第百三話 天は暴君を孤死に誘う
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楚の霊王は暴虐、かつ無道であり、白邑の尹(長)・子張は
幾度も諫言を呈したので、これを煩わしいと感じた楚霊王は、子亹に相談した。
「わしは子張の諫言を止めさせたい。何か良い方法はないか」
「諫言を用いるは難く、止めるは容易な事。
次に子張が諫言を呈せば、王はこう申されよ。
『我は左手で鬼神を拿捕し、右手で殤宮(死者が住む宮殿)を掌握した。
全ての諫言・忠告を知る者ぞ。汝はそれ以上、我に何を語ろうとするか』」
ほどなく子張が王の元に諫言に来たので、霊王は子亹に言われた事を語った。
子張は楚王に告げた。
「昔、殷朝の王・武丁は、徳行を敬い、神明に通じ、河内に遷都し
後に亳に遷り、そこで三年、沈黙して道理を考えました。
臣下は武丁が言葉を発さないことを憂いて
『王が口を開かねば、我々は政令を受けられません』と言上したので
武丁は文字を発明して『わしに徳が足りぬ事を恐れて言を発さないのだ』と伝えました。
武丁は夢で賢者を見て、その人物を探させ
ついに傅説を得て、自分を諫言するように命じました。
『わしが金属なら、汝は砥石である。わしが川を渡るなら、汝は舟である。
効用のある薬は眩暈を起こすように、わしには汝の峻厳さが必要である』
武丁の如き聖徳の天子でも、過信せず、外に聖人を求めました。
我が君は武丁に及びません。それで諫者を憎むようでは、国を保てないでしょう。
斉桓公と晋文公は出奔して諸侯を巡り、徳業を積み
常に近臣が諫め、それによって自分を戒めました。
そのおかげで、帰国後は諸侯と会して覇者になったのです。
翻って、我が君は斉桓・晋文に及ばぬ事を憂えず、自らの安逸のみ欲しています。
臣は、王が民に棄てられる事を恐れるので、諫言するのです」
楚霊王は子張を嫌っていたが
「汝は今後もわしに諫言せよ。諫言に従う事はないが、汝の如き臣は必要である」と告げた。
「臣は、我が君が諫言を聞いて頂けると思うから諫めるのです。
諫言を聞くつもりがないのなら、なぜ臣を傍に置く必要があるのでしょう」
子張は退出し、家に籠り、以後、朝廷に出仕しなくなったので
楚霊王に苦言を呈する者はいなくなった。
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14年前、楚霊王がまだ令尹・公子・囲であった頃に
大司馬・薳掩を殺し、その家財を奪った事があった。
その後、楚王に即位してからは、薳掩の族・薳居の土地を奪った。
9年前、申の会盟で、楚霊王は越の大夫・常寿過を辱めた。
4年前、許国の遷都を行った際、許民を他に遷した時、許の大夫・囲を人質にした。
2年前、楚が蔡国を滅ぼした時、霊王の寵臣で蔡国出身の蔡洧の父が殺された。
更に、楚霊王は闘韋亀から中犨の邑を奪い
闘韋亀の子・闘成然からも邑を奪って、郊尹(楚国境の大夫)に任じた。
こうして、楚霊王は無数の恨みを重ね続けた結果
薳掩の族、薳居、許囲、蔡洧、闘成然(蔓成然とも)が霊王を憎んでいる。
楚霊王が徐国に出兵し、乾谿に駐軍している時に
蔡洧は、楚都の守備を命じられていたので、好機至りと、彼等は決起した。
越の大夫・常寿過を誘って固城を包囲し
息舟を攻略して城を築き、拠点を設けた。
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22年前、当時の楚君、康王が大夫・観起を車裂きの刑で殺した。
その時、観起の子・観従は蔡にいたので
楚へ帰国せず、今も蔡の大夫・朝呉に仕えている。
蔡洧らが楚王に叛逆したとの報せを聞いた観従が、朝呉に進言した。
「今の楚王は暴虐で罪を重ねました。今こそ蔡を復国出来ましょう。
どうか臣に試させてください」
観従は蔡公(公子・棄疾)の命と偽って
晋に亡命している子干(公子・比)と、鄭に亡命している子晳(公子・黒肱)を蔡の郊外に招いた。
なお蔡公・棄疾、子干、子晳いずれも楚霊王の弟である。
観従は郊外で二人と盟約を結び、蔡都を攻撃した。
この時、蔡公は食事の前であったが、突然の攻撃に驚いて逃走した。
観従は子干を蔡公の席に座らせ、蔡公の食事を摂らせた後で
朝廷の庭に穴を掘って犠牲を殺し、蔡公の書を犠牲の上に置き
盟約を結んだ後、子干と子晳を去らせた。
そして観従は蔡人に向かって宣言した。
「蔡公は、晋から子干を、鄭から子晳を召し、楚に入れると申された。
二子は既に盟約を結び、楚に向かった。蔡公は兵を率いて二子に続くであろう」
この宣言を聞いた蔡人は、楚王への謀反と見て、観従を捕えようとした。
観従が叫ぶ。
「賊(子干と子晳)を取り逃がし、蔡公は軍を成した。わしを殺して何とするか」
続いて、観従が仕える朝呉が群衆に宣言する。
「汝等が楚王に従って死ぬべきだと思っているのであれば、
蔡公の命に逆らい、成り行きをを見守れっておれば良い。
しかし、蔡の復興を求めるのなら、蔡公に従い、協力すべきである」
蔡人は「命に従います」と言い、逃走した蔡公を見つけ出し
蔡公、子干、子晳が鄧に集まり、正式に盟約を結んだ。
蔡より以前に楚霊王に滅ぼされた陳国も、これに協力する事になった。
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夏4月、蔡公、子干、子晳の楚の3公子は
闘成然、朝呉と共に陳、蔡、不羹、許、葉の兵を率い
更には薳氏、許囲、蔡洧、越の常寿過の協力も得て、楚に向かう。
反乱連合軍は楚の郊外に至り、陳と蔡は復国の名分を明らかにするため
武軍(営塁。陳と蔡の旗が立てられる)を築こうとした。
しかし蔡公・棄疾は「兵は疲れている。今は一刻も早く進むべきだ。
藩(木や竹で作った簡素な柵)で軍営を造れば良い」と告げた。
蔡公・棄疾は大夫・須務牟と與史を先に楚都に入れた。
これを知った楚霊王の太子・禄に仕える僕人は、太子・禄と公子・罷敵を殺した。
反乱軍は魚陂に駐軍し、子干が楚王を、子晳が令尹を称した。
棄疾は司馬となり、先に楚王宮に入り、霊王に従う楚の公子らを殺し
観従を乾谿に駐留している楚霊王の軍営に派遣した。
観従が楚軍の将兵に告げた。
「楚都では、蔡公が新王に即位なされた。帰順する者は地位をそのままにするが
逆らう者は劓(鼻削ぎの刑)に処す、と申された」
これを聞いた楚の将兵は悉く帰順し、霊王の軍は訾梁で壊滅した。
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楚霊王は、楚都で留守を守る大夫、太子、公子らがみな殺された、という報を聞いた時
馬車に座上しており、驚愕の余り、車の下に転落したと言われる。
霊王は起き上がって
「人は誰もが子を愛する。それはわしと同様であろうか」と呟く。
側にいる侍者が返答する。
「王よりも子を愛する者はいるでしょう。臣は既に老いて、子もいません」
「わしは、人の子を殺し過ぎたのか。もはや破滅は避けられぬか」
右尹・子革が言う。
「楚都の郊外で待機し、国人の意見を聞くべきです」
「国人の怒りに触れるべきではない」
「楚都に入れば、従属する諸侯(陳、蔡、不羹、許、葉等)が
師(軍)を率い、王を護るべく、馳せ参じるでしょう」
「それら諸侯は皆、叛したと聞いておる」
「では、何処かの諸侯国へ亡命すれば、王のために再起を図って戴けるでしょう」
「もはや、福は我より去った。楚より奔れば、我は辱めを受けよう。
国君がその地位を失えば、再び国君に戻る事は叶うまい。
ただ、諸侯の臣下として忍辱の日々を過ごすのみであろう」
子革はそれ以上は言わず、霊王を見捨て、楚に帰った。
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全ての臣下に見捨てられた楚霊王は漢水を下り、楚国の副都・鄢に向かった。
楚霊王は三日間、一人で山中を彷徨った。
飢えれば草を食べ、渇けば川沢の生水を飲んだ。
野人(城外に住む民)は誰も王を助けようとしなかった。
宮中の雑役夫だった者に遭遇して、霊王が言う。
「三日間、何も食べていない。食を分けてほしい」
「新王が法を発しました。王に食事を与えたり王に従う者は、罪が三族に及びます。
それに、先君の暴政により、我々には人に譲れるほどの食はありません」
霊王は空腹と疲労で、その場に倒れ、そのまま昏倒した。
雑役夫は土の塊を王の枕にして、そこから去った。
暫くして霊王は目が覚めたが、飢渇のあまり、起き上がる事が出来ない。
この頃、芋尹・申無宇の子・申亥が
「父は王命に二度逆らった(王の旗を折り、章華宮で人を捕えた)のに
王は誅しなかった。これより大きな恩恵はない。
今、王は危難に陥っている。これを助けないわけにはいかぬ。
恩恵を棄てる事は不忠である。私は王に従う」
と言って霊王を探していた。
申亥は釐沢で飢えた霊王を見つけ、家に連れて帰った。
5月25日、楚霊王は申亥の家で首を吊って死んだ。
申亥は二人の娘を殉死させ、合葬した。
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楚人は楚霊王の死を知らず、政情は不安定であった。
観従が楚王・子干に言う。
「棄疾を殺しましょう。生かしておけば禍を受ける事になります」
しかし子干は「棄疾を殺すに忍びない」と言って拒否した。
観従が言う。
「棄疾は必ず王を殺すでしょう。臣は巻き込まれる事は望みません」
観従は子干の元から去った。
数日後、楚都の城内で「王がもうすぐ入城される」という声が上がった。
楚人は楚霊王が死んだ事を知らない。
5月17日夜、棄疾が臣下を城内の各地に送って「王が戻られた」と叫ばせた。
それを聞いた城内の国人は驚愕した。
棄疾は闘成然を宮廷に派遣して、子干と子晳に偽報を伝える。
「楚王が帰って来ました。司馬(棄疾)を殺し、間もなく、ここへ攻めて来ます。
両名は辱めから逃れるべきです。王軍は怒りに燃え、どうにもなりません」
これを聞いた子干と子晳は恐れて自害した。
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5月18日、公子・棄疾が楚都に入城し、楚王に即位した。楚平王である。
闘成然(子旗)が令尹に任命された。
平王は子干を訾の地に埋葬した。子干は楚王・訾敖と称される。
また、楚平王は、一人の囚人を殺し、その者に王の服を着せて
漢水に流してから拾い上げ、霊王の代わりとして埋葬した。
楚の国人に、霊王は既に死んだと宣言する事で、人心の安定を図ったのである。
後日、申亥が楚平王に霊王の遺骸を納めた霊柩を献じ、霊王は改葬された。
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昔、楚共王は秦から夫人(秦嬴)を迎えたが、子が産まれなかった。
愛妾の巴姫が五人の子を産み、これを寵愛したが、後継者を決める事が出来なかった。
そこで共王は楚の各地の名山・大川の神を祭り、祈祷を行い
「五人の中から社稷の主が選ばれるであろう」と語り、璧玉を示して宣言した。
「璧に向かって拝した者が楚の社稷を祀るであろう。誰も逆らってはならぬ」
祈祷を済ませると、共王は巴姫と共に璧玉を祖廟の庭に埋め
五人の子を呼び、年長の子から順番に埋められた璧を拝させた。
長子・昭は璧玉を埋めた場所に立ち、璧を跨いで拝した。
次子・囲は拝礼した時、肘が璧玉の上にあった。
三子・比(子干)と四子・黒肱(子晳)は璧玉から遠く離れた場所で拝した。
少子・棄疾はまだ幼かったため、宮人に抱きかかえられて拝した。
この時、二回拝し、二回とも璧玉の方向を向いていた。
闘韋亀はこれを聞き、少子・棄疾が楚王になると思い
子の成然を棄疾に仕えさせたが、その時、こう言った。
「長幼の序列を棄ててはならぬ。天が鬼神を楚に遣わし、危難が訪れるだろう」
長子・昭は成長して楚王(楚康王)に即位したが、子の代に王位を失った。
次子・囲は甥を弑して楚王(楚霊王)に即位したが、同様に弑殺された。
三子・比は十数日だけ楚王になったが、弟に弑殺された。
四子・黒肱は王になれず、誅殺された。
この四子は全て子孫が途絶えた。
最後に即位した少子・棄疾が楚平王となり、楚の祭祀を受け継いだ。
祈祷した通りになった。
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子干が晋から楚に帰った時、晋の正卿・韓起が叔向に問うた。
「子干は成功すると思うか」
叔向は「難しいでしょう」と答える。
「子干は楚の国人と共に、王を悪と憎み、利を求めている。
それは市場に賈(商人)が集まって商売をするようなものではないか。
なぜ、それが難しいのか」
叔向が答える。
「子干は晋に13年もいましたが、従者の中に賢人の存在を聞いた事がありません。
楚に親族なく、内応者もいません。それなのに動いたのは謀がないからです。
亡命しながら国を気にする様子もなかった。民も忘れ、徳もありません。
仮に子干が楚君になっても、誰も支持しないでしょう」
韓起が問う。
「では、楚は今の国君がまだ続くであろうか」
「楚を擁するのは蔡公(棄疾)でしょう。陳と蔡の君となり、城外も支配下に置いています。
悪を行わず、盗賊は消え、礼を外さず、民心を得ています」
韓起が言う。
「斉桓公と晋文公は庶子で、共に国を出奔したが、後に帰国して覇者となった」
「斉桓公は先君に寵愛され、管仲、鮑叔牙、賓須無、隰朋といった賢臣が輔佐して
莒国と衛国が国外で助け、国氏と高氏が内で助けました。
財を貪らず、施しを倦まず、善を求めて厭わなかった。国を得たのは当然です。
我が晋の先君・文公は好学で良く人と交わり、17歳で5人の賢才を得ました。
趙衰、咎犯、魏犫、賈佗、先軫がそうです。
外に斉、宋、秦、楚の輔を得て、内に欒、郤、狐、先氏が協力し
19年に及ぶ亡命生活の間も志を守って意志を厚く保ち、徳を積みました。
だから、恵公と懐公が民を棄てた時、晋の民は文公に従ったのです。
子干は民に施しを与えず、外には援ける者もなく、晋を去っても送る者なく
楚に帰っても迎える者がいないのに、国を望むことはできません」
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楚軍は昨年から包囲していた徐国から撤退を開始した。
しかし、呉が豫章で楚軍を破り
五帥(蕩侯、潘子、司馬督、囂尹・午、陵尹・喜)を捕えた。
楚平王は二人の王を殺して即位したために、国人や諸侯の非難を恐れた。
そこで、即位に協力した者に財を与え、民に施しを行い
寛大な政治を心がけ、罪人を赦し、免官された賢才を登用した。
そして、陳と蔡を再建し、かつての邑を復国させたのである。
平王が観従を召して語る。
「汝が欲することなら何でもかなえよう。」
観従は「臣の先祖は卜師の佐(補佐)でした」
平王は観従を卜尹(卜師。大夫の官)に任命した。
楚平王は枝如子躬を鄭に送って聘問させ
かつて楚が鄭から奪った犨と櫟の地を返させようとしたが
枝如子躬は鄭に土地を返さなかった。
鄭では楚平王の意思を知っていたので、枝如子躬に土地の返還を要求したが
枝如子躬は「臣は斯様な命を受けておりません」と答え、土地を還さずに帰国した。
枝如子躬は楚平王に復命すると、犨と櫟の件について尋ねられたので
上着を脱ぎ、囚人の姿になって「臣は君命を失念して、その地を返しませんでした」と答えた。
楚平王は枝如子躬の衷心を理解して、その手を取り
「汝に罪はない。いずれまた汝に任を与える」と告げたという。




