(2)
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その玄関の上に「鈴屋」と書かれた提灯がありここがおっさんのいう置屋だと分かった。なかの様子をしばらく窺いながら拓馬はもう一度時計を確かめた。やっぱりめんどくさいなと一瞬ためらいの気持ちが横切ったが引き返すわけには行かない。それに画商といっても自分に絵を観る才能があるわけではないし勿論おっさんにいまさら美のうん蓄を賜ろうとも思わない。ただ舞妓の着付けという仕事を一度見たかっただけである。
腕時計の針はきっかり約束の四時を指していた。
「ごめんやす」
戸を開けてなかへ入ると薄暗い奥の間を遮断するかのように古風な衝立が真っ先に眼に入った。ややあってから奥の方で物音がして人影が近づいてくる気配が感じられた。
「どちらはんどす?」
「中小路はんの知り合いのものです」
「はあゝ待っておいりやすえ」
現われた女将は落ち着いた声で答え初対面とはいえ親密な言葉尻を匂わせた。玄関に漂う張り詰めた静けさのためかその女将の顔半分にやや冷ややかな薄気味悪そうな光が混じって反射するかのようである。時折バイクを乗り回している拓馬にはそれがいつか見かけた北大路通りの夜のコンビにたむろするズベ公どもの集団の放つ眼の光を感じさせた。
促されて静謐な廊下を歩きながら家屋の造りに染み込んだ匂いを感じ取った。それは宮川町の路地に射す薄暗い影の匂いに似ていた。花街特有の澱んだ馨りのようであり深い歴史とともに刻み込まれたどっしりとした格式を放っているようにも思えた。
「お越しやす」
やがて通された部屋の襖を開けるとおっさんの声がした。
中小路のおっさんはひとりの芸妓の後ろに回って帯の締め具合の調整をしていた。
「ちょっと待っておくれやっしゃ」
部屋のなかでは帯の擦れる音だけが支配していてその他一切の空気が凝固したように止まっていた。おっさんは拓馬に気を遣いながらも真剣に腕を動かし睨みを利かせた眼差しで芸妓の帯を締めつづけた。きつおまっか?これくらいでどうです?としきりに彼女に問いかけている。
入り口で立ち止まったまま拓馬はまるで次元の違った世界へ踏み込むような気分に襲われていた。眼の前の芸妓自体を包む部屋の空気がまるで荘厳に張りつめられた饗宴を施すかのように圧倒したからだ。
それは美そのものより創り上げられていく虚飾の魂が息を潜ませ現実をはるか遠くに追いやる魔性の息吹を観賞するかのようだ。芸妓の白く塗りたくられた襟足に走る二本の細長い線のあいだにV字型に塗り残された部分が艶めかしく残されていてまるでそれが色香を漂わせているかのようである。おっさんが言っていた色香には彩りはないということが暗黙のうちに理解させられるような気分にならざるを得ない。