序章 ~龍の赤子~
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衣と、食と、住。人が生きるのに欠かせない。
だが、それらに優先して、生存にはまず、水が必須である。
中国大陸に坐臥する巨竜『黄河』と、それを本流にして
流入、流出する無数の大小の河川。
それらの畔に人は集まり、潤いを確保し、そして文明が生まれた。
初め、三皇と五帝がいたという。
三皇とは半神半人の女媧、伏羲、神農の事であるが
あまりに古く、実存は定かではない。
女媧は黄土を捏ねて人を作った。
伏羲は女媧の兄とも、夫とも言われ、文字を作り、蜘蛛の巣に似せて網を発明し、人々に漁を伝えた。
神農は木材から農具を造り、種を蒔いて、人に農業を教えたという。
五帝は黄帝、顓頊、嚳、堯、舜とされるが
史書によって異なり、明確な定義はない。
黄帝は人を苦しめる魑魅魍魎を討伐して
最初に地を統一したのが紀元前2500年頃とされる。
東洋医学の祖という伝説もあり、今日の日本でも
栄養ドリンク剤「ユンケル黄帝液」にその名が残る。
黄帝を継いで帝位に就いたのは顓頊、続いて嚳
さらに堯、舜と、つつがなく地を治めた。
舜を継いだのが禹、中国最初の王朝「夏(紀元前1900~1600年頃)」の創始者である。
舜より、黄河の氾濫を鎮めよと命じられ、半世紀にわたって治水に励み
ついに、この暴れる巨竜を沈静させ、舜の後継に選ばれたという。
夏王朝は17代続き、桀王の代で滅んだ。
夏に取って代わったのが殷(紀元前17世紀頃~1050年頃)王朝で
夏の桀王を誅した湯王が建てたとされる。
殷は商とも呼ばれ、交易を以て財を成し
以て高い文明を築いた事から「商売」「商人」の語源となった。
最後の王・紂が牧野にて周の武王に討たれるまで30代続いた。
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周の武王が天子の位に就き、その没後は成王、康王がこれを継いで
それを武王の弟である周公旦、召公奭らが補佐して、周の地盤を固めた。
その周朝も8代を過ぎ、9代・夷王の頃には
先に滅んだ夏・殷の如く、衰退の兆しが表れる。
天地を定める礼が行われなくなって久しく
周に入朝する諸侯の力が年々強まり
東夷、西戎、南蛮、北狄ら、化外に住む異民族が
蠢動して辺境を侵す事夥しく、中原の沃野にも侵攻し
そのまま定住する者も出てきた。
10代・厲王は、その暴虐によって王を逐われ、空位となり
共伯・和なる人物が不在の王に代わって政務を執ったという。
歴史上、この時期を「共和の治」と呼ぶ。
14年後、厲王は薨去し、共伯和は自ら退いて
厲王の太子・静が11代・宣王となった。
この天子は名君で、多くの賢臣を採用し
天下は武王、成王、康王の道理を取り戻して、よく治まり
後世「宣王の中興」と言われる。
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宣王の治世22年(紀元前806年)、王は弟の友を諸侯に任命し
鄭(現在の陝西省渭南市華州)に封じた。
後に鄭は強国となり、友の孫・寤生の代には
周王を破るほどの勢威を示す事になる。
宣王の治世39年(紀元前789年)、西の異民族・犬戎が周を侵した。
王自ら軍を率いて親征し、これを討たんとするも
千畝(現在の山西省晋中市介休)にて大敗を喫した。
だが王は諦めず、再戦を試みんとするが
兵足りず、太原(現在の山西省太原市)にて徴兵を行う事を決めた。
王の側近らはこれに反対するも、王は諫言を聴かず、太原へと向かった。
宣王が王位に就いて40年余り、さしもの名君も政治に飽いたか
この頃には宣王の中興も陰り、悪政が目立つようになった。
宣王は太原で徴兵を終え、周都・鎬京(現在の陝西省西安市)に戻ると
子供たちが歌っているのを耳にした。
「檿弧箕箙、其亡周国」
(山桑の弓と箕の矢筒、それが周を滅ぼすだろう)
宣王は怒り、子供たちを捕えよと家臣に命じたが
みな逃げ散ってしまい、辛うじて2人の兄弟を捕え、王の前に引き据えられた。
「今の歌は、誰が作ったのだ」と王が尋ねると、兄の方が答えた。
「何日か前に、赤い服を着た老人が都中の子供に教えて回ってたんだ」
「その老人はどこにいる」
「知らない。見たのはその日だけだ」
王はひとまず、その子らを返し、その歌を口にする者は重罪にすると令を出した。
翌朝、王はその歌についてどう思うか、重臣らに諮った。
まず、太宗(儀礼係)の伯召虎は「国に異変が起こる前触れやもしれません」と答える。
続いて宰相の仲山甫が「王は太原で徴兵され、犬戎に報復なさろうとしております。
ですが、もし戦いを続ければ、国が滅びる恐れがあるという事では」
「あの歌を広めた赤い服の老人とは、一体何者であろうか」
「天帝が王に警告なさるため、火星(さそり座のアンタレス)に命じて人の姿に変え
歌にして子供たちに教えたのでしょう。火星の色は赤ですから」
こう答えたのは、太史(記録官)の伯陽父である。
「わしは王として、どうすればいいのだ」
「歌には、いつ起こるとは述べられておりませんし、また、必ずそうなるという事でもありません。
王が徳を積む事で、凶は吉に変わりましょう」
宣王はまだ納得出来ぬまま、王宮へ戻った。
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王妃の姜后が王を迎えて席に着くと、宣王は大臣たちの話を姜后に話した。
「そういえば、今日、宮中で奇妙な事がございました」
「何があったのだ」
「先王に仕えていた50歳の老宮女が先王の時代に懐妊して
40年もたった昨夜、女の子を生んだのです」
「その子はどこにいるのだ」
「不吉だと思い、莚に包んで20里(約8.5km)以上離れた清水河に捨てさせました」
宣王は直ちに老宮女を呼び出し、懐妊の事情を尋ねた。
「わたくしが産んだ子について説明するには
まず、大昔の伝説から話さねばなりません。
遥か昔、夏の桀王の末年、褒城(現在の陝西省漢中)の神が龍になり
王宮の庭に降りてきまして、口から涎を流しながら人語で
『我は褒城の君主である』と王に言いました。
桀王は驚いて龍を殺そうと思い、太史にこれを占わせたら凶と出ました。
それなら追出そうと思い、再び占わせると、また凶でした。
『神が降下されるのは吉祥です、その涎を保存したら如何でしょう。
涎は龍の精気ですから、これを保存すればきっと福が得られます』
と太史が言うので、又それを占わせると、今度は吉と出ました。
そこで龍の前に供え物をしてお祭りし、金の皿に涎を集めて朱の箱に収めました。
収め終わると、突然大風雨が起こって龍は飛び去って行きました。
桀王は朱の箱を宮中の蔵に保管させました。
それから殷の600年、わが周朝に伝わり、更に300年。
いまだかつて箱を開けて見た者はございませんでした。
先王の終わりの頃、箱の中から僅かに光が漏れ出ているのを
倉庫を管理する者が見つけ、先王に報告しました。
王は『箱の中には何が入っているのだ』と訊ねられましたので
倉庫責任者は由来を書いた記録を王に差し出し、先王が中を読もうと
側近の者が開けた箱を受取ろうとした時、手を滑らせて落としてしまい
保管してあった龍の涎は全て庭に流れてしまいました。
たちまち、それは小さな黒蜥蜴に変わり、庭をはい回っていましたが
内侍が追いかけると、王宮の中へ入って見えなくなってしまいました。
その時、私は11才でしたが、たまたまその黒蜥蜴が通った後を踏んでしまいました。
その後、お腹がだんだん大きくなって懐妊したようになったのです。
夫もいないのに子を孕んだという事で幽閉され、すでに40年になります。
そして昨夜半、突然陣痛が起こり、女の子が生まれました。
王宮の侍従は隠しておけず、姜后様に報告いたしました。
姜后様は、斯様な怪しい赤子を宮中に置いてはおけぬと
側近の方に、川に捨ててくるように仰せになられました」
話を聞き終えた宣王は老女を下がらせ、王宮の侍従を呼び出し
清水河へ流した赤子の行方を調べに行かせたが、見つける事は出来なかった。
翌朝、太史の伯陽父に龍の涎の件を話し
「その赤子は川に流されて死んだと思うが
念のため、妖の気が消えたかどう かを占ってくれ」
太史は占って、卦にでた言葉を王に伝えた。
「泣いては笑い、笑っては泣く。
羊は鬼に呑まれ、 馬が犬に追われる。
慎むべし、檿の弓と箕の箙」
宣王は意味が分からないので、伯陽父が説明した。
「十二支で、羊は未、馬は午です。
泣いて笑うというのは悲喜を表し、それが午未の年に起こるということです。
臣の推測するところ、妖気は王宮から出て行ったものの、まだ無くなってはいません」
宣王は上大夫(貴族)の杜伯に命じ、都にいる女の赤子を全て集めさせた。
献上した者には褒美を与え、報告せず育てた者は一族斬首にした。
また、山桑の弓、箕の草で作った矢袋の製造と販売を禁じる布令を出して
都中の店を調べ、違反者は処刑するよう、下大夫の左儒に命じた。
都内の人はみな王の法令を訝しがり、畏れつつも遵守したが
外の者にはまだ知らされていなかっ た。
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翌朝、城外から一組の夫婦がやってきた。
妻は箕の草を編んだ矢袋を多く抱え、男は山桑の弓十数張を背負っている。
彼らは遠くの村に住んでおり、都へ商売に来たのである。
だが、城門に入る前に官吏に見咎められた。
官吏は先に女を取押え、連れの男は危険を感じ、桑の弓を投げ出して逃げた。
女は桑の弓、箕の矢袋と一緒に左儒の元へ連行された。
左儒は、押収した弓と矢袋は歌の通りであるとし
逃げた男の事は不問に付し、女だけを禁忌の品を製造販売した咎で死罪を上奏した。
宣王は市中でこの女を斬り、桑の弓と箕の矢袋を焼き捨てた。
一方、逃げた男は、役人がなぜ自分たちを捕えようとしたのか判らず
妻の消息を聞こうと思い、その夜は十里ほど離れた郊外で寝た。
翌朝、男は、妻が禁令に違反して捕まり、処刑されたという噂を聞き、大いに悲しんだ。
男は失意のまま、都から二十里ほど歩いて清水河に行き着いた。
ふと河を見ると、蓆に包んだものが水面に浮かび、流れて来る。
男は蓆の包みを取上げ、草の上で解いて中を開けると、女の赤子が出てきた。
男は、この捨て子を哀れみ、自分で育てる事にして、家に連れて帰った。
宣王は女を誅殺し、もはや問題は解決したと考え安心し、その後数年は何も起きなかった。
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宣王の43年(紀元前785年)、先王を祭る大祭の時の事である。
王は斎宮に寝起きしていたが、二鼓(午後10時頃)を告げる音がかすかに聞こえ
人声もない真夜中に、一人の娘が西の方からゆっくりと斎宮の庭に入って来た。
王は斎戒の禁制を犯すものだと大声で叱り、急いで近侍を呼んだが、誰も来ない。
その子は恐れる様子もなく太廟に入り三度大笑いし、三度大泣きをして
先王の位牌を東の方へ持ち去った。
宣王は立上がって追いかけようとしたところで目が醒めた。夢であった。
王は儀式を終えて斎宮へ戻った後、太史の伯陽父に夢の事を話した。
「三年前の占いで出た卦に、泣いては笑い、笑っては泣くというのがございましたが
王が見られた夢はまさにこれでございます」
「あの女を誅殺しただけでは足りなかったというのか」
「天意は奥が深い。庶民の女を一人処分したくらいでは不十分でしょう」
「そういえば3年前、上大夫の杜伯に赤子を探させたが、まだ報告を受けておらん」
宣王は杜伯を呼び出して尋ねた。
「何故いつまでも報告しなかったのだ」
「調査は致しましたが、結局、見つかりませんでした。
その後、女を誅殺しましたので、もはや解決したものと思い
あまり厳しい捜索を長く続けては、民を動揺をさせると考え、中止いたしました」
宣王は激怒して
「何故それを報告しないのだ。王命を蔑ろにしたのは不忠である」
と言って、杜伯の処刑を命じた。
杜伯の親友である左儒が反対して王に諫言する。
「尭は9年水害が続いても帝位を失わず
殷の湯王は7年旱魃を受けても王のままでした。
天変を防ぐ事は困難ですが、人の放つ妄言は、さらに信じがたい物です。
もし、王が杜伯を誅殺なさったら、国中の人々が妖言を撒き散らし
夷狄がこれを聞けば、周朝を侮り、攻めて来るでしょう。どうか彼の罪をお赦し願います」
「そなたは友のため、王命に背くのか」
「王が正しく、友が誤っておりましたら王命に従い
友が正しく、主君が誤っておられれば、君に背いても友に従います。
今、杜伯を無実の罪で処刑すれば、天下の民は王を不明だと思うでしょう。
また、臣が諫めねば、臣を不忠だと申すでしょう。
王がどうしても杜伯を殺すと申されるなら、臣にも死を賜りください」
「わしは杜伯を誅する」
宣王は左儒の諫言を聴かず、杜伯を斬首にした。
それを見た左儒は家に帰り、自刎して果てた。
杜伯の子、隰叔は周都の北にある晋の国に逃げ
士師(警察、司法長官)として仕えた。
隰叔の子孫の1人は士氏を名乗り、他の兄弟は范に領地を得て范氏を名乗った。
後年、士氏の家から、名将「士会」が生まれる。
多くの人は杜伯を哀れみ、杜陵に祠を立て、これを杜主と名付けた。
右将軍廟とも呼ばれ、陝西省の長安市に今も残っている。
翌日、宣王は左儒が自害した事を聞き、杜伯を処刑した事を後悔した。
以後、王はいよいよ精彩を欠くようになり
物忘れが増え、ほとんど話す事もなくなり、鬱病に罹ったようになる。
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それでも3年も経つと、幾分回復して郊外へ狩猟に出るようになった。
7月の好天、王は東の郊外へ狩りに出た。
王は久しぶりに外の空気に触れ、清々しい気分であった。
みな、多くの獲物を捕らえ、特に多く獲った兵士には褒美を与え、帰路についた。
都へ帰る途上、宣王は馬車でうたた寝をして、夢を見た。
遠くから一乗の馬車が此方に向かってくる。
乗っているのは2人の男で、共に赤い衣を纏い、桑の弓と箕の矢を持っている。
杜伯と左儒であった。
「王よ、お変わりはございませんか」
宣王は驚き畏れ、剣を抜いてこれを斬ろうとするが、届かない。
「多くの罪なき者を殺した無道の君に、天帝はお怒りになられ
我らを再び王の元に遣わしました。お命頂戴いたします」
杜伯の亡霊は弓に矢を番え、宣王の胸を射た。
王は馬車に乗ったまま昏倒し、3日間、目を覚まさなかった。