(9)
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四条河原町から二筋ほど北へ行くと細い路地が東西に走り夜のネオンがつき始めるといかがわしい洞窟のような入り口がひしめきあうようになる。そんな一角に「KEY」はあった。だから最初は誰もジャズライブの店だとは気がつかない。学生時代はまだ周辺の店はラーメン屋とか洒落た喫茶店などが軒を連ねていたがここ四、五年ほどですっかり変わってしまった。「KEY」自体もイサオが演奏していた頃とは客筋が変化し今はフーテンのような学生の姿は見られなかった。それにライブもプロの演奏者に変わり週一回程度の静かなものになり当時の店の雰囲気もすっかり変わっていた。
相変わらず床は板張りで油の匂いがたちこめていた。店内の片隅に二人は落ち着きまだ客の居ない時間を味わった。店員もすべて新顔で当時の髭面や髪の長いヒッピー族風のバーテンも姿を消した。注文したビールの泡やグラスのふちに映る店内の光の影にも上品さが煌き拓馬たちが過ごした時代とは著しい変化をもたらしていた。眼の前の黒檀のようなテーブルの木目にもそばに置かれた灰皿の形や色にもそれは仄かに表われていた。
「ライブの中味が昔とは違うようやな」
壁に貼ってあるポスターを眺めてイサオは感慨深げに言った。
「絵もあらへんな」
イサオの言葉に拓馬は壁を見た。覚えているのは暗い壁にかかっていたはずの一枚の絵だと思うのだが果たしてイサオの言うとおりその絵は既に無かった。
「バルテュスの絵…だったよな」
拓馬は田園の風景画を懐かしく思い出していた。
「すっかり変わってしまったなあ」
「経営者が変わると何もかも白紙だ」
様変わりした店の寂寥感に咽びながら過ぎ去った青春像の欠片を追いつつ二人はビールを飲み干した。
「ところで最近会っていないんだって?」
イサオがしばらく間をおいてから拓馬に尋ねた。理香のことだった。
「そうだな…ずいぶん会ってないよ」
熱気を失ったような薄暗い店内に軽いジャズの音色が漂っていた。拓馬は理香と出会った当時のことを思い浮かべた。ただそのときは時代の流れは急激で巷はデモで溢れ地下に潜れば前衛賛美で溢れていた。全体が紛争に決起し革命思想で溢れていた。しかしとにかく今はすべて溢れていたものが静まったとしか言いようがないような気がした。彼女に対しても同じだった。
当時大学生の理香は水の研究をしていると言っていた。拓馬が水はどこにでもあるというと彼女は化学としての水素だといいそれは無機物としてみた場合その元素は炭素のように有機物の原子の核にはなり得ないと難しいことを言った。そんな彼女との交際は約一年ほどつづき拓馬が大学を卒業してからはたまに会うくらいであった。三年年下だった彼女は去年大学院へと進み専門的な研究へとその意欲のほどを語っていた。拓馬が会社を辞めた直後の頃だった。それ以降理香とは会っていなかった。
「一度会いたいと思っているよ」
拓馬はゆっくりとタバコを燻らせてからイサオに返事した。イサオもそれを聞いて安心したらしくしばらく黙ってビールを飲んだ。
「今日会うという相手は実は理香の友達で空間美術をやっているらしいんだがこれがなかなかの異端児でちょっと風変わりな奴らしい」
イサオは思いついたように資料を取り出しながらしゃべり始めた。
「空間美術?」
「ま、芸術のひとつや」
確かに理香の仲間に芸術家の卵みたいな奴がいたことは覚えている。しかしもはや輪郭すら掴めないほど思い出は霞んでいた。
「実は夏が終わったらこの個展を考えているんだ」
イサオの差し出した資料の表紙に「飛翔する着物の概念」とあり数ページにわたって店内のレイアウトらしき図案が並んでいた。
「つまりディスプレイみたいなもんやな」
その紙面に色とりどりの着物の形や影が角度の違う光線によりまるで別物のオブジェのように輝いていた。当てる光の線によりその構図はまるで空間を羽ばたく妖精のような美の結晶を展開しているのである。それらはすべて室内を幻想で覆うというコンセプトでまとめられているらしく実際の展示物のパターンについても詳しく掲載されていた。次元の異なる新人類の現代感覚に拓馬はただ唸るしかなかった。
「つまり意匠料ってわけか」
「まあな。実際の意匠権はその学生だが売約を取り付ける窓口は画廊主ってわけさ」
「採算はとれるのか?」
「さあな…」
イサオはのんきそうにタバコを燻らせた。やってみなければ分からないとでも言うような表情をしていた。
「客層の相手は?」
「京都は歴史の都や。着物の文化がある。伝統の老舗が多い。海外への進出もぼちぼちや。需要はある」
イサオの発想は既に新たなものへの挑戦に取りかかっていた。前衛派の抽象画から今度は空間の装飾にその糸口を見つけ鋭利で斬新な企画を熟成させようとしていた。瞑想していたことはこのことだったのか。拓馬は画廊のソファにもたれて眼を閉じていた彼の姿を思い出していた。
しかし拓馬にとっても新たに掴もうとする爽やかな秘宝があった。イサオには黙っているがいつか言わなければならない。それは純真無垢な衝動であり眼の前の靄が少しずつ払われていく心境である。明珍火箸の清澄な風鈴の音を聴くように男衆の仕事を見たときからそれは芽吹いていた。
拓馬はその表現を躊躇したまま黙り込むしかなかった。眼の前に広げられた「空間美術」の虚像の世界にそれは重なって見えていたかもしれない。しかしそれは理論ではなかった。
「おう、久しぶり」
やがてひとりの人物が現れた。イサオの声に拓馬が眼をやると痩せ細った長身の若者が白い歯を見せて立っていた。