第九十九話 神霊と人
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魯昭公は、晋に報告する事なく楚に朝見した事で
晋は機嫌を損ね、魯と杞の国境策定に干渉をはじめた。
魯・杞両国は幾度も争っており、国境に近い邑の領有が度々入れ替わってきた。
魯の上卿・季孫宿は、晋の機嫌を取るために
杞国から獲得し、今は仲孫貜が所有する
成邑を晋に割譲する事を提案したが、仲孫貜の家宰(家臣の長)・謝息が反対した。
「主は魯候に従い、楚に入っています。
その間、臣は主の邑を守るのが役目。これを失ったら、子も私の忠心を疑うでしょう」
「魯が晋の罪を得たのは、我が君が楚に入ったせいである。
杞国の地を返すように求める晋の命に背けば、魯の罪は更に重くなろう。
晋師(晋軍)が魯に来ても、これを防ぐ事は出来ぬ。
故に、成邑を一旦、晋に預け、晋に隙が生じたら、再び杞から取れば良い。
汝には桃郷を与える。成の地が戻ればニ邑を領する事となる」
「桃には山がないので、成ほどの価値はありません」
「ならば萊邑と柞邑も加える」
謝息は同意して桃に移り、成邑は魯から晋、さらに晋から杞へと返還された。
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魯昭公が楚都に入り、楚霊王は魯候を章華台の享宴に招いた。
楚霊王は長髭(髭の長い者、あるいは背が高い者)を魯候の相(賓客の補佐役)にして
大弓を魯昭公に贈った。
しかし暫く経つと、楚王は大弓が惜しくなり、魯候に与えた事を後悔した。
楚霊王の心中を知った大宰・薳啓疆が魯昭公に会いに行き、祝賀した。
魯昭公は何の祝賀か尋ねると、薳啓疆が語る。
「あの大弓は斉、晋、越が久しく欲している物です。
我が君はそれを、彼等に与えず、貴君に贈りました。
貴君は三国に備え、慎重に宝を守って戴けるように祝賀したのです」
魯昭公は恐れ、大弓を楚王に返した。
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鄭の執政・子産が晋を聘問した。
この時、晋平公は病を患っていたため、晋の正卿・韓起が子産を迎えた。
「我が君は病で寝込み、既に3ヶ月です。あらゆる山川に祈祷を行いましたが
快癒の気配はありません。
最近、夢で黄熊が寝室に入るのを見ました。これは何の悪鬼でしょう」
「晋君は英明で、子が正卿を勤めています。悪鬼が現れるとは思えません。
太古、帝堯が羽山で鯀を誅殺した時に
鯀の神霊が黄熊に姿を変え、羽淵に入りました。
鯀の子・禹が黄河を治め、夏王朝を建て、夏、殷、周の三代に渡り
黄熊は代々、神霊として祀られる事になり、今に至るのです。
晋は諸侯の盟主でありながら、黄熊を祀っていないのではありませんか」
韓起が黄熊を祀ると、晋平公は病から回復した。
晋平公は子産に褒美として莒国の二方鼎を下賜した。
(二方鼎は、かつて莒国が晋に献上した二つの四本足の鼎。三本足の鼎は円という)
子産と韓起の会話、続く。
「かつて晋候は鄭の卿・子旗を称賛し、州の地を下賜しましたが、子旗は早世しました。
晋君の徳を享受する事かなわず、子旗の子・施は州を晋に返還すると申され
晋君の病により、報告も出来ないため、私から子にお伝えします」
韓起は辞退したが、子産はなおも続ける。
「施は先代の禄を受け継ぐ事を畏れています。大国の賞賜を継ぐなど、尚更でしょう。
子が州を受け入れれば、施は罪から免れ、安泰です」
韓起は同意して晋平公に報告した。
平公は州を韓起に与えたが、韓起はかつて趙武と州の所有を争った事があった。
韓起は州を有する事に躊躇いを感じ、宋の大夫・楽大心が領有する原邑と交換した。
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ある鄭人が「伯有が現れた」と叫んで走り回り、国中が騒ぎになった。
伯有は8年前に子晳に殺された鄭の重臣である。
昨年の2月、ある鄭人が夢で伯有を見た。夢の中の伯有は甲冑を着て、こう言った。
「3月2日、わしは子晳に協力した子上を殺すであろう。
明年の1月27日には、子晳と共にわしを攻撃した伯石を殺すであろう」
前年3月2日、子上が死に、鄭の国人は伯有の復讐を恐れた。
この年の1月27日には伯石も死んだので、国人は更に恐れた。
2月、子産が公孫洩(19年前に殺された子孔の子)と良止(伯有の子)を
大夫に立て、伯有の霊を鎮めると、騒動は収まった。
子大叔が子産に理由を聞き、子産がこれに答える
「霊は帰る所があれば悪鬼にはならない。私は伯有を帰るべき場所に帰らせた。
良止が大夫になった事で、伯有の家系の祭祀が継続される」
「公孫洩を大夫にしたのはなぜでしょう」
「伯有も子孔も不義によって殺されたが、悪鬼になった伯有の子だけを立てれば
鄭民は朝廷が悪鬼を恐れたと思い、不満が生まれる。
それで、大義によって誅殺された者の後嗣を同時に立てる必要があった。
民は喜ばなければ政治を信じず、信じなければ従うこともない」
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子産が晋に行った時、趙成(趙武の子。中軍の佐)が尋ねた。
「伯有は今後も鬼になりますか」
「人が死ぬと魄になり、陰の気を持ち、魄の陽気の部分が魂です。
生前に強勢であった者ほど、無念の横死を遂げれば、死後の魂魄は強くなり
時には神霊にまで至る事もあります。
庶人であっても無念の死を遂げた者の魂魄は人に憑依して暴虐を行います。
伯有は鄭穆公の後裔で、三代に渡り鄭の重臣でした。
今後も鬼になるでしょう」
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鄭の相国・子皮の弟に罕魋という者がいる。
罕魋は酒に耽り、節度がないため、同族の罕朔と不和であった。
2月、罕朔は罕魋を殺し、晋に出奔した。
晋の韓起が鄭の子産に、罕朔を晋でどう遇するべきか聞いた。
「亡命者は生きながらえるだけで十分です。地位など必要ありません。
国を棄てた卿は大夫に、大夫は士に、士は庶に従い
罪人は罪の軽重によって位を落とすものです。
罕朔は鄭での地位は亜大夫(大夫に亜ぐ者)で、官位は馬師(馬の管理官)でした。
晋国での待遇は子の処置に任せます」
韓起は罕朔を下大夫にした。
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秋8月26日、衛襄公が崩御した。
訃報を聞いた、ある晋人が晋の卿・范鞅に語る。
「薨去なされた衛候は、晋に良く仕えていましたが、晋は礼を用いず
賊人(孫林父)を庇い、衛地・戚を奪いました。これでは諸侯が二心を抱きます。
衛の新君に対して礼を用いなかったら、衛は晋に叛し、他の諸侯も晋から離れるでしょう」
范鞅はこれを韓起に伝えると、韓起は范鞅を衛に送り、衛候を弔問し
孫林父が晋に譲渡した戚の地を衛に返還した。
衛の大夫・斉悪が周王室に衛襄公の喪を報告し、王命を請うた。
周景王は郕公を衛に送って弔問し、衛襄公に追命(死後に命を送ること)をした。
「衛候は昇天し、先王の左右にて、上帝を補佐するであろう」
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秋9月、魯昭公が楚から帰国した。
仲孫貜は魯候の相(補佐)を勤めながら
礼に通じていなかったことを気に病み、以後は熱心に礼を学んだ。
後年、亡くなる直前の仲孫貜が語った。
「礼とは人の本である。礼なくして人は立たぬ。
わしは孔丘(孔子)という者の噂を聞いた。彼は聖人の子孫だが、その族は宋で滅んだ。
我が子、何忌(孟懃子)と設(南宮敬叔)は
孔丘に仕え、よく礼を学んで、その地位を安定させよ」
孟懃子と南宮敬叔は孔子に師事する事になった。
後に孔子が言った。
「過ちを補える者は君子である。君子は正しいことに倣う。それは仲孫貜の事である」
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11月13日、魯の季孫宿が亡くなった。
衛襄公に続き、季孫宿の訃報も聞いた晋平公は、士伯瑕を呼んだ。
「以前、わしは汝に日食について尋ねたが、汝の申した事は全て的中した。
汝はこのような予言を常に行えるのであろうか」
士伯瑕が答えた。
「それは無理でしょう。六物に同じ物はなく、民心は一つではなく
事象の軽重には同類がなく、官職も一定ではないので
始めが同じでも、終わりは異なるものです」
「六物とは何か」
「歳(木星)、時(四季)、日、月、星、辰の六つです」
「辰について語る者はそれぞれ内容が異なる。辰とは何であろう」
「日と月が会うことを辰といいます。だから辰(十二支)は日に配されるのです」
(太陽と月が重なる(会う)のが毎月の初日で、1年に12回の辰が訪れる)
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衛襄公の夫人・宣姜には子が産まれなかった。
衛候の寵姫・婤姶が長子・孟縶と次子・元を産んだが、
孟縶は足に障害を持って生まれ、歩行が困難であった。
ある日、衛の卿・孔烝鉏が夢の中で康叔封(衛の国祖)に会った。
「孟縶の弟・元を衛候に立て、汝の曾孫と史朝の子に元を補佐させよ」
翌日、孔烝鉏が史朝に会って夢の話をすると、史朝も同じ夢を見たという。
孔烝鉏は「公子・元が衛の社稷の主となる」と告げて占うと、「屯」の卦が出た。
次に「太子・孟縶を立てるべきである」と言って占うと、「屯」が「比」に変わった。
孔烝鉏はこれを史朝に見せると、史朝が言う。
「屯の卦は「元が通る」という意味がある。やはり公子・元が衛候を継ぐべきだ」
しかし、孔烝鉏が反論した。
「元には長の意味もある。即ち長子(孟縶)の事では」
史朝は更に言う。
「元こそが長であろう。孟縶は康叔封に選ばれず、足が悪いので宗主にもなれぬ。
それに、屯が比に変わったのは「侯を建てる事が利となる」という意味がある。
嫡子(孟縶)が跡を継ぐと、侯を建てる事にならない。「建」とは嫡子以外の者を建てる事だ」
孔烝鉏は衛襄公の没後、公子・元を衛候に就けた。衛霊公である。
12月23日、衛霊公が衛襄公を埋葬した。
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周の景王11年(紀元前534年)春、晋の魏楡という地で
石が喋った、という情報が朝廷に寄せられた。
晋平公が師曠に「石がなぜ口を開いたのか」と聞いた。
師曠は答えた。
「石は話せません。何かが憑依したか、民が聞き間違えたのでしょう。
臣はこう聞いたことがあります。国事が農事に影響すれば
恨みが民の中に生じ、話すはずのない物が話しをする、と。
今、晋の宮室は奢侈になり、民力が衰え、民の間に怨みと非難が生まれています。
これでは、石が話をしてもおかしくありません」
当時、晋平公が虒祁の宮を建造していた事を、師曠は諫めたのである。
叔向が言った。
「師曠は君子である。君子の言には信があり、明があるから、怨や恨は君子を避けて通る。
小人の言は不信であり、明がない。故に怨みと咎がその身に及ぶ。
師曠は我が君の質問に答えながら諫言した。
宮殿が完成したら諸侯は叛し、我が君が咎を受ける事を、師曠は知っている」
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陳哀公の正妃・鄭姫は太子・偃師を産み、次妃は公子・留、三妃は公子・勝を産んだ。
この中では次妃が陳哀公に最も寵愛され、公子・留も気に入られたので
哀公の弟である公子・招と公子・過は公子・留を補佐した。
陳哀公が病に斃れ、数日後の3月16日、政変が起こる。
公子・招と公子・過が太子・偃師を殺し、公子・留を太子に就けたのである。
太子・偃師の子・呉は晋に出奔し
夏4月13日、心身共に衰弱した陳哀公は自害した。
陳の臣・干徴師は楚に遣いして、陳哀公の喪と公子・留の陳君即位を楚に報告したが
陳の公子・勝が、公子・招の一派が陳哀公と太子・偃師を殺した件で楚に訴えたので
干徴師は楚で捕らえられて殺された。
公子・留は陳君即位を諦め、鄭に出奔した。
公子・招は罪を公子・過に被せ、これを殺した。
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魯の叔弓と鄭簡公が晋に入り、虒祁宮の完成を祝うため来聘した。
鄭簡公には子大叔が相を勤める。
晋の史趙が子大叔に会って言った。
「虒祁宮を建てるため、晋民は大いに苦しんだ。これは弔問である」
「どうして弔問などしましょう。諸侯が祝賀しているのです」
秋、魯が紅の地で大蒐(狩猟、閲兵式)を行った。
魯の東境・根牟から西境の宋・衛に及ぶ魯の全土で兵が動員され
兵車千乗が紅に集まった。
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秋7月8日、斉の上卿・子尾が卒去した。
子尾を継いで高氏の当主になった子良はまだ幼いため
斉の卿・子旗が子尾の家政を掌握しようと目論んだ。
7月11日、子旗が子尾の家宰・梁嬰を殺し、子良を家宰にした。
8月14日、子旗が子成、子工、子車を斉から追放した。
いずれも斉の大夫で、子尾の与党である。
斉を追われた三人は、魯に亡命した。
子良の家臣達は上大夫・陳無宇と協力して、子旗を攻撃しようとした。
この情報を掴んだ子旗は、陳無宇の家に行った。
陳無宇は武器を持って家を出た所で、子旗が来たと聞き
すぐ家に戻り、甲を脱ぎ、普段の着衣に着替えてから子旗を迎え入れた。
陳無宇が子旗に語る。
「子良が子を撃とうとしていると聞いた。子は存じておられるか」
子旗は「聞いていない」と、偽って述べた。
陳無宇は「子が逆に子良を討つべきだ。私は子に従おう」と語った。
子旗は反対した。
「汝はなぜ戦おうとするのか。子良はまだ幼い。
わしが教えてやらねばと心配して、家宰に立てたのだ。
もし互いに攻撃したら、我らの祖先に対し、どう申し開くのか。
汝とわしで、子良と家臣らを説得し、元の関係に戻すべきだ」
陳無宇は頭を地にすりつけて謝罪し、両家は和解して以前の関係に戻った。
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晋に出奔した陳の公子・呉(陳の太子・偃師の子)を
楚の公子・棄疾が呼び戻し、彼を奉じて陳都を包囲した。
9月、宋の大夫・戴悪も楚軍に合流した。
10月、楚が陳を攻め滅ぼした。陳の公子・招は捕われ、越に放逐された。
陳の重臣・孔奐が殺された。
陳の下大夫・袁克が馬を殺し、玉を破壊して陳哀公と共に葬った。
楚人が袁克を捕え、殺そうとすると、袁克は死ぬ前に小便がしたいと言った。
袁克は帳幄の裏で放尿し、その隙に逃亡した。
11月、楚霊王は陳を楚の県として併合し、大夫・穿封戌を陳公にした。
穿封戌が楚霊王に従って酒を飲んだ時、霊王が言った。
「13年前、鄭の城麇の役で、汝はわしに媚びなかった。
あの時、わしが将来、楚王になると知っていれば、汝はわしに譲っていたであろうか」
穿封戌が答えた。
「もし、我が君がこうなると知っていたら、臣は当時の楚王のために
一命を懸けて、当時の我が君を殺していたでしょう」
「汝はわしを憎んでおるのか」
「そうではございません。誰が主君であろうと、その時の主君に尽くすという意味です。
今後、我が君の命を狙う者がいたら、臣は命にかけてお守りしましょう」
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晋平公が史趙に「陳はこれで滅亡したのか」と尋ねたら
史趙は「いいえ」と答えた。
「汝がそう思う理由が知りたい」
「陳は帝・顓頊の後裔です。
顓頊が死んだ時、歳星(木星)は鶉火(星宿の名)にいました。陳が滅ぶ時も同様でしょう。
ですが今、歳星は天河にいるので、間もなく復国するでしょう。
また、陳氏は滅亡する前に、斉で政権を獲るでしょう。すでに兆しは現れています」
今、斉の君主は景公だが、その没後、斉は陳氏が乗っ取る事になる。




