第百二話 南蒯の乱
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周の景王15年(紀元前530年)春3月27日
鄭簡公が崩御して、子の寧が後を継いだ。鄭定公である。
鄭の建国は周宣王の23年(紀元前806年)で、これより276年前の事である。
鄭の歴代君主で名君と呼びうるのは、周幽王に殉じた初代・桓公
鄭を大いに伸長させた二代・武公、諸侯に号令して「小覇」と言われた三代・荘公
晋楚間を巧みに渉って国を保ち、多くの子孫を遺した11代・穆公
そして、子展、子皮、子産といった賢臣をよく用いた17代・簡公であろうか。
簡公の葬送のため、鄭人は道を清め、障害物を除いた。
簡公の喪車の通り道に子大叔の廟があり、取り壊しが命じられたが
子大叔は衆(作業員)に道具を持たせて立たせるだけで、作業を行わさず、こう告げた。
「執政(子産)が『なぜ作業を始めないのか』と尋ねられたら、こう言うのだ。
『廟を取り毀すのが忍びないのですが、仕方ありません。作業を始めます』」
子産が視察に来た時、衆は言われた通りに話した。
子産は作業を止め、子大叔の廟を避けて通る道を選び直すことにした。
調べると、司墓(公族の墓を管理する職)の家も葬送の障害になっていた。
家を撤去すれば朝のうちに葬儀は終わるが
撤去しなければ遠回りになるため、日中(正午)までかかる。
子大叔が司墓の家を取り壊すよう、子産に請うた。
「撤去せねば、葬儀が終わるのは中天を過ぎます。
これでは、遠く諸侯から参った賓客に対して申し訳が立ちません」
しかし、子産はこれに反対した。
「遠方より幾日もかけて我が国の葬儀に参列頂いた諸侯の賓客にとって
葬儀の終わる刻限など、朝でも昼でも、さしたる影響はない。
賓客を損ねず、民を害する事もない方法があるなら、そうするべきだ」
司墓の家は撤去されず、正午に簡公の埋葬が終わった。
当時の君子は子産を評価して言った。
「子産は礼を理解している。人を害してまで自分の事を成そうとしない」
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夏、宋の大司徒・華定を魯に送って聘問した。
2年前の宋元公の即位を報告し、魯との友好を結ぶ事が目的である。
魯では華定を宴に招いて「蓼䔥(りくしょう)」を賦した。
「宴での楽しい話を忘れない。君子に出会った事は光栄である。
互いを兄弟と呼び、美徳と長寿は限りなく、同じ福を受け入れよう」等の意味がある。
華定は詩を賦して応える事が出来なかった。
これは、宴会を忘れ、栄光を宣揚せず
美徳を知らず、同じ福を受け入れなかった事を意味する。
魯の叔孫婼が言う。
「宴会の談笑を心に留めず、栄光を宣揚せず、美徳を知らず、同福を受け入れない。
これでは存続出来ない。彼は宋を亡命するであろう」
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斉景公、衛霊公、鄭定公が晋に入った。晋昭公の即位を祝賀するためである。
魯昭公も晋に向かったが、2年前に魯が莒を攻めて郠を取り
莒が晋に訴えた事があったが、晋はこの時、晋平公の喪中で解決出来なかった。
今回、晋は魯昭公の入朝を拒否したので、魯昭公は帰国して
代理に、魯昭公に随行していた大夫の公子・憖を晋に送った。
晋昭公が諸侯を享(宴の一種)に招待した。
鄭定公の相(補佐)を勤める子産は、鄭簡公の喪中を理由に享の参加を辞退して
喪が明けてから晋の命を聞くことを請い、晋はこれに同意した。
晋昭公が斉景公を宴に招いた。昭公の相(補佐)を勤めるのは卿の荀呉である。
二君は投壺(矢を投げて壺に入れる遊び)を始めた。
晋昭公が先に投げるために矢を持つと、荀呉が祈った。
「我が君が命中させたら、諸侯の長となるように」
晋昭公の矢は壺に入った。
次に斉景公が矢を持って祈った。
「わしが命中させたら、晋君に代わって諸侯を差配する」
斉景公の投げた矢も壺に入った。
士伯瑕が荀呉に告げた。
「晋はすでに諸侯の盟主です。壺に入ったところで何の意味もありません。
斉君は我が君を幼少で軟弱と見て侮辱しました。以後、斉君が晋に来る事はないでしょう」
荀呉は「晋の帥(軍)は強く、兵は勤勉である。斉など意に介さない」と言った。
堂下で控えていた斉の大夫・公孫傁は、荀呉と士伯瑕の会話を聞き
晋と斉の関係が悪化することを畏れた。
公孫傁は進み出て「すでに日は暮れました。両君もお疲れのご様子。これで退出いたします」
と言って斉景公を連れて退出した。
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楚霊王の暴虐は止まず、楚の大夫・成熊(百年前の楚の令尹・子玉の孫)が
楚人の讒言を受け、楚を出奔しようとしたが、その前に霊王に処刑された。
処刑の理由は「成熊は楚に叛した若敖氏の余党であった」という。
若敖氏の当主・子越が楚荘王に叛乱を起こしたのは、これより75年前である。
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晋の荀呉が晋軍を率いて北上し、晋と同盟関係にある白狄の国・鮮虞に道を借り
鼓国(現在の河北省晋州市)の都城・昔陽に駐軍した。
秋8月10日、晋軍が肥国(現在の河北省藁城区)を滅ぼし
肥国の君主・緜皋を捕えて引き上げた。
肥国を滅ぼした荀呉は、晋への帰路に、道を仮りた鮮虞を攻撃した。
これより約130年前、晋献公が虞に道を借りて虢を攻め滅ぼし
その後に虞をも滅ぼした「仮道伐虢」の語源となる兵法を用いた。
晋献公にこの策を授けたのは、荀呉の祖先・荀息である。
余談であるが、鮮虞国は後年の戦国時代、中山国と称し
中国史でも十指に入る名将・楽毅を輩出する。
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周の領地・原邑を領する大夫の原伯・絞は暴虐で、原に住む多くの民が逃走した。
冬10月、原伯・絞は原の群臣によって放逐され、周地・郊に逃亡した。
その後、原の群臣は絞の弟・跪尋を原伯に立てた。
周の卿士・甘簡公が死んだが、子がいなかったため、弟の過が継いだ。
甘悼公と言う。
甘悼公は甘の先君・成公と景公の家族を排除しようと目論んだ。
成公と景公の家族は、甘悼公の害意を察して
別の周の卿士・劉献公に賄賂を贈り、甘悼公の暗殺を頼んだ。
10月25日、甘悼公が殺され、成公の孫・鰌が立った。甘平公と言う。
翌26日には周景王の太子・寿の傅(教育官)・庾皮の子・庾過が殺され
周都の市で周の大夫が6人殺された。全員が甘悼公の与党であった。
殺害された6人の大夫の名は
瑕辛、宮嬖綽、王孫没、劉州鳩、陰忌、老陽子であった。
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魯の季孫意如が季孫氏を継いだ時に
季孫氏が有する費邑の宰(家臣の長)・南蒯に無礼を働いた。
季孫意如に不満を抱く南蒯は、公子・憖を唆す。
「私は魯から季孫氏を駆逐して、その財を魯の公室に返還します。
子が季孫氏に代わる地位に立つなら、私は費邑を挙げて支援しましょう」
公子・憖子仲は同意し、協力を約束する。
南蒯は魯の大夫・叔仲小にも同じ話を持ち掛けた。
昔、魯の季孫紇(季孫意如の父)が卒去した時に
叔孫婼が再命(二番目に重い君命)によって卿に任命された。
2年前、季孫意如が莒を討伐し、その功績により
三命(最も重い君命)をもって、卿に任命された。
叔孫婼は莒討伐に参加しなかったが、季孫意如より先に卿になったため
再命が三命に改められた。
叔仲小は、季孫氏と叔孫氏の関係悪化を目論んで
この件について、季孫意如に吹き込んだ。
「叔孫婼は莒討伐に参加していないにも関わらず
魯君から三命を受けました。これを辞退せず受け入れたのは非礼です」
叔仲小からこれを聞いた季孫意如は「汝の申す通りだ」と言い
叔孫婼に、自ら三命を辞退するよう勧めた。
叔孫婼は「私が叔孫氏を継いだのは、家中で乱があり、嫡子が殺されたからだ。
もし、禍によって叔孫氏が亡ぶなら、ただ天命に従う。
君命(三命)を廃さずとも、私の地位は既に定められている」と語る。
叔孫婼は入朝して「季孫氏は君命を軽んじた」と官吏に報告し、訴えを起こした。
季孫意如は恐れ、叔仲小に罪を被せ、自らに被害が及ばぬようにした。
窮した叔仲小は南蒯、公子・憖と共に、季孫氏を討伐する相談を行う。
この夏に、公子・憖は魯昭公と共に
晋昭公の即位を祝賀する名目で晋に向かったのである。
この件を晋に報告して、晋の力を借りて季孫氏を討伐するつもりであったが
魯昭公が晋への入国を拒否され、公子・憖のみが晋に入り
季孫氏を討伐の件を晋に報告する事は叶わなかった。
南蒯は計画は失敗したと判断して、費邑を挙げて魯から斉に遷った。
公子・憖は晋からの帰路、衛国に差し掛かった所で魯の混乱を聞いた。
そこで介(副使)を衛に置き、急いで魯へ向かったが
魯郊外で、南蒯が叛したと知り、自身も斉へ出奔した。
南蒯の謀反を知った費邑に住む郷人が、南蒯の家の前を通って嘆いた。
「季孫氏討伐への思慮は深いが、晋に頼ったのは浅慮であった。
その身は季孫氏の臣で近くにいるが、魯の公室を思って謀反を企む志は遠かった。
家臣(卿大夫の臣)でありながら国君のために謀るには、人がいなかった」
南蒯が牧筮(明確な目的なしに吉凶を卜う事)を行った。
結果、「坤」の卦が「比」の卦に変わり、卦辞には「黄裳元吉」とあった。
南蒯は、これは大吉だと信じ、孟椒に卦辞を見せた。
「今、何かを望めば、それは叶うであろうか」
孟椒はこう答えたという。
「忠信の事を望めば成功しよう。そうでなければ必ず失敗する。
外は強く、内が温順なことを忠と言う。和によって卜を行うことを信と言う。
故に、この卦の辞を『黄裳元吉』と言う。
『黄』は内に着る服の色、『裳』は下に履く下着、『元』は善の長を意味する。
三者がそろえば筮の結果は吉となるが、いずれかが欠ければ、そうはならないであろう」
南蒯は費邑に入り、郷に住む者に酒を振る舞おうとして
郷里に行くと、南蒯を誹謗する歌が聞こえた。
我々我有圃、生之杞乎。
(我々の持つ菜園に、杞(水辺に生える低木)が生えた)
従我者子乎、去我者鄙乎、倍其鄰者恥乎。
(我に従う者は良く、我より去る者は卑しく、親しい者を裏切るのは恥である)
已乎已乎、非吾党之士乎。
(仕方がない。あの者は我々と同士に非ず)
季孫意如は自ら動かず、叔孫婼を使って叔仲小を放逐しようとした。
叔仲小はそれを聞き、出仕しなくなる。
叔孫婼は官吏を叔仲小の家に送り
「私は季孫氏に協力して汝を追放する気はない」と伝え、入朝を勧めた。
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楚霊王は州来で狩りを行い、潁尾に駐軍して
蕩侯、潘子、司馬督、囂尹・午、陵尹・喜に命じ
呉国に圧力をかけるため、徐国を包囲させた。(徐国の君主の母は呉国の出身)
楚霊王は乾谿に入り、後詰となる。
王の傍には太僕・析父が従う。
夕方になって右尹・子革が楚霊王の元に来た。
霊王が子革に問う。
「楚の遠祖・熊繹は、呂伋(斉の国祖・太公望呂尚の子)
王孫牟(衛の国祖・康叔封の子)、燮(晋の国祖・唐叔虞の子)
伯禽(魯の国祖・周公旦の子)らと共に、周の康王に仕えた。
しかし、四国には宝器が贈られたのに、我が国には贈られなかった。
今、わしは周に人を送り、鼎を賞賜として要求しようと思うが、周王はわしに譲るであろうか」
子革が答えた。
「天子は楚君に譲るでしょう。熊繹は僻地に住み、粗末な車馬と衣服で土地を開き
山林を越えて天子に仕えましたが、桃弧(桃木の弓)と棘矢しか貢納出来ませんでした。
一方、斉は王の舅(周成王の母は太公望呂尚の娘)、魯の周公旦は周武王の弟
衛の康叔封も武王の弟、晋の唐叔虞は成王の弟でした。
だから楚にだけは何も贈られなかったのです
今や、周も四国も楚王に仕えています。鼎など惜しむ事はないでしょう」
霊王が更に問う。
「昔、楚国の祖・昆吾氏はかつて許国の故地に住んでいたが
今は鄭国がその地を有している。我々が求めたら譲るであろうか」
「譲るでしょう。周が鼎を惜しまないなら、鄭が田地を惜しむはずがありません」
「楚は中原の諸侯より遠く、近きにある晋を畏れている。
わしは陳、蔡、不羹に城を築き、それぞれ千乗の兵車を擁している。
今、諸侯は楚を畏れているか」
「楚に陳、蔡、不羹を併せれば、諸侯が楚君を畏れぬはずがありません」
会話の途中で工尹・路が来て楚霊王に面会を求めた。
「王よ、圭玉を削り、斧の柄の装飾にする準備が出来ました」
霊王は退席して工尹・路について行った。
霊王が去ると、析父が子革に語り掛けた。
「子は楚の賢臣ですが、先ほどは王に賛同するだけでした。
これで楚国を保てるのでしょうか」
「わしは今、言葉の刃を磨いて待っているところだ」
楚霊王が戻り、再び子革と会話が行われる。
「楚の左史・倚相は優れた史官である。
『三墳』『五典』『八索』『九丘』など、あらゆる古書に通じている」
「臣はかつて、左史と周穆王の話をしました。
穆王は天下を巡遊して、あらゆる場所に車轍馬跡を残そうとして
周の財政を圧迫したので、祭公・謀父が『祈招』の詩を作って王を諫めました。
以後、穆王は浪費を止め、祗宮で天寿を全うしたのです。
臣はこの詩について左史に尋ねましたが、知らぬと答えました」
「汝はその詩を存じているのか」
「知っております。『祈招は穏和で徳音を表す。王の風を想い
それは玉や金の如く、民のために尽力し、酒色に溺れず』」
楚霊王はその詩に感じ入って、食事や睡眠が少なくなった。
しかし数日後には自分を律する事が出来なくなった。
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周の景王16年(紀元前529年)春、魯の叔弓が魯軍を率いて
前年、魯に叛して斉に従いた費邑を包囲したが、叔弓は敗れた。
季孫意如は敗戦に怒り、城外で費人を見つけたら捕虜にするように命じる。
これに対して大夫・冶区夫が言う。
「費人を見つけたら、凍える者には衣服を与え、飢えた者には食を与え
子が費人の主になり、足りない物を補うべきです。
費人が自分の家に帰るが如く、季孫氏に帰順すれば、南蒯は必ず亡びます。
民が叛したら、南蒯と共に包囲された邑に住む者はいなくなります。
しかし、費人に害を加え、畏れさせれば、
季孫氏を嫌って背き、南蒯と共に団結するでしょう。
諸侯も同じように暴虐を行ったら、費人の寄る辺がなくなり、南蒯を頼る事となります」
季孫意如はこの進言に従った。
以後、費人は南蒯から離れていった。




