第百一話 晋平公は卒去し、楚霊王は蔡を滅ぼす
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秋7月、魯の上卿・季孫意如と、その佐を勤める叔弓
そして仲孫貜が、莒国を攻撃し、郠を取った。
勝利を挙げて魯へ凱旋した季孫意如は太廟に捕虜を献上した。
この時、初めて人を犠牲に用い、亳社(諸侯が国を建てる時に造る社)を祀ったという。
魯から斉に亡命した臧孫紇がこれを聞いた。
「魯国の祖・周公旦は義がある祭祀なら受けるが、今の魯に義はない。
徳、明らかならば民、軽率にならず、義を重んじるという。
人を殺して祭祀を行うなど軽率甚だしい。誰にとっての幸いだと言うのか」
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かつて、晋平公が西河で舟遊びに興じていた時
「どうすれば賢士を得て、わしと楽しみを共に出来るのか」と呟いた。
船人の固桑が晋君に語る。
「真珠は河海で産出され、玉石は山嶮で採れます。これらは足が無いのに
自然と晋君の下に集まるのは、君がこれらを好むからです。
士は足があるのに集まらないのは、君が賢士を好まないからです」
「我が食客は二千人に及ぶ。わしが士を好まぬはずはあるまい」
「鴻鵠は日に千里を飛びますが、両翼に頼っています。
鴻鵠に生える毛がどれほど増えても、更に高く速くは飛べず
逆に毛が減ったところで飛べなくなる事はありません。
君の食客二千の中に、鴻鵠の両翼たる者がいるでしょうか。
あるいは全員が毛の類でしょうか」
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かつて、晋の宝物を保管する楼台で火災が起きた。
晋の士大夫らが消火に励み、三日三晩かけて消火に成功した。
ただ、晋の公子・晏が五匹の帛を持って参内し
晋平公を祝賀して「慶事が起きました」と言った。
晋平公は怒って言う。
「天が火災をもたらし、晋の国宝を焼いてしまった。
士大夫は馬車を駆けて消火したのに、汝だけ帛を持って祝賀に来た理由は何だ」
「王は天下に宝を藏し、諸侯は民の間に財を藏し、民は倉に穀物を藏す、と聞きます。
今、晋の民は窮乏し、裾の短い麻服を着て、糟糠すら食えず
寒さと飢渇に喘いでいるのに、賦税は限りなく重い。
楼台には民の財貨の大半が藏されており、これに天が火災を降したのは
我が君が昔の暴君に倣う道を、天が閉ざした事に他なりません。
それゆえ、臣はこれを慶事と思ったわけです」
「なるほど。民の財は民に使わせよう」
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晋平公が師曠に尋ねた。「君主の道とは何であろうか」
「清浄で、無為で、博愛に務め、賢人を用い、耳目を傾けて万物を考察し
世俗に拘泥せず、近臣の阿諛に従わず、先々を見据え、頻繁に成果を省みる。
斯様なる態度で臣下に臨む事だと思われます」
平公は納得して「其の言や、善し」と言った。
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ある日、晋平公が狩りに出ると、赤子の虎を見つけたが、伏せたまま動かない。
「覇者が表に出たら、猛獣は平伏して起き上がらぬと聞く。
乳虎がわしを見て、伏せて動かなくなったが、これは猛獣であろうか」
傍らにいた盲目の師曠が語る。
「見目の良い駿馬は、駮に似ているそうです。
駮は馬に非ず、虎をも食らう獣です。我が君の車を牽く馬は、さぞ駿馬では」
「無論である。晋で一番の良馬を用いておる」
「一度、自分を誣せば(偽る、見栄を張る、自らを過大に扱う)窮し
二度誣したら辱めを受け、三度誣せば命を失うとか。
乳虎が動かないのは馬車を牽く馬を駮と見間違えたからで
我が君の徳義ではありません。自らを誣すのは宜しくありません」
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またある日、晋平公が朝会に出ると、一羽の鳥が平公の周りを飛び回り、去ろうとしなかった。
平公が師曠に問うた。
「霸王の元には鳳が降りて来るという。今、鳥が寡君の周りを飛び回って
飛び去ろうとしない。この鳥は鳳ではないだろうか」
師曠が言う。
「遥か東方に諫珂という鳥がいるそうです。
その鳥は身体に模様があり、足が赤く、鳥を嫌い、狐を好むとか。
今、我が君は狐裘(狐の皮で作った服)を着ていませんか」
「確かに、わしは狐裘を着ておる」
「既に我が君は二度、自らを誣しました」
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平公は師曠に対し不愉快になり、揶揄うために虒祁宮で酒宴を開いた。
宴の前に郎中・馬章に命じ、階段に蒺藜(ハマビシ。棘がある)を敷かせ、師曠を招いた。
宮に着いた師曠は靴を履いたまま登ろうとすると、平公が言う。
「堂に登る前に靴を脱ぐのだ」
師曠が靴を脱いで階段を登ると、蒺藜の棘が足に刺さり
驚いてその場に坐ると、今度は膝に刺さった。
師曠が嘆息すると、平公が言う。
「少し戯れただけだ。何を憂いているのか」
「肉を放置すれば蟲(蛆)が生じ、自らが食われます。
木も蠹(木を蝕む虫)を生じ、自らが蝕まれます。
人が妖を興せば、自らを害する事になります。
だから、五鼎(大夫の祭器)で藜藿( あかざと豆の葉。転じて粗食を指す)
を調理してはならず、堂廟に蒺藜を生えさせてはならないのです」
「わしは、既にそれをやってしまった。一体どうなるというのだ」
「妖は目前にいます。我が君は来月3日、亡くなられるでしょう」
7月3日、晋平公が師曠に語る。
「汝は今日、寡人が死ぬと申した。寡人の様子は如何であろうか」
師曠は拝謁を終えると、何も言わずに帰宅した。
この日、諸侯に威を奮ってきた晋平公が薨去した。在位26年であった。
平公の死を予言した師曠の神明が天下に知れ渡ったという。
晋平公の子・夷が晋君に即位した。晋昭公である。
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鄭簡公が弔問のため、晋へと向かい、黄河に至る。
しかし周の礼では、諸侯が崩御した場合、弔問は大夫が行うため
晋は鄭簡公の入国を拒み、代わりに鄭の卿・子大叔が晋に入った。
9月、魯の叔孫婼、斉の国弱、宋の華定、衛の北宮喜、鄭の子皮
そして許、曹、莒、邾、滕、薛、杞、小邾の卿が晋に入り
晋平公を葬送した。諸侯の弔問は大夫が行うが、葬事には卿が出席するのが礼である。
鄭の子皮は出発する前、晋の新君・昭公に贈る幣(貢物)を準備した。
しかし、子産がこれに反対する。
「喪に幣礼は必要ありません。幣には車百乗が必要になり
百乗の車には千人の人夫が必要となり、鄭国の財政を圧迫します。
諸侯に喪がある度に幣礼を用いれば国が亡ぶでしょう」
しかし、子皮は子産の諫言を聞かなかった。
晋平公の埋葬が終わると、諸侯の卿大夫は晋の新君に面会を求めた。
魯の叔孫婼が「それは礼に悖る」と言ったが、他の大夫達は従わない。
晋の叔向が晋昭公の言葉を伝える。
「諸卿の尽力により、葬儀は無事に終了したが、卿らは寡君に接見を求めている。
しかし寡君は今、喪服を着て先君に対し哀哭している。
喪服で諸大夫に会えば、再び弔を受ける決まりである。卿らは如何するか」
諸国の卿大夫は謁見を諦めた。
鄭の相国・子皮は全ての財幣を使い果たして鄭に帰国し、子羽に語る。
「知るは難からず、行うは難し。子産はこの道理を知り、私はそれを知らぬ。
欲は法を毀し、放縦は礼義を破るとは私の事である。
子産は法と礼儀を知り、私は欲に対して放縦であった」
魯の叔孫婼が晋から帰国し、魯の大夫が叔孫婼の家に集まった。
陳・鮑氏との乱に敗れ、斉から亡命してきた高彊(子良)は、叔孫婼に会うとすぐ帰った。
叔孫婼が諸大夫に語る。
「かつて斉では、慶封が呉へ亡命した後、子尾は多くの邑を得たが
それを公室に返還したので、斉君は子尾を忠臣と称えた。
子尾が公宮で斃れると斉君は子尾を車に乗せ、自ら車を曳いて子尾の家まで送ったという。
だが、子尾の子・子良は父業を継げず、魯へ逃げて来た。
忠は美徳だが、子が継承出来ねば、罪は子に及ぶ。
故に、人はよく慎まねば、禍が訪れるのだ」
孔子はこの前年、19歳で宋国の幵官氏の女性を娶り
この年、最初の子が産まれた。
魯昭公は孔子に一尾の鯉を下賜し、孔子はそれを栄誉として
長男に「鯉」と命名し、字を伯魚とした。
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この年の冬12月2日には宋平公も崩御した。在位は44年であった。
平公の子・佐が新たな宋君となる。宋元公である。
宋元公は以前から寺人(宦官)の柳を嫌い、自分が宋君に即位したら殺すつもりであった。
しかし、宋平公の葬儀に臨み、寺人・柳は元公の座席に炭を置いて温め
元公が座る直前に片付けた。
以後、宋元公は寺人・柳を寵用するようになったと言う。
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年が明け、周の景王14年(前531年)
春2月、前年に崩御した宋平公が埋葬され、諸国の卿大夫が葬儀に参列した。
周景王が大夫・萇弘に尋ねた。
「昨年は晋と宋の国君が薨去した。今年の諸侯では、どこが凶であろうか」
「蔡国です。13年前、今の蔡侯が先君・蔡景侯を弑逆した時
歳星(木星)が豕韋の位置にあり、今年、また豕韋に戻りました。
蔡は楚に攻められ、蔡を領有した楚は悪徳を更に積み重ねます。
歳星が大梁に至る時、蔡は復国し、楚でも凶が起きるでしょう」
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萇弘が周王に語っていた頃、楚霊王は申に蔡霊公を招聘した。
蔡侯は楚王の招きに応じようとしたが、蔡の大夫が反対した。
「楚君は貪婪で信が無く、我が国に対して猜疑を抱いています。
我が君を誘い出し、捕えようとしているに違いありません」
しかし蔡霊侯は諫言を聞き入れず、申に向かった。
3月15日、楚霊王は蔡霊侯を申の酒宴に招待した。
蔡霊侯が酔った頃、隠れていた楚の甲兵が蔡候を捕えた。
夏4月7日、楚霊王は蔡霊侯と、その家臣70人を殺し
楚の公子・棄疾が楚軍を率いて蔡へ侵攻し、蔡都を包囲した。
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楚が蔡に侵攻したと聞き、晋の正卿・韓起が叔向に尋ねた。
「楚は勝つと思うか」
「勝つでしょう。蔡侯はかつて、その君を弑し、また蔡民を酷使しました。
だから天は楚の手を借りて蔡侯を討ったのです。
ですが、3年前に楚王は陳の公子・呉を奉じて陳を討ちました。
楚王は公子を陳君にせず、これを滅ぼし、陳は楚の県になりました。
今、楚王は蔡君を弑し、蔡を包囲しています。
天は楚の悪を厚くしています。必ず咎を受けるでしょう」
晋の卿・荀呉が韓起に言う。
「晋は陳を救えず、今また蔡を救えなかったら、諸侯は晋から離れるでしょう。
亡国を憂いないのであれば、盟主である意味がありません」
韓起は大夫・狐父を楚に送り、蔡の包囲を解くように請うたが、楚は拒否した。
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秋、晋の韓起、魯の季孫意如、斉の国弱、宋の華亥、衛の北宮佗、鄭の子皮
および曹、杞の大夫が屈銀で会した。蔡の救援が目的である。
鄭の子皮が出発する時、子産が語る。
「会を行っている間に、蔡は滅ぶでしょう。蔡は小国なのに大国に服せず
楚は大国なのに徳がなく、小国を慈しみません。天は蔡を棄て、楚の悪を重ねて
それが満ちたら罰しようとしています。蔡は必ず亡びます。
蔡候は先君を殺して即位した者です。国を維持できる者は僅かしかいません。
善悪は歳星の周期によって繰り返されます。3年後には楚君も咎を受けるでしょう」
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5月4日、魯昭公の母・斉帰が亡くなった。
魯昭公は母の喪中に比蒲の地で大蒐(狩猟、閲兵)を行ったので
魯君の行いは礼から外れていると非難された。
魯の仲孫貜が邾荘公と会見し
侵羊で盟約を結び、両国の友好を確認した。
侵羊の会盟が行われる少し前、泉丘に一人の娘がいて
孟氏(仲孫玃の一族)の廟を帷幕で覆う夢を見た。
翌日、娘は友人に夢の事を話し、二人で仲孫貜に会いに行った。
二人は清丘の社で、どちらが仲孫玃の子を産んでも
決して互いを裏切らない事を誓い合った。
仲孫貜は二人を妾にして、侵羊の会から戻った後、二人と関係を持った。
娘は何忌(孟懃子)と設(南宮敬叔)を産んだ。
友人には子が出来なかったため、設を養育させた。
この二子は後年、孔子に師事する事になる。
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戚の地で周の単公と晋の韓起が会合を行う。
単公は周景王の命を伝えたが、視線は下を向いたままで、言葉もはっきりしなかった。
韓起が晋に帰国した後、これを叔向に話した。
「単公はもうすぐ死ぬでしょう。会朝(会見・朝見)の言は
その場の全員に聞こえねば、事の道理を明らかに出来ない。
視線は上を向かねばならない。容貌を正すためです。
言によって命が発せられ、容貌によって態度が明らかにされる。
それらを失えば誤りを招き、その身を護る事は叶いません」
周の単公はこの年12月に死ぬ事になる。
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秋9月21日、魯候が生母の斉帰を埋葬したが、魯昭公に悲しむ様子はなかった。
晋の士が葬送に参加し、帰国した後、これを史趙に話した。
史趙は「魯君は魯を出奔する事になるであろう」と語った。
「なぜ、そう思われたのでしょう」と士が問うと、史趙は
「母の死を悲しまぬ者は、祖先の霊による守護を棄てたという事だ」と言った。
叔向がこれについて語った。
「魯は衰退するだろう。国に大喪があったのに大蒐を行った。
魯候は喪に服せず、一日も悲しまなかった。
国が喪を悲しまないのは君を畏れないからである。
国君が喪に服しないのは親を顧みないからだ。
国が君を畏れず、国君が親を顧みない。魯候は国を失うだろう」
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楚軍は公子・棄疾に加え、楚霊王も合流して蔡都を攻撃し
冬11月20日、楚軍は蔡都を陥落させ、蔡は滅んだ。
楚霊王は蔡の太子・有(隠太子とも言われる)を捕えて兵を還し
隠太子を祭祀の犠牲にした。
楚の芋尹・申無宇がこれを非難した。
「楚王は諸侯の太子を犠牲に使った。必ず後悔するであろう」
陳に続き、蔡も滅ぼした楚霊王は
陳、蔡、不羹に城を築き、公子・棄疾が蔡公になった。
楚霊王が申無宇に、蔡公・棄疾の様子を尋ねた。
「子を選ぶは父に如かず、臣を選ぶは主君に如かず、と申します。
かつて鄭荘公は櫟に築城して公子・子元を置き、後に鄭昭公が出奔しました。
斉桓公は穀に築城して管仲を置き、今の斉もその功績に頼っています。
身内(公族)は辺境に置かず、異姓は朝廷に置かず
親族は外に置かず、他国者は内に置かず、と聞きます。
今、公子が外におり、然丹(鄭から楚に出奔した子革)が内にいます。用心するべきです」
「楚都には大城がある。心配あるまい」
「鄭は京と櫟が子儀を殺し、宋は䔥(しゅく)と亳が子游を殺し、斉は葵丘が無知を殺し
衛は蒲(甯殖の邑)と戚(孫林父の邑)が衛献公を出奔させました。
末が本より大きければ必ず折れ、尾が体より大きければ振る事が出来ません。
いくら都に大城があっても、万全の備えにはなりえません」
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4年前に章華台を築いた楚霊王は、伍挙と共に台に登って言った。
「実に美しいものだ」
伍挙が言う。
「国君は、徳によって民に慕われる事を美とし、民を安んじることを楽とし
遠方の人を帰服させる事を明とします。
ただ高いだけの建物や彫刻を美とし
鍾、磬(打楽器)、琴が盛大な様子を楽とは申せません。
先君・荘王は匏居の台に住みましたが
吉凶の気を観測しうる高さに留め
使用する木材は城郭の守備に影響せず、出費は民の負担にならず
建設に携わった民は農事に影響しませんでした。
王がこの台を築くために民を疲弊させ、財を使い果たし、数年を要して完成しました。
王がこの台を美しいと言い、自らの行動が正しいと思うなら、それは楚にとって危機となります」
この年、黄河が赤く染まった、と言われる。




