ出奔した。


後に、雍糾が計画を妻に話したせいで事が露見したと聞き

「国家の大事を婦に語るよ うでは、殺されても仕方ない」

と厲公は嘆息した。



 厲公が出奔し、鄭君が空位となったので

祭足はを衛国から公子・忽を迎え、鄭の昭公として復位させた。



祭足は天を仰ぎつつ

「ようやく旧主・荘公との約を果たす事が出来た」と呟いた。


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