第百話 陳氏、高唐を得る
ついに100話に到達しました!
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衛君に即位した衛霊公が晋の聘問に向かう途中、濮水で宿泊した時の事である。
深夜、何処からか琴の音が聞こえた。
霊公は側近に「あの鼓琴は何であろうか」と聞いたが、霊公以外の誰も聞こえないと言う。
衛霊公は楽師の師涓を呼んだ。
「わしは確かに琴の音を聞いた。しかし家臣は誰も聞こえなかったと言う。
そこで、実際にわしが奏し、汝に聞かせる。曲を書き留めよ」
師涓は「諾にございます」と言い、琴を霊公に差し出し、傍に端座して曲を記録した。
翌日、確認すると「曲は書き留めましたが、習得がまだです。もう一日、修練が必要です」
と師涓が言うので、霊公は同意した。
その翌日「曲を習得致しました」と師涓が言ったので
霊公らは晋に入り、晋平公に謁見した。
晋平公は虒祁宮で宴を開き、衛霊公を歓待した。
やがて酒が回ると、衛霊公が晋平公に語った。
「晋に来る途中、寡君は新楽を聞きました。お聴き頂けませんか」
「古今の楽を聴き尽くし、些か退屈しておったところだ」
平公が許可したので、霊公は師涓を師曠(晋の楽師)の傍に座らせ、琴を弾かせた。
しかし、弾き終わる前に師曠が演奏を止めるように制した。
「これは亡国の楽である。最後まで演奏してはならぬ」
平公が師曠に尋ねた。「汝はこの楽を知っているのか」
「これは昔、殷の紂王のために師延が作った、頽廃の楽です。
周武王が紂王を討伐した時、師延は東へ逃走し、濮水に身を投げました。
それ以来、この楽が濮水の辺で聞こえる事があるとか。
そして、これを聞いた者は国が削られると」
しかし晋平公は「わしの好む楽音である。最後まで聴いてみたい」と言ったので
師涓は最後まで演奏した。
新楽を気に入った平公を見て、師曠が嘆いた。
「晋は衰える。国君に衰退の兆が見えた。
楽は山川の風を各地に通し、徳を遍く伝えるためにある。
万物を感化し、詩を歌い、礼を定め、節を守り
秩序が生まれ、遠方の者は帰服し、近き者も離れない。
それを疎かにすれば必ず衰える」
師涓の演奏が終わり、晋平公は
「善き哉。これほどに心を動かす楽が他にあるであろうか」と絶賛した。
師曠は「あります」と言う。
「それは是非聴きたいものよ」
「残念ながら、我が君の徳が足りません。聴く事は叶わないでしょう」
「わしにとっては、楽が唯一の娯楽。聴かせてくれぬか」
師曠は琴を持ち、演奏を始めると、たちまち十数羽の玄鶴(鍋鶴)が集まり
再度演奏すると、玄鶴が鳴き、翼を伸ばして、天空を舞った。
平公は感嘆し、師曠に祝いの酒を勧めた。
「これ以上の音はないか」
「ございます。深淵な昔、黄帝が鬼神を集めたと伝えられる音です。
ですが、我が君は徳が薄いので、聴くと亡ぶでしょう」
「わしは既に老いた。亡んでも構わぬ。奏でるがよい」
師曠は琴を奏じた。すると、西北の方向から白雲が流れて来た。
更に演奏すると、大風が吹き出し、豪雨が降り出し、屋根の瓦が吹き飛ばされた。
平公の側に仕える近臣は逃げだし、平公も驚き畏れて
廊屋(主賓室の左右の部屋)に逃げ、そこで伏せた。
この後、晋国を大旱魃が襲い、三年間、草木も生えず、晋の全土が荒れ果てたという。
晋平公の時代になると、六卿(韓、趙、魏、中行(荀)、范、智)は
いよいよ権力を拡大し、公室は衰え、覇業を保つことが困難になった。
楚霊王は暴虐だが、その兵は強く、強盛で、しばしば中原を侵し
斉は経済力で大国の地位を維持し、秦は天嶮が諸侯の侵攻を妨げる。
悲惨なのは中原の小国群である。
楚に従属すれば晋は怒り、晋に朝見すれば楚の討伐を招き
斉との関わりを断てば経済が立ち行かない。
春秋時代、長きに渡り覇者として中原に君臨した晋は覇権を失いつつあり
覇者の時代が終わり、戦国の世が目前に迫って来たのである。
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周の景王12年(紀元前533年)春1月
魯の大夫・叔弓、宋の宰相・華亥、鄭の卿・子大叔、衛の大夫・趙黶が
前年、楚によって滅ぼされ、今は楚領である陳県で、楚霊王と面会した。
2月、楚の公子・棄疾が許国の都を葉から夷(元は陳の邑)に遷した。
同時に楚の臣・伍挙が淮水北部の地・州来を許国に与えた。
一方で、濮水の西に位置する夷の地は陳県に加えられた。
夷が許都になり、楚の右尹・然丹は、夷の民を陳県に移住させた。
更に、楚の方城外に住む民は許国へと遷された。
楚は陳を滅ぼした事で、頻繁に国の領地や都を変え、民を強制的に移住させたので
楚国の辺境に住む民は安定せず、不満が高まった。
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周の甘の大夫・襄と晋の閻県の大夫・嘉が閻の地で争った。
晋の大夫・梁丙と張趯が陸渾の戎を率い、穎を攻撃する。
周景王は晋を譴責すべく、詹桓伯を送った。
「周の祖先・后稷が夏朝の代に功を立てて以降
魏、駘、芮、岐、畢は周の西土である。
周武王が牧野の役で殷紂王を滅ぼし、蒲姑、商奄が東土となり
巴、濮、楚、鄧は我が南土、粛慎、燕、亳は北土である。
また、武・成・康王の代に同姓諸侯を建て、周の蕃屏とした。
天子の存在は衣服に冠、河に源流、民に主がいるようなものである。
冠を棄て、源を塞ぎ、主を喪えばどうなるであろう」
晋の叔向が正卿(宰相)・韓起に言う。
「昔、晋文公が覇者になった時、天子に隧葬(周王にのみ許される葬儀)の礼を求めましたが
当時の周襄王は許可しませんでした。
晋は天子を補佐し、恭敬で周に仕えるべきです。
文公より後、晋は代を経るにつれて徳が衰え、周室を害し、軽視して
驕慢な態度を示すようになりました。
これでは諸侯が二心を抱くのも当然です。我々はよく考えるべきです」
韓起は叔向の進言に従い、趙成を周に送って、閻の地と、穎で捕えた捕虜を返還した。
周景王は大夫・賓滑に甘大夫・襄を捕えさせた。
晋では甘大夫・襄を礼遇して帰国させた。
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夏4月、天上に火星が現れた頃、楚の陳県で火災が起きた。
鄭の卜官・裨竈が子産に語った。
「陳の国祖は帝・顓頊で水徳、一方で楚の国祖・祝融は火徳です。
今、陳で火災が起きたのは、楚を逐って陳を建てる事を意味しています。
天地・陰陽の二極は五行によって成り立つので、5年後、陳は復国します。
その後、歳星が五度、鶉火を通った時(52年後)に陳が滅び、楚が領するでしょう」
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晋の卿・智盈が婚姻のため、斉に入った。
6月、智盈は晋に帰る途中、戲陽の地で死んだという。
晋都・絳に智盈の柩が置かれると
葬儀が終わらぬうちに晋平公は酒を飲み、音楽を奏でた。
膳宰(料理長)・屠蒯が席にいる者に酒を注ぐことを願い出た。
晋平公が許可すると、屠蒯はまず楽帥に酒を献じた。
「汝は楽を奏でる事で、国君の耳を聡らかにする責務がある。
忌日には国君は楽を退け、業を棄てて忌避するものであるが
汝はそれを国君に教えず、楽を奏でた。これは不聡である」
次に晋平公の寵臣・嬖叔に酒を献じた。
「汝は国君の目であり、国君を明にする事が職責である。
服装で礼を表し、礼で事を行い、事によって物が生まれ、物によって容貌が出来る。
卿の葬儀で宴を楽しむのは、国君のあるべき状態ではない。
汝がそれを国君に教えぬ事は不明である」
そして屠蒯は自ら酒を飲んで言った。
「食で気が流通し、気で志は満たされ、志から言が定まり、言によって令は発せられる。
臣は食を管理する立場にいながら、国君に仕える者を二人失官させた。
しかも、国君は処罰の命を下さない。これは臣の罪である」
平公は屠蒯の諫言を受け入れ、酒宴を中止した。
秋8月、智盈の子・智躒が後を継いで、晋の下軍の佐に任命された。
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魯の卿・仲孫貜が斉に入り、殷聘を行った。
「殷」は賑わう、という意味で、字の如く盛大な聘問であったらしい。
冬、魯が郎の地に苑囿(鳥獣を放し飼いにする庭園)を築いた。
これを建設している時、魯の季孫意如(季孫宿の孫)は
速く完成させるため、工人(建築労働者)を督促したので、叔孫婼が忠告した。
「造営を急ぐ事はない。民の労を増やすのはいけない。
苑囿は無くとも困らない。しかし民がいなくなればどうしようもない」
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周の景王13年(前532年)、春正月、婺女(女宿の星座)で新星が誕生した。
鄭の裨竈が子産に語る。「7月3日に晋候は崩御するでしょう」
子産が驚き、理由を尋ねた。
「今年は天の歳星(木星)が顓頊の虚にあります。
ここは姜姓の国(斉)と任姓の国(薛)が守る地にあたります。
婺女から新星が現れたのは、邑姜(斉の国祖・太公望呂尚の娘で晋の国祖・唐叔虞の母)に
禍を告げている証です。ここから晋君の死を知りました」
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夏5月、斉の国政を担う重臣・子旗と子良は酒を嗜み
婦人の言を用い、賢人を遠ざけたため、斉人の恨みを招いた。
両氏の勢威は強大で、斉で野心を抱く陳・鮑の二氏が特に嫌っている。
夏、斉都に、子旗と子良が陳氏と鮑氏を攻撃しようとしている、との噂が流れた。
陳無宇はこれを信じ、鮑国に相談するため、鮑氏の家に向かう。
その途中、酔った子良が車で道を駆けて行く姿を見た。
陳無宇と鮑国は部下に武器を配り、戦いの準備を行う。
陳無宇は子旗と子良の元へ人を送り、様子を探らせたところ
二人とも酒を飲んでおり、こちらを攻める気配はない、との報告であった。
鮑国が言う。
「ニ子が我らを攻める、という噂は偽りであったか」
しかし陳無宇は反論する。
「まだ油断すべきではない。報告を鵜呑みにしてはならぬ。
我々が配下に武器を配ったと二子が聞けば、必ず我々を攻撃するであろう。
酒を飲んでいるのなら、今こそ討つべきだ」
鮑国は同意し、陳氏と協力して欒氏(子旗)と高氏(子良)を攻撃する決断を固めた。
ニ子は陳氏と鮑氏から攻撃を受け、即座に兵を動員して対抗するが
欒・高氏の方が兵力は多いものの、先手を取られたため、戦況が不利であった。
子旗が提案した。
「我が君を得よう。陳・鮑も斉候には手が出せぬ」と言い
子旗と子良は斉景公のいる宮廷に向かい、虎門(宮門)を攻めた。
斉君を取られれば万事休すと、二子の後を陳・鮑の両氏が追撃する。
斉の大夫・晏嬰が朝服を着て虎門の外に立っていた。
朝服は戦う意志がない事を表す。
陳・鮑・欒・高の四氏が晏嬰を招いたが、晏嬰は誰にも従こうとしない。
晏嬰の臣下が尋ねた。「我らは陳氏と鮑氏を助けますか」
晏嬰が答える。「陳・鮑に正義があると言うのか」
「では、欒氏と高氏を助けますか」
「欒・高の正義が陳・鮑氏に勝ると言うのか」
「それでは、我らは帰るべきでしょうか」
「我が君が攻撃されている。どうして帰れよう」
四氏が互いに牽制し合い、晏嬰が虎門に立ったまま、時間が経つ。
斉景公が「晏嬰が危ない。あの者を死なせてはならぬ」と叫び
側近に命じて晏嬰を公宮に招き入れた。
斉景公は大夫・王黒に霊姑銔(斉桓公の旗)を授けて
兵を率いさせ、四氏の鎮圧を命じた。
晏嬰が虎門からいなくなると、四氏が稷門(斉の城門)で交戦を開始した。
この戦いで欒氏と高氏は敗れ、荘(斉都の市)まで退くが
斉の国人からも追撃され、ここでも敗退する。
更に、鹿門(城門)でも敗れ、子旗と子良は魯へ出奔した。
戦いに勝った陳氏と鮑氏は、欒氏と高氏の家財を分け合ったが
晏嬰が陳無宇に言う。
「欒・高の財は、我が君に返還するべきです。
謙譲とは徳であり、人に譲る事は美徳です。争力で以て利を奪ってはいけません。
急に利を蓄えれば害を生みます。義を以て、緩やかに利を成長させるべきです」
陳無宇は晏嬰に従い、ニ子から奪った財を全て斉景公に譲り
莒に退き、告老(引退)を請うた。
引退した陳無宇には長子・開、次子・乞、三男・書がいる。
長男の陳開が陳無宇の後を継いだ。
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10年前、子良の父・子尾は子山、子商、子周等、斉の三公子を追放した。
子良を撃退した陳無宇は、この三公子を呼び戻し
子山と子商には子良に奪われた邑が返還され、子周は夫于邑が与えられた。
2年前には、子旗が子城、子公、公孫捷を追放した。
陳無宇はこの三人も斉に呼び戻して禄を与え、自らの党とした。
陳無宇は他にも、斉で禄を持たない公族に自分の邑を分け与え
貧しい者には自らの貯えを施した。
「周武王は得た賞賜を施しに使ったから、周を建てた。
斉桓公も施しを行った事で、天下の覇者となれた」
斉景公は陳無宇に莒の傍にある邑を与えようとしたが、陳無宇は辞退した。
しかし、景公の生母・穆孟姫の勧めにより、陳氏には
高唐(現在の山東省聊城市高唐県)の地が与えられた。
陳氏は高唐を得た事で、今後いよいよ巨大化していく。
歴史作家の宮城谷昌光先生は
「人は、疑うよりも、信じる方が強くなれる」と、その著書で書いておられました。
春秋時代の記録、怪しすぎるんだけど、いちいち疑ってかかるときりがないので
一周回って、内容を全部信じた上で考える事にしました。




