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風鈴の音は聞こえない  作者: あおい・ろく
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春爛漫の木屋町に夜桜の白さが薄闇に照らし出されている。中小路氏と出会う前までは自分は外資系の会社を二年で辞め不可解なイサオの商売の手助けをしていた。そしてハーレーを乗り回し未知への彷徨を繰り返した。今思えばその暗黒からようやく一筋の光によって歩みだそうとしている自分の姿が見えていた。

 中小路氏と会うのは七ヶ月ぶりのことであった。木屋町の居酒屋で出会ったときの最初の痕跡はすっかり消え全身に男衆としてのかたちばかりの風貌を身につけ始めていた。中小路氏はその後花街の様子を遠くで眺める存在ではあったが古参としてのお目付け役の地位は相変わらずで関係者からの相談は後を絶たなかった。祗園甲部においてさえその名を知らぬ者はいないほど花街に及ぼす力は大きかった。

「どうだす群青はん、精出してやってはりまっか?」

「はいお陰さんでほちぼちやらせてもうてます」

 拓馬は一年前のこの店のことを覚えていた。中小路氏が拓馬の持っていた絵画を眺めながら言ったことも鮮明に思い浮かぶのである。

「春駒もずいぶん舞妓はんが誕生しましたなあ」

「そうですね」

「わいもずいぶん舞妓の移り変わりを眺めさしてもろたけどやっぱし時代やなあと思いますなあ」

 中小路氏はゆったりと盃を運びながら間をおいてしゃべった。緩慢で余裕のある春の宵が店内を覆っていた。イサオと行った五条の柳馬場の「蔵」とはまったく趣きが違い辺りは穏やかに和む息遣いで満たされていた。

「時代がそうやからというてすべてがすべて許されるもんと違うこともおます」

「はあ」

 曖昧に相槌を打っていたが拓馬はやがてそれが「春駒」の女将と千秋のことを言っているのではないかと思った。珠の言ってきたことを中小路氏は直接拓馬に伝えようとしているのではないのだろうか。

「どんなことですか」

「わしらは花街のしきたりちゅうもんを守ってきたさかいにな物の道理や仕事に対しての考え方がちょっと違うかもしれん。そやから今の若いもんが考えることに意見してもせんないことやと思いますねんけどな」

「まあそうですね」

 拓馬は説教されていた千秋の光景を探りながら静かに中小路氏の盃に酒を注いだ。

 具体的な話には入らず中小路氏は無表情のまま心のなかで大きな溜息をついているかに見えた。ただゆったりと口に盃を運ぶのみである。しかし一呼吸おいてからしみじみとした口調で語り始めた。

「まあなんでんなあ、こういう社会は若い人には理解出来んやろけど伝統の文化やさかえなあ」

「そりゃそうです」

「このあいだなんか小雪の女将が嘆いてはった。今日びのコはあっさりし過ぎやいうてな」

「小雪って先斗町のお茶屋ですか?」

 拓馬はほっとしていた。「春駒」ではなかったからだ。

「そうや。大事なお客さんやのに急用が出来たいうて彼女は時間どおりに仕舞って帰ってしまいはったいうてな」

 中小路氏の口元に苦笑いを滲ませる形状が走っていた。呆れ返っている表情であることは拓馬にも読めた。

「群青はんはどない思いはります?」

「やっぱし今日びのコですからねえ、自分のことが優先するのと違いますか?」

「困ったこっちゃなあ」

 中小路氏は嘆くかのようにぶつぶつとつぶやいた。それを聞きながら拓馬の脳裏に今春、舞妓として正式にお座敷に上がったばかりの千秋の姿が映っていた。それは鴨川で煌いた音が新たな色合いを呈していてこれまで積み重ねてきた帯の擦れる音の幻想から今や彼女のそれへと移っていることに気付き始めていた。怪しいまでの煩悩が沸き起こっていた。その淡い甘美な流れは店の外を流れる高瀬川のせせらぎに混じって聞こえた。

「昔は休みなんて月に二回程度の社会や。それが今は組合がどうのこうのとややこしことになってもうてなあ」

「全体がそうですからね」

「しかし花街だけはあきまへん。世間とおんなじようなことをしてたら意味がなくなります。伝統がないよなります」

「まあ、そうですがね」

「群青はん、花街の舞妓を一人前に仕上げるまでに置屋の女将がどれだけのお金をかけてはるか知ってはりますか?」

「さあ、相当かかるでしょうが、見当がつかないです」

「最低でも三千万はかかってます。もしそのことを口にでもして角でも立ったら今日びのコでっさかい途端に辞めてしまうかもしれまへん。そうなったらパアですわ。せっかくそれだけ投資して一生懸命に世話してきた女将にとっては水の泡です。大赤字や。そやからせめて年季が明けるまではとにかく舞妓を辞めんといて欲しいとどこの女将も思てはります。」

「それはその通りだと思います」

「昔ながらの風習ってよう言いはりますが築き上げられた文化には格式高い伝統があります。そんなこんなという時代やからいうてそう簡単に今の若いコの考えに合わせていたら終いに伝統という歴史がなくなります」

「…」

拓馬は何も言えなかった。「蔵」でイサオが語った京の歴史という怪物が中小路氏の言葉になかにも潜んでいるように思われた。伝統と格式とが常に浮遊しその実態がいつも掴めそうで掴めなかった。それは人々の前で輪郭だけを現し具体像を隠していた。説明の仕様のない概念に近かった。「鈴屋」で閃いた精鋭は「春駒」においては徐々に大きな障壁へと向かっていた。


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