(23)・最終回
(23)最終回
それからひと月がたち例の烏丸御池の茶房で千秋と会った。
「君の故郷は長崎だったよな」
「そう、長崎の五島よ」
「一緒に出かけないか。いつか君が言っていた島の子守唄を聞きに行きたい」
「島の子守唄って?」
「君の曾祖母さんが唄っていたという子守唄だよ」
「でももう誰も知っているひとは多分おらんとよ」
千秋はびっくりしていた。
「駄目か」
「でもどうしてその子守唄を聞きたいの?」
「何となくだよ」
築き上げたものがもはや崩れ落ちようとしていた。縛りつけている殻から脱出することだけが自分に合った生き方だと肯定せざるを得ない。それはイサオの説く曼荼羅の絵図に似ていた。ただ迷い込むだけだ。そしてその絵図の諭す方向を千秋とともに求めたいと思った。
「………」
「もう仕事なんて辞めてしまってさあ…」
「夏になったら出かけるぞ」
「夏?」
「具合悪いか?」
「いいえ」
「そう。じゃあ、夏が来て最初の陽が照り始める早朝だ」
拓馬の決心は変わらず一挙に花街の世界からの脱出を計画した。店にいた数人の客も壁の奥に潜む店主も二人の計画など誰も気付きはしない。慌てふためく「春駒」の女将の姿だけが彼方に浮かんだ。
冬はとっくに去っていて店の中央にあったはずの加湿暖房機は今はもうなかった。
愛用のエンジンは錆びが付着しているようにも思えたが一通りの点検を終えると眠っていた歳月が光沢を放ち始めた。再び力強いエンジンの始動が弾け瞬く間に二年前の自分の姿が甦った。新たな彷徨が始まろうとしていた。
早朝の陽が間もなくあがり大地に蒸れた夏草の匂いが拡散していた。蝉の鳴き声が始まり夏の到来を告げた。微風を切って走るハーレーの影が京の街を疾走し始めた。川端通りからゆっくり西に入ると今度は昇ってきた陽の光を背に受けながら御池通りをまっすぐに進んだ。
人通りはなく街は静けさに覆われている。今や向かっている先に推し測ることの出来ない歴史や伝統が立ち塞がることはない。堅苦しいしきたりに合わせなくてもすむ。新鮮な息吹が振り切った決断の奥で躍動していた。
約束どおり千秋の姿は現れるのか。それだけが不安であった。イサオの言っていた曼荼羅の啓示がハーレーを握る脳裏を掠めた。しかし疾走するハーレーの爆発音が不気味なまでにそれを塗り替えようとしていた。
やがて照り始める陽炎の向こうに手を振って立っているジーパン姿の千秋の姿が現れてきた。
約束の夏が訪れようとしていた。




