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風鈴の音は聞こえない  作者: あおい・ろく
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やっと終わったようであった。

「おおきに」

 芸妓は初めて口を開いた。慎ましくて従順なその響きはか細いながらもどこかしっかりとした長閑さがあった。一緒に見ていた女将が満足そうな溜め息を洩らしながらようやくなかに割って入った。まるで点検するかのように一通り芸妓の前に立ちしばらく眺めたあと島田のかつらの(まげ)の部分や鼈甲(べっこう)(かんざし)の位置を少し直した。そして正面の姿見に彼女を映すとやがて得心の笑みを浮かべた。

「ほな、中西はんとこ頼みます」

 と女将は優しく彼女に言葉をかけた。

(にい)さん、おおきに」

やがて芸妓はおっさんにひと声かけて部屋を出て行った。

「お待たせしましたなあ。まあそこへ座っておくれやす」

 拓馬は芸妓と女将の居なくなった部屋にようやく入ることが出来た。

「どないだす?」

 おっさんは笑みを浮かべて拓馬に尋ねた。

「初めて見さしてもらいましたわ」

「今日はこれで終わりや」

 おっさんは残念そうにつぶやいた。

「ほんとうは舞妓を見てもうたら良かったんやけど」

「はあ、いえじゅうぶん見せていただきました」

 拓馬の返事は要領を得ない曖昧な響きを帯び初めて見た男衆の仕事と芸妓の色香にうちのめされた余韻がにじみ出ていた。

 自分は今画商といっても四条烏丸に画廊を持つ知り合いの手伝いのようなものでいわばアルバイトに過ぎない。大学を出てから某企業に就職したもののあまりにも最初描いていた仕事の内容とかけ離れた実情に失望して二年で辞めてしまった。ハーレーを乗り回す毎日を送るうちたまたま心配した知り合いが声をかけてくれたのだ。だから今の仕事はいわば次の職にありつくまでのつなぎでありこのままこれで喰って行こうとは思わない。

心が揺れていた。画を観て画を評価することすら出来ない自分の眼はこの置屋の無言に刻み込まれた仕業に見事に崩壊されていくのである。何も語らない男衆の技のうねりが迷う拓馬の扉を叩くのであった。

「大変な仕事ですねえ」

拓馬は想像していた男衆の仕事を評するかのように言葉をつないだ。

「帯の締め具合は子によって違うまっさかいに」

「なるほど」

「それに帯の長さが第一違います」

「どのくらいですか?」

「舞妓はんの場合は六メーター近くあります。だらりの帯いうてな」

「長いですなあ」

拓馬が驚いていると遠くで、ほな、おかあさん行って参りますという声が伝わってきた。玄関を出て行く音が見送る女将の短い相槌に混じった。

「さっきのは芸妓はんやから大して長くはありまへんけど」

おっさんは正面の姿見を眺めたままだった。

「それでも子によって締め加減はまちまちやから難しおす」

拓馬の眼の奥でおっさんが見せた職人技の鮮やかな手さばきが消し炭のように燻ぶりつづけ自分の心の内側で不可思議な陶酔を覚えた。帯の擦れる音がまるで居座った情熱を掻き立てるかのように旋回しそれはエンジンを唸らせて疾走するハーレーの音と符合するかのように聞こえた。

おっさんは腕を擦りながら、

「帯も卸し立ては堅うおましてなあ、なかなか二つに折れまへんのや。おかげで手の骨を砕いたこともあります」

としみじみ語り始めた。

「わしももうすぐ七十やしそろそろ引退だす」

「そんなことおまへんやろ」

「いやいや、もう歳や。帯締めるのには力がいります。それも単に馬鹿力だけではありまへん。微妙な力加減と瞬発力が必要だす」

「まだまだいけますがな」

「昔はこの宮川町だけでも男衆は結構居ました。今はもう数えるくらいです」

「そうなると伝統を引き継ぐ人が少なくなりますなあ」

拓馬は女将の姿を思い出していた。女手による着付けの仕事は一切見受けられなかった。それを受け付けてこなかった京花街の置屋のしきたりが例えば閉塞された暗闇のように複雑で伝統的な格式のように漂っているのである。女手ではとても適わない単に力の技だけの差なのだろうか。とてもそれだけとは断言できないようなものがありそうだ。

帰り際おっさんは折角やったのに舞妓はんを見てもらえなかったことを詫び再度「参考になりましたやろか?」とにこやかに言った。

それは木屋町の飲み屋で拓馬の抱えていた一枚の絵のことを指していた。



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