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春が鴨川の流れのうえに到来を告げていた。川面に射す淡い陽と川岸に連なる小料理屋の格子窓に閉ざされていた冬が去ろうとしていた。
川べりの歩道を歩く千秋の足取りはまるで霞みを振り払う初春の朝陽のように爽やかに跳ね黄色いセーターにジーパン姿が拓馬の眼を驚かせた。彼女がこの春「お店出し」を控えている舞妓だとは到底思えない。
千秋は長崎の五島列島で中学を終えるとすぐに祗園甲部の「春駒」に「仕込みさん」として入ってきた。八ヶ月間ほど先輩の身の回りの世話やお稽古に明け暮れたあと「仕込みさん」から今度は「見習いさん」になって「春駒」の姐さんたちに連れられてお座敷に通い始めていた。そして間もなく晴れて舞妓としてデビューするのだ。拓馬が「春駒」で修行していた昨年の夏頃は彼女はまだ「仕込みさん」だったはずだ。
拓馬にとって花街のしきたりが古臭くてどことなく封建的でそれを口に出すことすらできない環境であることは分かっていた。暗黙の風習が蔓延りそれを伝統とする世界なのである。したがって花街独特の不条理は培われた風習そのものであり単純な疑問など千年を越える歴史が相手では到底太刀打ちの出来るものではなかった。しかし「春駒」で見る千秋の印象は会話の語尾に時々単刀直入にそれを捉える正直な眼を持っていた。
「うち、ぎょうさんお金かけて見栄を張る気持ちがわからんわ」
と彼女は今年七十になる「春駒」の女将・珠に向かって言ったことがある。
それは去年の暮れ「春駒」にたくさんの「目録」が届けられた日のことであった。「目録」とは贔屓筋や先輩の姐さんや旦那衆や隣近所から贈られた舞妓デビューに寄せられるご祝儀のことでこの世界では日常茶飯事の風習である。女将は彼女の言葉に息を呑んだ。
「駒千代はん、なんていうこと言いおすのや、みんなあんたの門出を祝ってくれてはんのやないかいな、罰当たりなこというもんやおへんえ」
女将は怒った。常々贔屓筋や隣近所の付き合いに神経を尖らせていた女将だっただけにその怒りは尋常ではなかった。
「ありがたいもんやと感謝するのが当たり前やおへんか。それに今日まで誰のおかげでお店出しの日を迎えられたと思てなはんのや」
と女将の説教はつづいた。拓馬はこのやり取りを盗み聞きしていた。あのときの千秋は単なる感じたままをつぶやいたに違いなかった。何も花街を取り巻く風習そのものを批判したわけではなかった。しかし一方的に叱った女将の心情は千秋の言葉を贈ってくれた人に対する厚意を逆撫でするかのように聞こえたらしく取り付くシマもなかった。清純な千秋が哀れに思えた。
川べりを弾む千秋の瞳に爽やかな風が通り過ぎていく。
「郷には帰らんのか?」
「帰らん。もう京都に住む覚悟のしとるばって諦めてる」
「こっちが気に入った?」
「気に入ったわけでもないけどお仕事もあるし」
「もうすぐ舞妓さんになるんやな」
「そうどす」
京言葉と九州訛りが交互に混ざり合っていた。
「ひとつ聞いてもよか?」
「なに」
「群青さんはどうして男衆の仕事を選んだのですか?」
「音さ。男衆が芸妓さんの帯を絞めるときの音に魅せられたんや」
「へえー」
千秋は驚いたような声をあげた。可憐な響きが透き通っていた。
「どんな音がしおすんえ?」
「どう表現していいのか分からん」
「そんなにええ音ですか?」
「ああ」
川面に陽光のさざなみが点滅していた。どこまでも清楚で明澄で穏やかな春の広がりが川面いっぱいに輝いているかに見えた。
「実はうちもどう表現していいか忘れられない音があるんよ」
突然彼女は思い起こすようにしみじみと語り始めた。
その音は彼女が幼いころ聞いたという島の子守唄の音色のことだった。八十七歳で死んだ曾祖母に習った歌だとも言った。哀しい音色のその島の子守歌はどこにもない表現のしようもない素晴らしいものだと言った。




