(8)
(8)
木屋町の飲み屋で中小路のおっさんと出会ったときもちょうど配達の帰りで手元に別の日に廻る予定にしていた女性画を抱えていたときだった。女性画を見ておっさんが語ったことはイサオには話してはいなかった。更に拓馬が後日置屋へ行って男衆の仕事を目の当りにしたことなどイサオには知る由もなかった。
「近いうちに新しいのをやるぞ」
突然イサオは瞑想から覚めるように眼を開けて立ち上がった。
「実は今夜その相手とそこで会う」
と言いながら隅にある流し台のほうへ向かって歩いた。
「だからお前も一緒に行け」
ミルでコーヒー豆を挽く音がしていた。
「誰と会うの?」
「空間美術をやっている若い学生や。今度の個展の打ち合わせや」
「また新しいのをやるの?」
「ああ」
「いつ?」
「夏が終われば…かな」
「ここの借金もだいぶ溜まったしな」
やがてコーヒーを沸かす音が弾けそれに混じってハミングするイサオの鼻歌が聞こえてきた。
「しかし、厳しいなあ」
コーヒーを淹れたカップを二つ持ちひとつを拓馬に渡すとイサオは再びソファに腰を下ろして大きく溜息をついた。
「そろそろここも撤退やな」
イサオは熱いコーヒーをすすりながら壁に眼をやり「叫び」と評したそれらの絵に鋭い視線を投げかけていた。拓馬も同じように絵を見つめた。
「これはいったい何を描いているの?」
「うむ…」
イサオはしばらく唸りつづけた。
「何か錯綜だらけの構図やなあ」
「うむ…」
「題名は何ていうの?」
「唯心…かな」
「唯心?」
それは恐らくイサオが勝手につけた題名であることが窺われた。絵は複雑にもつれた線だけの集合体に見えたがイサオは作者の叫びをそこに見出していたのである。イサオは作者の原点であると思われるゆるい光と色彩を画面全体の構成のなかに捉えていた。作者の魂がそこに存在しそれは静物なのか風景なのかまたは人の顔なのか機械なのか明かりなのか闇なのか、ただ観る人のこころに現存するかのように錯綜しているという。叫びとはそんなものだとイサオは言った。
「結局何が言いたいのやろなあ」
拓馬には何も見えてこなかった。
「これはいつ見ても時間を感じさせない作品なんや。いつの世を経てもそれを感じさせない一種の響き渡る音みたいなものが秘められている絵やねん」
語っているイサオの言葉に明らかに前衛派を賞賛する語彙がこめられていた。不可解な哲学に拓馬は押し黙るよりほかなかった。
「音?」
「観る者の心を動かす音や」
再び閑散とした画廊にふたりの息遣いだけが響いていた。
新しい個展と聞いて拓馬にはイサオが無謀な賭けを背負おうとしているとしか見えなかった。