(13)
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空の青さがずいぶん高く雲が棚引くように走っていた。拓馬にはそれが花街の様々な人間模様を表わしているように感じられる。永い道のりが短かったようでもありまた昨日のことのようにも感じられる。祗園甲部の男衆見習になってからつい最近まで自分の時間をこうして過ごすことなど一度もなかった。それに偶然に再会した「鶴喜蕎麦」屋の彼女と肩を並べて歩いている現実がまるで幻の情景のように感じられた。
いつかハーレーに乗せてやると言った約束を彼女は覚えていて話の根底にそれを微かに忍ばせているかに見えたがたが拓馬はとっくに忘れていて苦笑いするのみであった。このところ精進する祗園甲部の生活のことしか関心はなくハーレーは今や乗り捨てられた遺物ともいえた。
「びっくりしたなあ、君が劇団員だなんて」
「そうよ。行く末はニューヨーク・ブロードウェーよ」
彼女は澄み切った空を眺めて叫んでいた。
下鴨神社の梢に秋が訪れ糺の森一帯は徐々に色づき始めようとしていた。落ち着いた境内に這入ると拓馬の耳に神聖な木霊が響くかのようである。それは男衆として歩み出した新しい決意の躍動として聞こえてきそうだ。
中小路氏の伝によって最初は祗園花街の置屋数件で手伝いのようなことをした。男衆として花街の生活や風習に慣れることが先ず第一だった。周りに見るもの感じるものすべての世界が最初の印象と大きく隔たっていた。それは花街を育む人間関係や物事の考え方にありそれが縦にも横にも強い習慣として生きていることだった。反面封建的とも思えるほどその習慣は強固だったがそれがこの世界を形成する伝統であり歴史であると考えた。イサオの前衛の世界とか広太郎をはじめとする新人類の理論的世界を排斥した今残る道はこれを掴み取るしかない。
男衆の見習いとしてようやく三月ばかりが経つとおかげで祗園甲部の置屋界隈や芸妓仲間にも顔が知れ渡るようになっていた。
「大学生じゃなかったの?」
「あのときはね」
彼女は蕎麦屋でバイトをしているときミュージカルの劇団にスカウトされたらしい。
「楽しいわ。練習はきついけど」
「公演はあるの?」
「来月はまた東京よ」
劇団の名前を聞いても拓馬はそれが有名なのかどうかも分からなかったが彼女の弾む声を聞いていると何となく心が弾んだ。
今夏祗園の近くの扇屋の前で彼女と偶然に出会ったこと自体その不思議な縁を感じないわけにはいかなかったがこうして静かな境内を歩いていると何もかもが微妙な幻影に満ちていた。半年前の峠の蕎麦屋での陽炎、彼女の微笑み、ハーレーのエンジンの響き、淵の見えない彷徨、様々なの世界が次第に暗闇の谷間から抜け出してようやく掴み取ろうとしている一筋の光に向かうのが読み取れそうだ。
社殿から奥まったところへつづく小径に木洩れ日が輝いていた。
「でもどうして着付師なんかになろうと思ったのですか?」
急に彼女は尋ねてきた。
「伝統ある古の技かな」
「わざ?ですか」
説明する簡単な言葉が見当たらなかった。拓馬にとってそれは自分自身の幻影に過ぎなかった。単なる着付師の技を指したのではない。あの雅な音に惹かれたということを表現すべきなのだ。
「そう。演出のないわざ」
曖昧な感触が滞っていた。
「むずかしいですね」
彼女は何度もつぶやいて不思議そうに微笑んだ。
小径はやがて広い雑木林を抜け枯れた野原の断層がつづく小川の袂に辿り着いた。せせらぎの音が聞こえ川面に反射する光が顔を照らした。
「透きとおっているわ」
「きれいな水だね」
しばらく流れるさまを眺めた。浅瀬に浮き上がる小石の群れに清涼な落ち着きが映っていた。イサオが絵には観る者の心を動かす音があると言った様態が流れる光のなかに点在した。それは見えたり沈んだりを繰返した。
「演出のないわざって何ですか?」
流れを見つめたまま彼女は尋ねた。
「匠の醸し出す音さ」
拓馬にとってはそのようにしか返答できない。聴覚の襞に灯った自分の残像を実現するためにはそのように表現するしかなかった。それはたとえ具体的に説明を求められても永遠に解明の出来ない自分自身の秘宝であるためだったかもしれない。
そのうち遠くで声が聞こえ次第にこちらに近づいてくる気配がした。声は集団となって固まりひとつの群れをなしていた。
「撮影みたいね」
集団は色とりどりの服装で現れ大きな道具や映像機器を携えて奇声を囃し立てながら忽ちふたりの眼の前近くまでやってきた。
「時代劇か」
「面白そうね」
ふたりはしばらくその撮影風景を見学するハメになった。小川を挟んで陣取った撮影隊は個々の小隊に分かれて活動をし始めた。監督らしき男の姿がそれとなく断定できたが彼は青二才のような風貌であり眼鏡の奥に腕白さを滲ませた風雲児のような威光を放っている。高下駄を履きシャツを捲り上げた格好は凡そ周りにいる衣装を纏った俳優たちと大して引けをとらない。大声で喝破しながら極めたい映像を盛んに説き遂には自ら高下駄を脱ぎ捨てて小川のなかへ入って行った。
何度となくカットが繰返されその度に静けさと緊張とどよめきが息づいた。「あの監督ずいぶん若そうね」
感嘆とも軽蔑とも取れる彼女の呟きが漏れた。
「大学出たての新米だね」
澄み切った小川の流れは撮影隊の侵入で破壊された。その穏やかな源流は新米の青二才の指図で動く撮影隊や役者たちによって堰き止められ、清涼に浮き立つ小石の姿も消えた。青二才の創り出そうとする映像の熱気が川面の原型を壊滅させ清澄なせせらぎは消滅した。
「君もブロードウェー、目指して頑張れよ」
飛び交う喧騒を前にしながら拓馬は彼女に言った。
「もうハーレーは乗ってないのですか?」
しばらくして彼女は思い出すようにして拓馬に尋ねた。
「卒業したよ」
今の拓馬にとって着付け師の仕事は不透明ではあるが心に届く情熱を秘めていた。いつもなら不気味に響く糺の森のカラスの鳴き声も今日の拓馬の耳には眼の前の新米の青二才やブロードウェーを目指す彼女のように弾んで聞こえた。果敢に挑もうとする拓馬自身の姿がそれに共鳴していた。




