見ている
オープンテラスにわたしたちはいた。
そこでお喋りをしている。
最初に彼女の話を聞いたときは耳を疑った。
わたしが欲しくて欲しくて堪らない存在をーーー神さまに何度もお願いした存在をあっさりと手離していたのだから。
わたしが欲しい存在。
それは夫婦の愛の結晶でもある〝赤ちゃん〟だ。
「気持ちいいことは好きなんだけどさ?子どもはいらなくない?だからさ、お母さんにあげちゃった!」
そんな言葉を笑いながら言えてしまう神経を疑う。
どんなにきつく睨んでも自分の話に夢中で気づかない。
「あげたって……ものじゃないんだからさ。それって少しひどい話だよ」
その場にいたもうひとりが意見を言う。それにはわたしも大きくうなずいた。
ただ口には出さないけれど、〝少し〟という言葉も気に入らない。
〝だいぶ〟ひどい話だ。
「じゃあさ、ナナは子どもが欲しいわけ?」
「相手もいないのにどうしろと?」
彼女たちの笑い声に無性に腹が立った。
わたしひとり、笑えずにうつむいて唇を噛みしめている。
黒々とした感情が腹にたまってくる。
そのとき、首筋に痛みが走った。
なんだろう?さすってみるけど、おかしなところはない。気のせいかな。
注文していたパフェがテーブルに置かれる。
それらを倒して床に落としてやりたい。唐突にそう思った。
手をゆっくりと伸ばす。
触れることができるだろうか。
一瞬、そう考える。
彼女たちの様子をうかがう。
こちらの動きには気づいていないようだ。チャンスだと思った。
手が触れ、パフェの器が割れて中身が歪な形で飛び散る。
それはわたしの気持ちを代弁してくれているように感じた。
「ちょっと!」
尖った声に肩が跳ねる。
しかしそれはわたしに向けられたものではなかった。
「何であたしに怒るの?!ハツネの手が当たったんじゃないの?」
……ナナとハツネ。
ふたりともわたしがやったとは微塵も思っていないようだった。
わたしは目立たない存在だから仕方ない。
この場にいるのだって、本来はおかしいぐらいなのだ。
華々しいふたりとは正反対のわたし。それでもここにいる。
軽々しく子どもを〝あげた〟なんて言った罰はこんなもんじゃ生ぬるい。
さらにハツネに……と立ち上がろうとしたらまた首筋に違和感を覚えた。
誰かに見られている?
辺りを見回すとひとりの中年の女性と目が合った。
こちらを見ている。
彼女は首を横に振っている。
〝そんなことをしてはいけない〟。
直接言われたわけじゃないのに、何となく気まずくなってそっと腰をおろした。
不思議な女性だ。
見た目は普通なのに、すべてを見透かしているようでわたしを落ち着かなくさせる。
さっきパフェを落としたところも見られていたに違いないと思うと、一ミリも身体を動かせなくなった。
関わりたくない。女性から顔を背ける。
それでも首筋の辺りが気になる。
まだ見られている。
それは考えすぎかな。
ーーーー。
パフェが片づけられ暫く経つと、二人はまたお喋りを再開した。
「でも産んだなら育てたいと思わないの?頑張って産んだ子どもでしょう?」
「だって彼が子どもは好きじゃないって言うんだもん!」
だったらせめて避妊をちゃんとすべきでしょう?
喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
中年の女性の存在がどうにも邪魔で仕方がない。
ふたりは気づいていないけど、あれからもずっとわたしたちを見ている。
いや、〝見張っている〟に近い。
何かを言ってくるわけじゃない。
それでも不快な気分にはなる。
「でもまあ、あたしも子どもは苦手なんだけどね」
「ナナもか!」
わたしは違う!叫びたいのを我慢した。
だけどそもそもこもった話し方をするわたしの声なんて届かないだろう。
それにしても、なんてひどい会話なんだろう。
わたしなんて望んでいたのに授かりもしなかったのに。
わたしには夫がいた。十歳上のサラリーマンだった。
彼は結婚してすぐに子どもを欲しがった。
わたしだって彼との子どもを授かりたかった。
でもなかなか妊娠しなかった。
最初は焦らずにいこう、って。授かりものだから、って。
そう周りも言ってくれていた。
だけど一年経ってもできないのだ。
生理がくるたびに憂鬱になっていった。
赤く濁った塊が赤ちゃんの居場所を奪って子宮から出てくるようで、生理そのものが疎ましくなった。
ダメだったか、夫はいつのころかそう言うようになっていた。
落胆した顔を見るたびに申しわけない気持ちになる。
それと同時にそこまで露骨に表情に出さなくてもいいんじゃないの、って思った。
他にも言葉はあるんじゃないの?って。
そんな顔ばかりしないでよ!って。
どれも実際には口には出せなかった。
わたしは小さなころから大人しくて口数も少ない。
よく言えばおしとやか。
悪く言えば暗い人間。
大半は後者の方で色いろと言われてきた。
今だってそうだ。
ハツネたちの会話をただ聞いているだけで、自分を出していない。
パフェを落としてやったときのようにアクションを起こそうか。
そう思っただけで首筋に痛みが走る。
あの中年の女性が見ている。
わたしが考えていることを読まれている気がした。
やっぱり動くのはやめよう。小さく縮こまった。
ハツネたちは子どものどういうところが嫌いかをあげ始めた。
聞いていて嫌な気持ちが込み上げてくる。
子どもの面倒な部分もひっくるめて愛すべき存在だと思うのにな。
夫はー…。
夫はわたしとの子どもを諦めた。
どんなに頑張ると言っても、もう無理なんだよ、と断られるようになってしまった。
わたしは諦めなかった。
妊娠しやすい身体づくりを心がけた。
検索もいっぱいして、その全部を試した。
病院にはもちろん最初の段階で通っている。
そうやって、できることは一通りやってきた。
でもこういうことって、片方が頑張ればいいってもんじゃない。
ひとりでなんて授かるわけがない。
一緒に乗り越えていくべきものでしょう?
わたしの努力もむなしく次第に夫は家に帰らなくなっていった。
ひどいじゃない。そう話せば良かったの?
苦しい。そう伝えれば良かったの?
それらの言葉はどれも違うように感じて、だけど吐き出さずにはいられなかった。
夫は帰ってこない。
だからひとりのとき思いっきり吐き出した。吐き出しすぎて擦りきれていった。
それでもまだ足りないと嘆いていた矢先、夫には他の女との子どもができていた。
ハツネたちの会話と夫との記憶が絡み合って、わたしの腹の中で黒々としたものが蠢き始める。
これをぶつけたい。
でも中年の女性が見ている。
何かやらかすんじゃないかと思っている。
何故かわたしにはそれが伝わってくる。
彼女は何でこっちを見ているんだろう?部外者なのに。
放っておいてもいいはずなのに。
見られていることで抑止力にもなっているから、見ないで、とも言いに行きにくい。
そもそもそんな勇気はないけれど。
ーーーー。
ああ。この思いはどこにどのような言葉で吐き出せばいい?
わたしだって赤ちゃんが欲しかったよ? ネガティブになりそうな気持ちを奮い起たせて治療を受けてきた。
どこかで孤独を感じながらやってきた。
それなのに何でこうなったの。
赤ちゃん。
夫との赤ちゃんを宿した知らない女。
その女を選んだ夫。
赤ちゃんごと夫は離れていく。
夫だけが赤ちゃんを手に入れた。
わたしには宿らなかった命を手に入れた。
歪む視界の中、完全に行き場を失った。
ふとわたしもひとつ、この身に宿していることに気づく。
憎悪だ。
夫が憎い。
子を宿すことのできる女が憎い。
願いを叶えてくれない神が憎い。
この理不尽な世界が憎い。
憎い夫なんて必要だろうか。
憎い女なんて必要だろうか。
神はどうせ何もしてくれない。
世界は憎しみで形成されていたんだ。
何故、憎悪を忘れていたんだろう。
ハツネたちを見つめる。
何故、会話を聞いているだけでいたんだろう。
確かにパフェは落とした。それで満足なんておかしい。
そうだ。わたしはこの世に憎悪をぶちまけたかったんだ。
ハツネたちにだけじゃない。
不特定多数の人間に憎悪をーー。
中年の女性が軽く腰をあげる。
見ている。
彼女を気にする必要なんかないのに。
彼女が見ているだけで首筋が痛い。
まるでリードで繋がれているような気分になってくる。
不愉快だ。
悪いのは自分の子どもを〝あげた〟と言ったハツネじゃないの?
いらないならわたしが欲しいくらいなのに。
今のこの感情はあのときと似ている。
夫と会う最後の日、わたしはひとり、憎悪を腹に宿したままホームセンターに向かった。
あいつらに似合いの獲物はどれ?
一番しっくりくるのはどれ?
手に取ってみてはシミュレーションをして棚に戻す。
なんて皮肉なことだろう。
欲してやまない赤ちゃんは身に宿らなかったというのに、憎悪だけはこうも簡単に宿り、そして育っていく。
店員を呼び止め、女性でも扱いやすい〝切るもの〟を尋ねる。
何点か教えてもらった。
なるほど、鉈があったか。
ホームセンターにあるとは思っていなかったが、これは手に馴染む。
久しぶりに高揚とした気持ちになった。
店員に礼を言うとレジに向かった。
ハツネたちが笑っている。
憎悪が腹の中で膨らむのを感じた。
これもフラッシュバックというのだろうか。
鉈を手にしたわたしが脳裏に浮かぶ。
鉈を何度も振り下ろして昂った気分は、数時間ほどで萎んだ。
足元に散らばる肉塊。
かつては愛していたものに憎しみをぶつけても、あまり意味がないことを事後に理解した。
物足りなかったのかもしれない。
性別の問題だったのかもしれない。
それならば、と縛って放置しておいたもうひとりを見た。
目玉が窪みから落ちてしまいそう。
それぐらい見開いている。
首を左右に振るそれに近づきながら、これでもまだ満足は得られないだろうという確信があった。
肉塊に座り込んだわたしは笑っていた。
ひとは恐怖を感じると笑うのこともあるのだとどこかで読んだ気がする。
だとするならば、何に恐怖を感じているのだろう?わからない。
何故笑えるのかわからなかった。
笑い疲れると、わたしはこの世にすがるのもバカらしくなっていた。
鉈を何度も振り下ろしていたから肩にまで鈍い痛みが広がっていた。
憎悪は消えていない。
まだここにある。
子を宿さないわたしの子宮で生きている。産んであげなくちゃ。
雄叫びをあげ、鉈を振り下ろした。
出産するときの痛みってどういうものなんだろう。
何度も考えてきた。
少なくともこの痛みは違う。
それだけははっきりとしていた。
それがわたしの最後の記憶。
次に気づいたときわたしは鉈を片手に引きずりながら歩いていた。
どこを目指して歩いているとかは特になかった。
ただ憎悪がまた身に宿り腹を蹴っているのを感じていた。
ーーーー。
ハツネは美人だ。
生き生きとした顔をしている。
若くて人生もまだまだこれからといった感じだ。
わたしとは大違いだ。
美人になりたいわけじゃない。
ただ子どもを産める身体をもったハツネを憎いと今はっきりと自覚した。
そう……憎悪はまた産まれようとしている。
首筋の辺りがやたらと痛みを主張してくるようになってきた。
でも遅い。もう見られていても抑止力にはならない。
「実はさ、またできちゃってさ。今度はちゃんと手遅れになる前に堕ろすよ」
なんて言った?堕ろすって?
赤ちゃんを?産むこともできるあなたが?
そう。あなたはそんな軽い気持ちでそう言うんだ。
オープンテラスで最初に彼女の話を聞いたときは耳を疑った。
とても信じられないことを言っているもんだから、わたしは腰を落ち着かせて彼女たちの会話を聞いていた。
会話の途中で名前を知った。
ハツネとナナ。
ふたりが嫌いなタイプだと途中で気づいた。
夫の女にどことなく似ているのも気に食わない。
だからそもそも聞いている〝だけ〟なのがおかしかったんだ。
だってわたしは憎悪をぶちまけるために歩いていたんだから。
そしてまた産まれようとしている。
腹の中で憎悪がハツネが憎い憎いと蹴りあげてくる。
それならばーー。
「逃げて!」
声を張り上げて、中年の女性がハツネたちに駆け寄ろうとしている。
「は?何?」
「いきなり何ですか!」
ふたりはまだこの状況に気づいていない。
わたしはとっくに気づいていた。
この中年の女性が見えるひとだということをわかっていた。
子どものことを悪く言わなければ或いはーー。
いや、どのみち憎悪は肥大化しておりわたしの意思だけではおさまらないところまできていたんだ。
口角を上げると、わたしはハツネ目掛けて鉈を振り下ろした。
【完】