(14)
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イサオから連絡があってそのまま日を延ばしているのも気になり「春駒」での一仕事を終えたある晩秋の宵、イサオの指定する店へ向かうことに決めた。冷たい風がひっきりなしに拓馬の耳元を吹きつけていた。広太郎の空間美術の個展は果たしてうまくいったのであろうかとふと思いながら五条柳馬場通りを上がって行った。
路地に並ぶ低い軒下の明かりが歩を進める拓馬の眼に今し方終えた祗園甲部の置屋「春駒」での着付けの仕上げの手応えを清々しく反映するかのごとく煌いてみえた。出来栄えは自分自身の確信のなかにだけ存在し得るものであった。イサオに何と言われようと自分が汗する対象として選択した仕事に今更迷いはなかった。イサオがまた何か新しい仕事でも見つけて手伝えとでもいうのだろうか。
その「蔵」という居酒屋は細長い石畳の通路を渡った奥座敷のようなところにあった。玄関には小さな灯りがあるだけでまさに名のとおり蔵のような入口だった。なかに入ると薄明かりの店内に幽玄な人影が確認できカウンターにはまばらに凝固したそれぞれが時間を味わっているかのような息遣いが漂った。まるでイサオの世界が広がるような趣味を肌で感じ取りながら拓馬はやがて合図するイサオの席へと進んでいった。
「祗園で男衆の仕事だって?」
「うむ。まあな」
「また妙な仕事を見つけたもんやな」
「惹かれるものがあったのさ」
「そうか…惹かれるものなあ」
周囲に哄笑や叫喚はなかった。甲高い物音はなにひとつ起こらずただ凝固したそれらの人影は黙々と時を過ごしていた。
「春駒」での仕事の余韻はまだ手のひらに残っていて仄かな充実感を帯びていた。自分の選んだ仕事に一点の曇りもなかった。それは未知に秘めた絶対的な自分自身の価値観に近いものといえた。しかもそれは会社人間では得られない喜びであり創造の世界からするとイサオとも次元の異なる好みでもあった。
「着付師の技に魅せられたのがきっかけや」
「ただ着せるだけのことやないか」
「しかし六メートルもあるだらりの帯なんか到底女手で出来るもんやない」
「まあそうかも知れんけど」
イサオは苦々しそうに拓馬を見つめていた。
「どこが職人技なんかなあ」
「置屋にはいろんな体型をした舞妓や芸妓がいる。帯の絞め加減も当然それぞれに違ってくる。伝統ある職人技を持つ花街の男衆の技はその帯を絞める微妙な調節を知っているんや」
「まあ商売やから当然やろ。しかしさっきからいう魅せられ技とはなんや」
「音や」
「音?」
「男衆が帯を調節するときに帯が擦れて鳴る音や」
拓馬は宮川町で初めて聞いたその静かに部屋を貫く絹糸の響きを語ろうとしたがうまく表現できなかった。歴史の重みを原型を崩さないままその彩を語るようなもので何かが欠けていた。
「けったいな奴ちゃな」
イサオは鼻で笑うようにして言い放った。しかしまんざら無視している様子はなくその抽象的な概念を黙って味わうかのような微笑が彼の眼の奥で光っていた。
焼酎の味は深くしみわたり数ヶ月の足跡が甦る。「春駒」が将来に渡って自分の居場所であることには異存がなかった。
「人間関係はどないやねん」
「まあ伝統を守る社会やからそれなりに」
霧のように澱む花街のしきたりが浮かんだ。それは店内の静けさのように客はいるのだがみんな寡黙で耳だけをそばだてるかのように相変わらず凝固していた。
「しかし堅苦しい世界に飛び込んだもんやなあ」
「そうでもないさ」
「まあ、慣れなしゃあないなあ」
相変わらず周囲の凝固した影に聞き耳だけを立てているかのような静けさを感じた。視線が同時に向けられてはいるが彼らは決してそれを明かさない。ただ寡黙な世界が広がるのみでまるでそこに花街の人間世界の裏表が映っているかのようである。自分が選択した世界に自分自身の形式が許されないような大きな歴史の壁が次第に浮かんできて店内の暗闇のなかにそして依然と寡黙する彼らの視線のなかにそれは漂っているかのようだ。
話はそれでしばらく途切れた。




