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東周概略史 ~天の時代~  作者: 友利 良人
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第九話 小覇、卒す

春秋時代は覇者の時代と言われています。


周王がすっかり衰えたので、誰かが王に代わってトップに立ち

天下を安定させる必要が生じ、その要請に応える形で「覇者」が出現したと言えます。


鄭の荘公は、その先駆といえる人物で、彼の没後は

有名な斉の桓公(小白)や晋の文公(重耳)が登場します。


いつの時代にも、様々な考えを持つ人がいますから

自然な成り行きとして、まとめ役が必要になります。


学校で言うなら生徒会長やクラス委員長

現代の国際社会におけるアメリカも同じ事です。




          *    *    *




 周王と鄭伯が干戈を交えた「繻葛じゅかつの役」では、陳と蔡が周王の軍に加わり

陳は大夫の伯爰諸はくえんしょを、蔡は蔡候の弟、蔡季さいきを将として送り込んだ。


 周軍の陣中で、蔡季は伯爰諸から陳の内情を聞いた。

「今の陳君は、先君の嫡子を弑して即位した簒奪者。

しかも国政を顧みず、狩猟に明け暮れています。

陳の国人には不満が鬱積しています。いずれ政変が起きるかも」



 陳の先君・桓公の庶子に公子・ようがいて、蔡候の甥に当たる。


蔡季は帰国すると、この話を蔡候に伝えた。


そこで蔡候は、この甥を陳君にすべく、蔡季に兵を与え

蔡季は陳君・佗が狩りに出た隙を狙って暗殺した。


 蔡季は佗の首級を持って陳都に入り、逆賊討滅を宣言した。

陳君・佗に殉じる者はおらず、陳の国人みなこれを歓迎した。


 公子・躍が新たな陳君として即位した。陳の厲公である。

この後、陳と蔡は盟約を結んだ。




         *    *    *



 

 中原の南方、長江の中流域に、楚という姓の国がある。


この時代、黄河流域の民は麦、粟、黍といった雑穀を主食にしていたが

長江の民は米が主食であった。


 元は周王を天子とする一諸侯であったが

食や風俗が北のそれと異なる事から、南方の蛮夷と蔑まれ

爵位は低く、子爵に過ぎなかった事から

歴代の楚君は常々不満があり、周王の権威が衰えれば王位を自称し

王が力を取り戻せば、また恭順して周に入朝する

という態度を、数世紀に渡って繰り返してきた。


 この度、繻葛の役にて周王が諸侯国の鄭に敗れたのを知るに及び

時の楚君・熊通ゆうつうは王を称する決断をした。


 楚の冷尹れいいん(宰相)・闘伯比とうはくひ

「王を名乗るのであれば、諸侯を得心させるだけの力を誇示する必要があります」

と主君に進言した。


 「何かいい手はないか」


 「漢水の東に随という国があります。爵位は候で大国であります。

国境付近に大軍を進め、和平を結ぶ事で、随の周辺諸国も楚に従うでしょう」


 熊通はその意見を採用し、自ら大軍を率いて随の国境に進出して

大夫の薳章えんしょうを随に派遣した。


 隨は楚と和平を結ぶため、大夫の少師を送った。


 闘伯比は楚君に進言した。

「少師は徳の薄い傲慢な男です。我が精兵を隠し、老兵のみ見せて

彼等を増長させましょう。」


 しかし、楚の大夫・熊率且比ゆうりつしょひが反対した。

「随には賢人と名高い季梁きりょうがいる。そんな策など見破るであろう」

「随君は楚を蛮夷と見下している。少師の報告を信じるはずだ」


 楚は精鋭を隠し、老兵を配置して少師を迎えた。



 少師は随に帰国して、随君に報告した。

「楚軍は弱兵です。これを破るのは容易いでしょう」


 だが季梁が異議を唱えた。

「それは楚が我々を誘うための罠です。楚を攻めてはなりません。

それがしが楚君の説得に参ります」


 随君は季梁を楚軍の陣に遣わした。


 季梁は楚君に伝えた。

「随は小国なれど、もし貴国が攻め入るのであれば

漢東の兄弟国と共に、この禍難を切り抜ける準備があります」


楚君は返答した。

 「今、諸侯は周室に背き、互いに攻伐を繰り返しているではないか。

楚は蛮夷といえど、精強な軍がある。

随は周室の分枝、同じ姫姓。わしに王号を与えよと周王に伝えて頂きたい」



 随は周都に使者を送り、楚に尊号を与えるよう請うたが、桓王は拒否した。


 楚君は怒り、自ら王を称した。楚君・熊通は楚の武王と呼ばれる。

随を始めとする漢東の諸侯国は楚と盟約を結んだ。


 周の桓王16年(紀元前704年)の事である。




        *    *    *




 鄭荘公は繻葛での王軍に対する勝利に関する論功行賞を行った。

公子・元を勲一等として、大邑の檪邑らくゆうを与え

他の大夫たちにも加封、褒賞があった。


 ただ、祝耼しゅくせんには何も与えられなかったので、祝耼は荘公に抗議したが

「王に矢を射た者を賞するわけにはいかない」

と言われ、祝耼は鬱憤が高じ、背中に腫れ物ができて死んだという。


 荘公は祝耼を手厚く葬った。



 周桓王19年(紀元前701年)夏、鄭荘公は病に倒れ、祭足を呼んだ。

「わしには子が11人ある。中でも世子の忽、それに子突、子亹しび、子儀

この4人が優秀であるが、わしは子突に位を譲りたいと思う」


 「世子の生母・鄭曼とうまんは妾で、夫人ではありませんが

我が君の長男で武功も多く、子突に劣らぬ人気があります。

嫡子を廃して庶子を立てることには賛成できかねます」


 「子突は気位が高い。臣下に甘んずる事はないであろう。

もし忽を鄭君に立てるなら、突は生母の実家である宋に送るのだ」


 公子・突は宋へ出奔した。



 この年の5月、「小覇」と称された鄭の荘公は在位43年、57歳で崩御。

荘公の世子・忽が4代目の鄭君に即位した。鄭の昭公である。

祭足は引き続き、鄭の相国を勤める。


 鄭昭公は、先君の崩御と新君の即位を諸侯に報告するため

各国へ諸大夫を使者として送り出した。


子突の様子を確認するため、宋へは祭足を派遣した。




        *    *    *




 子突の母親は宋の雍氏の娘、雍姞ようきつである。

雍氏は宋の名門で、一門の多くが宋の要職にある。


公子・突は宋に来てから、母を通じて雍氏と昵懇じっこんになり

鄭君の地位を狙って、鄭への帰国を模索している。



 祭足が宋へ来ると聞き、宋荘公は

宋の豪傑・南宮長万に命じて、兵を朝殿に伏せておいた。


 祭足が入って来ると、兵が祭足を捕えて監禁した。

夜、太宰の華父督かほとくが慰問にやってきた。


 祭足は「我が君は宋と友好を図るため、臣を派遣しました。

何が宋君のお気に触られたのか分かりかねます」と華父督を非難した。


「貴殿に落ち度はございませんが、子突が宋にいる事に

我が君は憐憫の情を抱いておられます。

鄭の新君は優柔不断で、国君には向いていません。

貴殿が手を貸していただければ、宋と鄭は永く友好を築けるでしょう」


「新君の即位は先君の遺命でございます。

臣が君主を廃せば、我が一族は先君に呪い殺されるでしょう」


「雍姞様は鄭の先君のご寵愛を受けておられました。

泉下にいる先君も、きっとお許し下さるでしょう。

弑逆の起きない国はありません。実力があれば良いのです。

我が君が即位した経緯も、貴殿はご存じのはず」


 祭足は何も答えない。


「もし、断ると申されるなら、この場で貴殿の首を獲り

南宮長万を将にして、その首を掲げ、宋軍と共に子突を鄭に送ります」


祭足は仕方なく承諾し、華父督と誓約を交わし

華父督は宋荘公に報告した。



 翌日、宋公は公子突を朝廷に呼んで、委細を告げた。

「わしはそなたを鄭へ返してやろうと思っている。

鄭は新君が即位した挨拶に、祭足を宋に寄越したが

今、かの者は我らがとりことしている。

汝が同意すれば、祭足を仲介して、今の鄭君を廃し

そなたを新たな鄭君に即位させる。返答を訊きたい」


 公子突は、宋荘公の提案に同意し

雍氏、祭足、公子突の三名で改めて誓約を結び、宋公が立ち会った。



 この誓約により、突が鄭君となれば

謝礼として宋に鄭の三城を譲渡する事が約束された。


また、祭足の娘を雍氏の子、雍糾ようきゅうに嫁がせて

鄭の大夫に任じる事も決まった。




     *    *    *




 祭足は鄭に戻り、鄭昭公に退位を迫った。

「宋は公子・突を擁し、南宮長万を将に兵車500乗を率いて攻めて来ました。

我が国は新君が即位して間もなく、国情は安定しておらず

今、これに抗する術はありません。

宋軍に退いてもらうには、我が君が退き

子突を鄭君にするより他にございません」


 鄭の大夫・高渠弥こうきょびは、鄭昭公がまだ世子・忽であった頃に

上卿の位を反対されたこともあり、これを幸いとして、祭足の提案に賛成した。


「相国のご決断は、鄭の社稷を守るための已む無き事。

我らは新君をお迎えしようではないか」


 鄭の重鎮である祭足と高渠弥に迫られては是非に及ばずと

他の大夫も同意し、鄭昭公は位を退き、衛に出奔した。


忽が鄭君に就いたのは、僅か2か月であった。



 祭足は宋から公子・突を迎え、鄭君に即位させた。鄭の5代・厲公である。

鄭厲公は雍糾と祭足を重用した。


 厲公は公子突の頃から民衆に人気があったので混乱もなく新体制に服したが

公子・儀と公子・亹は厲公に不満を抱き、かつ恐れてもいたので

子儀は陳に、子亹は蔡へと亡命した。



 宋公は鄭に使者を送って鄭厲公の即位を祝い

誓約を交わした鄭の三城の割譲に加え、白璧百対と黄金一万鎰の送付

さらに、毎年の穀物の貢納を要求した。


 鄭厲公は宋からの過大な要求に窮し、祭足に相談した。

「鄭君に就ける事を喜ぶあまり、宋公の要求に従ったものの

宋公は、あまりにも貪欲に過ぎるのではないか。

これでは鄭の民は飢え、即位後いきなり三城も失えば、諸侯に侮られよう」


「我が君は即位したばかりで、未だ人心は定まっておりません。

それを口実として、当面は三城から取れた税を宋へ送り

白璧と黄金は三分の一、毎年の貢納は来年からにして欲しいと

お詫びをしながらお願いしましょう」


 厲公はその意見に従い、白璧三十対、黄金三千鎰を送り届け

三城の税はこの冬から納めることを申し出た。



 しかし宋公は怒り「公子突を鄭君にしたのは、わしである」

と言って、足りない分の要求と三城の土地の割譲を要求してきた。



 厲公と祭足は相談して、穀物二万鍾を納入した。


 しかし、それでも宋公は納得できず

「約束の事が不満であれば、祭足が宋に来て話をつけよ」

と宋公は言ってきた。


 「宋公が即位したのは、先君・鄭荘公の尽力の賜物。

鄭より大恩を受けながら、何も恩返しをせず

ただ立君の功を恃み、無理難題を押し付け、無礼千万。

こうなれば、斉、魯に仲裁を依頼しましょう」


「斉、魯は応じるであろうか」


「かつて先君が宋、許に出兵した時、斉、魯は協力し合いました。

また、魯侯の即位にも尽力しています。斉はともかく、魯は応じるでしょう」


「仲裁を頼むと言ってもどうするのだ」


「宋は華父督が先君を弑して、今の宋公である公子馮を立てた時

鄭、斉、魯は賄賂を受取り、それを黙認しました。

魯はこく大鼎たいていを、わが国は商彝しょうい(酒器)を受け取ったのです。

斉、魯にその商彝を宋に返したいと申すのです。

宋公はその時のことを思い出し、鄭への無理難題をやめるでしょう」


「卿こそ真の賢臣である」




     *    *    *



 

 厲公は斉、魯に使者を送って新君の即位の報告をするとともに

宋君は忘恩の徒で強欲であり、即位協力の謝礼の取立てがひどいことを訴えた。


魯桓公はそれを聞いて「あの時、宋君は賄賂として弊国には鼎しか出さなかった。

今回はすでに鄭から白璧、黄金、穀物まで頂き、なお不満であるか。

では、鄭の新君のため、宋に話を通そう」と答えた。


斉僖公は、忽が世子の時、救援に来て戎に大勝した功をまだ覚えており

娘と結婚を断わられた今も忽を思う気持ちが残っていて

今回、忽を廃し、突を立てた事に関しては不満であったために

鄭君からの訴えを聞かなかった。



 鄭厲公は祭足に尋ねた。

「斉侯は忽を気に入っている。わしが鄭君である事が気に入らぬようだ。

ら将来、斉と戦にならぬか不安だ」


「斉は遥か東方にあり、中原からは遠い。

事前に準備を整えておけば心配ありません」



 魯桓公は宋荘公と扶鐘ふしょうの地で会見した。


魯君は宋公に、鄭国に対する寛大な処置を求めたが

宋公は頑として応じず、会談は不首尾に終わった。


 魯桓公は鄭厲公に結果を伝えた。


鄭厲公は、白璧二十対と黄金二千鎰

さらには、かつて宋より受け取った商彝を渡して

魯桓公に再度、宋君との会見を要望した。



 再び魯桓公と面会した宋荘公は、商彝を見て顔色を変えた。

自身が宋君に即位した経緯を思い出したからである。



 魯と宋の会見の途中、南燕国の君主が

宋公との面会を求めていると報告が入ったので

この件は一時棚上げして、宋公は魯侯と一緒に南燕伯に会った。


 「我が国は今、斉からの攻撃を受けています。

宋公のお力添えで、斉との停戦をお願い致したく参上しました」


 宋公は承知した。魯侯も口を開いた。

「斉は魯の友好国・紀にも度々侵攻しています。

宋公が南燕のために尽力されるのでしたら、紀のためにもお願いします。

それぞれが和睦できれば、戦争をなくせましょう」


 宋、魯、南燕の三君は谷丘で盟約を結んだ。



 魯侯が帰国してからも、鄭の件については宋から何も言ってこない。


 だが、鄭は宋から幾度も督促を受けていたので

仕方なく、鄭厲公は魯侯に三度目の仲介を頼んだ。


 魯侯は宋公に会うことにして

今度こそ鄭の件に決着をつけようと思ったが

宋公は来ず、代わりに使いの者が来た。


「鄭とは文書による約束がある。魯君は口出ししないよう願いたい」

と伝言してきた。


 魯侯は怒り、鄭地・武父で鄭伯と会い

共に宋を攻めることを約した。

これの誓約は、武父の盟と呼ばれる。


鄭は春秋時代初期には強国でしたが

3代荘公の治世がピークで、彼の没後は急激に衰退していきます。

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