座禅と体育
大久保がふざけた宣言をした日の夕方。
今日は2、3年生の始業式があり、2、3年生は午前中の授業が終わってから帰った。
俺達1年生は、午前は通常授業、午後はESPの座学を行った。
まだまだ、教科書の最初のページぐらいだが。
少し緑がかった水槽の中で、赤い金魚が一匹泳いでいる。
この子の名前は金ちゃんだ。
俺が水槽に餌を落とすと、金ちゃんがそれを食べていく。
その様子を見ながら、ESP高でのことを思い出していた。
大久保の奴、ふざけた宣言しやがって。
おかげで俺にいろんな疑いがかかったじゃねえか。
どう考えても、あれのせいで男子にも目をつけられたよな。
中学のときのあいつだってそうだ。
あいつはかなりの優等生だったが、いつの間にかいじめの輪の中に加わっていた。
でもあいつは先生に信頼されていたし、たぶん訴えても信じてはもらえなかった。
俺も鈍臭くって、あいつもイラつかせてたっていうのは分かるが、あれはないだろ。
そんな風に中学校の頃を思い出していると、バイクがうちのガレージの中で止まった。
母ちゃんも帰ってきたのか。
母ちゃんはパートにはいつもバイクで行き、夕方ぐらいに帰ってくる。
俺は玄関まで行って鍵を開ける。
「ただいま、母ちゃん」
「おかえり。お兄ちゃんの方が早かったのね」
母ちゃんは帰りにデパートに寄ってきたんだろうか、買い物袋を持っている。
「それ、俺が持つよ」
「ありがとう」
俺は母ちゃんから袋を受け取り、台所で朝食のパンだけ分けた。
「どうだった? ESPの授業」
「いや、今日はまだESPの授業はなかったよ。座学はあったけど。そうだ。茶々の散歩は俺が行くよ。ほら茶々」
俺はいつものように茶々をお菓子で釣る。
茶々が玄関まで来たところで、ハーネスを巻く。
「行ってくれるの。ごめんね」
俺も鍵を持って、運動靴を履く。
「行ってきまーす!」
俺は母ちゃんに手を振り、散歩に出かけた。
午前中、俺達1年生は、2年生とともにESP高最寄りの寺に集まっていた。
そこの道場で、1年生と2年生が向かい合って座禅を組んでいる。
これは、1年生と2年生の交流会を兼ねたESPの修行だ。
どうやら、毎年この寺で行われているらしい。
道場の奥には、大きな銅の仏像が座っている。
座禅はテレビなどで知っている人も多いかもしれないが、詳しいことを知っている人は少ないかもしれない。
とか偉そうなことを考えているが、かく言う俺も研修のときに初めて学んだ身だ。
座禅は胡座をかき、両手の親指とその他の指をくっつけ、膝の上に置き、目を閉じて瞑想
めいそう
する。
精神集中が途切れると、和尚に杓で喝を入れられる、というのが多くの人のイメージする座禅だ。
だが、正確には少し違う。
まず、胡座をかいているように見える動作だが、今俺が行っているこれはそんな楽な姿勢じゃない。
今、俺は右足を左脚のふくらはぎの上に乗せている。左足も組まれた右脚と組むように右脚のふくらはぎの上に乗っている。
ヨガみたいと言われるかもしれないが、確かに結構きつい。
手は、臍の下の丹田の辺りで右手の指を左手の指の上に乗せ、三角形を描くようにしている。
親指はくっついているのではなく、ほんの少しだけ開けている。
姿勢は、胡座のように背を丸めているのではなく、頭から身体の真ん中に心棒が刺さっているように、頭から背までまっすぐにする。普通に背筋を伸ばすのとも違う。
また、目を閉じているのではなく、半開きにして1.5メートル先を見る。
仏像をよく見てみると、少しだけ目を開いているが、それをイメージしてもらえると分かりやすいかもしれない。
この姿勢で、精神集中し瞑想をし続ける。
また、喝を入れられるのは自己申告だ。
精神集中が途切れた場合、手を交差させて両肩に置く。和尚が来たら、頭を下げて、右肩に3回、左肩に3回喝を入れてもらう、といった感じだ。
でも……。
(集中できない……)
というのも、隣があの大久保神流だからだ。
俺は出席番号7番、大久保は出席番号6番。
出席番号準に並べば、嫌でもこうなるか。
さっきから大久保はこっちをチラチラ見てくる。
(何がしたいんだ、一体……)
っとと、座禅の最中だった。集中しないとな。
そう思って視線を戻した俺の前を、和尚が通り過ぎようとしていた。
気付かれてないかな、今の?
そんな心配をしていると、和尚はそのまま通り過ぎていった。
(いや、ここは喝を入れて頂くべきなのか?)
理由はどうあれ、集中できていなかったのは事実だ。
いや、しかし、今は隣に大久保がいるしな。
そんな風に迷っている間に、座禅の時間は過ぎていった。
「起立」
先生の号令で全員が起立する。
「敬礼」
1年、2年ともに揃って敬礼した。
続いて、両方の学年から代表者が前へ歩み出た。
1年の代表者は、まるでお姫様みたいな女子だ。
まず目に留まったのが、その長い黒髪だ。
前髪、後ろ髪ともに綺麗に切り揃えている。いわゆる『姫カット』だ。
スタイルも良く、大久保ぐらい手足がスラッとしている。
立ち居振る舞いも清楚な感じで、朗らかな笑顔を浮かべている。制服の着こなしもばっちりだ。
2年の代表者は長い金髪の男子だ。
学ランを着ていなかったら、女子と見間違えていたかもしれない。
背は外国人にしては低くて、日本人男性の平均ぐらいって感じだ。
ESP高の生徒に外国人もいるんだな。
っていうか、外国人留学生にして学年主席ってことだよな。
(たぶん)たった一人の外国人が学年主席って、すごいことだよな。
二人は道場の真ん中辺りで敬礼を交わした。
「1年生代表、酒井えみりです。本日はお世話になります」
「2年生代表、クリス・フェニックスです。こちらこそよろしく」
1年代表が酒井えみりさん、2年代表がクリス・フェニックス先輩か。
酒井さん、すごい美人だよな。
大久保がアイドルなら、酒井さんは大和撫子ってところか。
今時あんな人、ほとんどいないよな。
それにしても、フェニックス先輩もかなりの美男子だよな。
映画スターみたいながっちりした感じじゃなくて、線が細くて、華奢な感じだ。
この人がおとぎ話か少女漫画の世界から飛び出してきた王子様だって言われたら、本気で信じてしまいそうだ。
こういう美男美女の組み合わせって、絵になるよな。
次に、この寺の和尚が前に出てきた。
和尚から、事実上交流会の司会を兼ねた説法が始まる。
だが、なにしろ長過ぎて集中力が続かない。
途中から話がどんどん分からなくなってきた。
「じぃ~~~~~~~~」
「うわっ!」
横に目をやったら、なんだか知らないが大久保がこっちをじっと見ている。
おかげで目が覚めたけど。
とりあえずこの視線は無視して、和尚の話をちゃんと聞こう。
話が終わり、1年、2年ともに和尚に敬礼した。
「それでは、整列」
まず1年から出席番号準に並んで(帰るときなので逆向きに)道場を出る。
道場に入るときは大久保が前に来る形となったが、帰りは大久保が後ろに来る形となった。
後ろ姿を見ているときも気になったけど、真後ろにいるっていうのも非常に気になる。
道場の前で革靴を履き、もと来た道を帰っていく。
道場の横には、石を組んでプールのようにした池の上に、蓮の花が浮かんでいる。
「綺麗だよな……」
いかにもお寺らしい、極楽浄土を思わせる造りだ。
それを見ていると、座禅のとき、喝を入れてもらわなかったことへの後悔が芽生えてきた。
「あんとき、ちゃんと喝を入れてもらった方がよかったかな……」
「なあ、上杉」
そんなことを考えていると、急に前の男子に声をかけられた。
出席番号8番の楠木……えーと……昭彦だ。
寺に来るときは、大久保じゃなくてこいつが俺の後ろだった。
実は、楠木は合宿のときに同じ部屋だった。
10人いる部屋を5人ずつの班に分けたとき、事実上班長を務めた。
「その独り言どうにかならないか? すっげぇ気になるぞ」
独り言?
「そ、そんなに声に出てたか?」
「気付いてないのか? かなりうるせえぞ」
そういえば、俺がいじめられていたとき、一部の奴らが「上杉には霊感がある」って言ってからかって来たことがある。
横から「卓也、卓也、おばあちゃんよ~」とか。
もちろんおばあちゃんなら、今も元気だ。
そいつらに聞いてみると「だってお前、霊と話してるだろ」って言っていた。
ちなみに、俺は魔術が使えるが、霊感は特に持っていない。
魔術、超能力、霊能力は原理が違うからだ。
「わ、悪かった。今度から気をつけるよ」
ひょっとしたら、それも俺が嫌われた理由かもしれない。
ESP高でも軋轢
を生まないためにも、改善しないとダメだ。
「フン」
楠木は鼻を鳴らし、前に向き直った。
俺にも非はあるかもしれないが、感じ悪いな。
道場から帰ってきて、すぐに休み時間になった。
俺は廊下に出て、どこで時間をつぶそうか考えていた。
さて、これからどうしよう。
教室の中にいると、大久保がしつこいだろうし……。
「ねえ」
反射的に、その声が自分に向けられたものだと感じて振り向いた。
後ろには、あの2年生代表のフェニックス先輩が立っていた。
いや、違うか。誰か他の人を呼んだだけだった。
邪魔にならないように退こうか。
「君が上杉卓也君だね?」
思わずずっこけた。
フェニックス先輩、本当に俺のことを呼んでいたのか。
「は、はい! 上杉卓也です! 2年のフェニックス先輩ですよね?」
俺は慌てて敬礼し答える。
フェニックス先輩も微笑みを浮かべ、敬礼で返してくれる。
「そうだ。僕はクリス・フェニックス。よろしく」
でも、先輩、どうして俺のことを?
「ある人から君の話を聞いたんだ。彼女は君のことを、熱意溢れる志高い生徒だと評していたよ」
それは大袈裟だと思ったが、本当のところ照れる。
「でも、俺よりも努力してる人もいっぱいいるはずですよ」
俺としては、ESP高に入学する生徒の多くは、ESPへの熱意があって当たり前だと思ってるけどな。
待てよ。“彼女”って誰だ?
俺は、自己紹介のときに『ESPを極めようとする気持ちは誰にも負けません』と言っていたからな。
それを聞いていた人なら、1年2組の誰かかな?
「ところで、今日は君に聞きたいことがあるんだ」
「はい、何でしょう?」
フェニックス先輩は少し考えた後、質問する。
「君はESP高に入学する前――例えば、受験の後に、他の学校からの受験生と話したことはあるだろうか?」
他の受験生か……。
そういえば、調子が悪そうな女子がいたから、介抱したことがあるんだよな。
その後、その子と意気投合して、昼ご飯に近くの喫茶店に立ち寄ったんだ。
あの子、何て名前だっけ?
「はい。実は――」
いや、受験の帰りに喫茶店で飲み食いしたって話をしたら、印象が悪くなるんじゃないか?
「い、いえ、他の受験生とは、特に話などはしていませんが?」
ここはごまかした方がいいかな?
あのときの女子も見つかると困るだろうし。
フェニックス先輩はしばらく何かを考えていたようだったが、気を取り直したように口を開いた。
「そうか……。変なことを聞いてすまない」
フェニックス先輩、どうしたんだ?
そんなとき、チャイムが鳴った。
「あっ、もう授業ですね」
「うん。それじゃあ僕はこれで失礼するよ」
「はい」
立ち去ろうとしたところで、フェニックス先輩が振り返った。
「そうだ。僕のことはファーストネームで、クリスって呼んでくれ。僕はその方が慣れているから」
確かに外国じゃ、ファーストネームで呼ぶのが普通だもんな。
「はい、クリス先輩」
クリス先輩は、手を振りながら去っていった。
そうそう、俺も教室に戻らないとな。
午後、春の晴れた空の下、俺達は校舎の裏にあるグラウンドに集まっていた。
「くしゅんっ!」
俺は反復横跳びをしながらクシャミをした。
やっぱり春だけあって、花粉症がきつい。
座禅のときはマシだったが、外に出たままだとひどくなるな。
これからはちゃんとマスクしないとな。
今日は体育の体力測定だ。
二人一組で、互いに握力、走り幅跳びの距離、反復横跳びの階数などを記録しあう。
入学前の合宿を除いては、初めてジャージを着る機会になる。
ちなみに体操服は赤いジャージと白いシューズで、ジャージの下のトレーナー(Tシャツ)もESP高指定の2本の線とESP校のマークが入ったものだ。
無論、体育の授業中もESPメーターは着用必須だ。
「22回っと」
俺の反復横跳びの回数を大久保が記録した。
大久保は赤いジャージで決めていて、粉色のウェーブがかった髪をいつものお嬢様みたいな髪型ではなく、ポニーテールにしている。
ちなみに、先程は俺が大久保の回数を記録した。
本来なら、大久保は出席番号5番の縁
えにし
さんと、俺は楠木と組むはずだったんだが、どういうわけか大久保と組むことになった。
一体どんな工作をしたんだ、大久保の奴?
「次は何だっけ? 幅跳び?」
最初に握力測定、その次がこの反復横跳び、次が幅跳びだ。
「では、これから幅跳びに移りたいと思います」
体育の先生のだるそうな号令で、全員が幅跳びの場所に並び始める。
「当たりだったね」
大久保が楽しそうに言う。
予想が当たってたからって何だ。
前の出席番号準に早い二組が測り終えてから、俺と大久保の番になる。
まず俺が最初に跳ぶ。
「ほっ!」
プロの選手の見よう見まねでジャンプするが、あまり遠くへは跳べなかった。
「1メートル20センチだよー」
戻ってきたら、大久保に記録表を渡された。
「じゃあ、次はよろしくね~」
軽いノリで大久保は幅跳びの位置につく。
「とうっ!」
思いっきり両腕を振ると、大久保は大きく跳躍する。
遠くに着地した大久保は、そのまま軽く足跡を残し砂地から出る。
「2メートル」
巻き尺で距離を図り終えた先生が、大久保が跳んだ距離を言う。
大久保は運動神経がいいようで、さっきからどの項目もかなりいい成績を出している。
もともと俺の運動神経がよくないというのもあると思うが、俺は今のところほとんどの項目で大久保に負けている(握力だけ少しだけだが勝っていた)。
大久保の成績を記録した俺のもとに、大久保がやってきた。
「えへへー」
大久保は笑顔でこっちにVサインを送っている。
何が「えへへー」だ、こいつ。
「えー、次は、上体起こしを行いたいと思います」
先生のだるい声を合図に、それぞれのグループが準備をはじめる。
待てよ。上体起こしっていうことは……。
「上杉く~ん、早くしてよ~」
既に大久保は寝転がって腹筋の姿勢をとっている。
これが心配だったんだよ……。
上体起こしになると、嫌でも大久保と密着しなきゃいけなくなるからな。
そうなると、何をされるか……。
「上杉、どうした? ボーっとしてないで早く始めろ」
先生も急かしてくる。
仕方ないと腹をくくり、俺は大久保の脚を押さえた。
そのとき、俺ははじめて大久保の脚に触れていて、更に大久保を見下ろす形になっていることに気付いた。
「ふふ、上杉君ってば照れてる?」
大久保はニヤニヤしながらこっちを見上げている。
俺はそれには答えず、先生の合図を待つ。
「は、は……」
まずい。また鼻がムズムズしてきた。
「ハクショイッ!」
とっさに大久保の脚を離し、草むらの方にクシャミをした。
あー、やっぱりマスクは忘れちゃいけないな。
「上杉君、あたしにクシャミがかからないようにしてくれたんだね」
え? そりゃそうだろ。
「あたし、ティッシュ持ってるんだ。いる?」
大久保はジャージのズボンのポケットからティッシュを取り出した。
「あ、ありがとよ……」
俺はありがたくポケットティッシュを取って鼻を拭いてから、また上体起こしの姿勢に戻った。
「それではー、始め!」
その号令に合わせて、一斉に上体起こしを始める。
グッと大久保が身体を持ち上げる。
その拍子に、大久保の顔が近づいた。
大久保の犬猫のような眼とアイドルのような顔が、俺の目と鼻の先に迫った。
大久保が体を起こす度に、大久保の髪がふわりと舞い上がる。
その色がまるでグラウンドの隅に咲いていたクローバーの花みたいに見えた。
「6、7、8……」
大久保の声で我に還った。
危ない危ない。カウントを忘れるところだった。
「9、10……」
慌てて大久保に続いてカウントする。
そんな俺の様子を見た大久保が笑顔を浮かべた。
「上杉君、もしかしてあたしに見とれてた?」
そう言って大久保は、スッと俺の背中に両腕を回し、抱きついた。
「うわっ!」
俺は大久保に引っ張られるように前に倒れた。
その拍子に大久保と体が密着する。
「お、おい、大久保、何やってんだ?」
「やだ、上杉君ってばっ」
こんなことしてたら益々誤解されるだろうが!
っていうか、それが狙いだな?
だが、体が密着していて、大久保の柔らかな感触がジャージごしに伝わってくる。
特に、思っていたよりも大きな胸が、俺の胴にムニムニと押し当てられる。
「どう? そろそろ何か思い出してくれた?」
耳元で大久保が小さく囁いた。
その色っぽい声と吐息に、思わずドキッとしてしまう。
「何してるんだ、大久保、上杉」
先生の声が聞こえた。
よく見ると周囲も上体起こしをやめ、こちらに注目している。
「あの野郎、またか!」
「うらやましすぎるぞ上杉!」
だから違うって!
「いつまで密着してるんだ。とっとと上体起こしに戻れ」
「い、いや違うんです。大久保がね……」
先生に首根っこをつかまれ、大久保と引き離された。
周りに今のことを説明したかったが、たぶんこの状態じゃ無理だ。
結局、渋々と身体測定を再開したが、あまり集中できなかった。
そりゃそうだ。大久保のおかげでとんでもない疑惑がかかったんだから。
でも、相変わらず密着したときの大久保の感触が残っていた。
それと「思い出してくれた?」って言ってたのは、やっぱり大久保と前にも会ったことがあるって話のことだろうか?
いや、あいつはいじめっ子だぞ。そんな話、いじめの方便に決まってる。
そんな風に色々あって、大久保から借りたポケットティッシュをジャージに入れたままだったのを忘れていた。