9 なにをよろしくですか?
ゆらりと晃の目の前に人影が映ったように思えて、自分の目をこすった。しかし薄ぼんやりとした人影は消えることがない。
よくよく目を凝らしてみると――――。
「え? 父さん? 母さん?」
いつもと変わらぬ下島家の家庭風景がそこにあったのだ。
「ねぇ、晃が暫く帰ってこないけれどあなた、そろそろ捜索願を出しませんか?」
あ、母さんの声だ。でもなぜだろう。顔がハッキリ見えない。
「晃もいい歳だ。中学生ならまだしも高校生だぞ? もう少し待ってみたらいいんじゃないか?」
「でもあなた、近頃物騒ですし」
いつも父に従順な母が意志を持って抵抗している姿に驚いた。母さんガンバレ! と応援したい。
「まぁ、今でなくていいだろう」
話は終わりと言わんばかりに父が席を離れた。それと入れ替わりに、兄と姉たちがダイニングルームに入ってきた。母は同じことを兄たちに提案している。でも誰一人として賛同する人がいない。どんな表情で受け答えしているのかものすごく気になるけれど、輪郭がぼやけて表情が全然わからない。口の動きと体がハッキリしているぶん、妙な気持ちになる。
「えー? いいんじゃない警察に届けなくっても。第一、父さんがOK出してないでしょ?」
姉はくるくると指先に緩くパーマをあてた毛先を巻きつけながら言い出した。
「まっ、自らいなくなった、ってことは自分から表舞台から身を引きますってことじゃないですか?」
「そうそう。下島の力なんて必要じゃないってことでしょ? あぁみえて晃くん、雑草みたいな心臓持ってるから、どっかでなんとかやってけるでしょ」
パンパン、と乾いた音が響いた。初めて兄たちは母にぶたれたんじゃないだろうか。傍から見ている僕も驚きだ。
「あなたたち、それでも兄弟なのっ!?」
母の悲鳴に近い高い声。こんな悲しい声をあげる人だったろうか。
「兄弟ですけど、晃だけ異質に思えるんですよ」
打たれた頬をさすりながら一番上の兄さんが言っている。
「僕らは野心ばっかりなのに晃くんにはないっていうところ、逆に不思議だよ?」
兄二人のクスッと笑った声が漏れた。……弟の僕がいなくても全然平気で、心配していないこと事態、兄たちの異質さを感じるのは気のせいだろうか。
「あなたたち……」
母の虚しく呟く声。
僕も虚しい。
兄や姉たちにとって僕という存在がどうでもいいと思われているのを突き付けられたようにしか感じ取れない。父にすら心配されない存在。血のつながり、とまで言わないけれど同じ屋根の下で暮らしていたのに、この冷たさはどこからくるのだろう。
「母さん、どうして泣いてるの?」
へなへなと座り込んでしまった母を兄たちは首を下方向にして、不思議そうな声を出している。表情がわからないからなんともいえないけれど、それは母に対してあまりにもな言い方だ。泣いてる人に対しての言葉かけじゃないと思う。喜怒哀楽の哀が父、姉、兄からすっぽり抜け落ちているような……。そう考えると自分の足元から急に、ゾワゾワと冷たいなにかが這い上がってくるような気がして僕は慌てて腕をさすった。
兄や姉、そして父の態度がとてもやるせない気持ちになるけれど、母さんの涙は止めてあげたい。僕が無事帰れれば泣き止んでくれるだろうか。
それに鼻をすする母の背中が思っていたより小さく見える。そんなにこじんまりしていたかな? そっと抱きしめて、僕は大丈夫だよ、と伝えたい。見えている映像に近づけば触れられるだろうか? ふっと手を伸ばすと――――。
〝どこに行ってしまったの? 晃っ。元気でいるの? すごく心配しているの。お願い、元気な声だけでも聞かせて。そして早く帰って来て!〟
声ではない別のものが僕の心に突然響いてきた。母の声? 驚いて前に手を伸ばした腕がストンと降りてしまった。
じっと目を凝らすも母の口元が動いているようには見えない。
〝元気な姿を一目でもいいの。見せてっ。……なにも告げずにいなくなるほど、この家はあなたにとって足枷だったの?〟
足枷?
……そうかもしれない。行き着く先を勝手に決められていたり、周りからの変な期待が重苦しくて。敷かれたレールから周囲に悟られないようにどう外れるか、ばかり考えていたから。そうだね。母さん。下島の家に生まれていなかったらこんな風に思わなかったかもしれないね。でも……それってただ自分の前にある問題から逃げてるだけだったんじゃないかな? って最近よく思うんだ。
知らない世界に来て、全部が思い通りになることなんてなに一つなかったから。
うまくいかないことばかり。
でもそれが当たり前なのかもしれないって、ここマンデルブロ大陸に来て考えさせられたんだ。だから僕は―――――。広げていた手の平をギュウと握りしめ、くり広げられていく日常を見据えた。
早送りで晃がいない生活が流れていく。ふとその流れで晃は気づいたことがあった。
母がポツンと家の中で孤独だということを。
「母さん……」
晃は思わず呟いた。
呟いただけだというのに、晃は涙が止まらなかった。
母さんが家族のなかから外れている姿が痛々しい。僕が始めからいれば悲しい思いを背負わないですむはずだったのに。自分がいなくなって悲しんでくれる人なんていないと思っていたけれど、涙まで流して早く戻ってきてほしい、と願ってくれる人がいるなんて。それが母であるなんて。どうしてか胸が熱くなる。
そして自責の念が溢れて来る。勝手な自己都合で自分のいた世界から逃げ出した浅はかさ。自分のことしか考えていなかった愚かさ。稚拙さ。問題と戦うことができなかった弱さ。
でもそれらに気付けたのはこのマンデルブロ大陸に来たからだと思う。あのまま向こうでずっと暮らしていたら、嫌なことからずっと逃げて逃げて逃げるだけの人生だったはず。人と関わるのも、関わられるのも拒否して殻に籠ってしまっていたかもしれない。
でもそれじゃぁなんにもならない。人とぶつかることで生まれる感情。嫌な思いも良い思いもある日常。初めは戸惑ったけれど――。
もう一度晃は握った拳に力を入れた。
「おぉっと、ちょっと見せすぎてしまったかの」
靄がかった映像をポポリは黒板消しで消すように手の平で慌てて擦った。風圧であっという間に消えてしまい、晃は呆然となった。しかし溢れた涙のわけを晃は自分なりに昇華していた。
「ポポリさん、ミシルさん。あの……僕帰りたいです」
心に湧いた思いを告げたその表情は、いつになく凛々しかった。
「家が恋しくなったか?」
「家が、というわけではありません。僕を思って泣いてくれている母のために帰りたいです」
「ふむふむ。でもじゃな、アキラ、それじゃぁお主が逃げてきた道と対峙しなくてはならんぞ?」
「えーと、なんだったかな。ジュケンとかいうよくわからないものとか」
「兄や姉たちと色々あるかもしれんのぉ」
ミシルとポポリは矢継ぎ早に晃に降りかかるであろうことを畳みかける。
「ここのようにアキラをかまってくれるとは限らないぞ?」
「そうじゃよ? むしろ空気のような扱いになるかもじゃよ?」
「あ、あのお二人ともすごくマイナス思考じゃないですか?」
次から次へと出てくる言葉に晃は眉を寄せながら抗議した。急に二人が饒舌になって、しかもよくない方向ばかり話されているのはなぜだろう。
「戻ったとき、アキラの心が傷ついたときを想定してだな。今から耐性をつけとけば戻ったとき、更なるショックを受けなくてすむだろう?」
ミシルは目をぱっちり見開いて言った。なにが悪いのか? と言わんばかりに。
「あ、あのそれはいらぬお世話で……」
少しくすぐったい気持ちだ。僕のことを少なからず心配してくれているんだろうか? でも気になるのは僕が帰って傷つくこと前提なのがちょっと納得いかないけれど。
「ニヤけたり、ムッツリしてみたり、忙しいのぉアキラ。まぁとりあえず帰りたい気持ちがある、ということはわかった」
「ん?」
晃は首を傾げた。
いま「とりあえず」と言われたような気がする。どういうことだろう? と晃はおそるおそるポポリを見やった。
長く伸びた眉毛と髭で隠れてよく見つけられない瞳が、キラリッと金色に瞬いたように思えて晃に戦慄が走った。なぜかとてつもなく嫌な予感がする。しかも心なしか口角が上がったような? き、気のせいだといいのだけれど……。
「帰りたい気持ちは汲んでおくよ。でもじゃな、そこにでもがくっつくのじゃ」
ポポリは晃の周りをゆっくり回りながら、
「でも王様の命のかけらを割ってしまったという罪からは逃れることはできんのじゃ」
と、はっきりきっぱり晃に聞こえるよう、普段より大きな声で言い放った。
「へ? え? ちょ、ちょっと待ってください。なんで罪? え?」
話が180度変わったように思えて晃は狼狽えた。罪ってどういうことですか?
「王様の命のかけらじゃよ? 王様の命。命を削ってるのにどうして知らん顔できるんじゃ? それとミシルも覚悟するように」
ついでのようにミシルの名前が出て一瞬ハッとした表情になったが、すぐに瞼を伏せ、じっと床を見つめた。
「ミシルは覚悟ができるてるようじゃな。全くおっちょこちょいなのは小さいときから変わらんのぉ」
ふぉふぉふぉっと髭を撫でながら声をあげてポポリは笑った。そしてゆっくりとミシルに近づくと、床に着くほど伸びた豊かな金色の髪を一房手に取り、毛を数本つまんだ。
「それではとりあえず」
そう言うとポポリはつまんだ指先に力を入れて、斜め下にゆっくり引っ張った。
「いだっっ」
目尻に涙を浮かべながら頭頂部をミシルはおさえた。
「二本あれば十分じゃな。そしてワシの髭っと」
言うなりポポリは自分の髭をプチップチッと三本ほど抜いた。
「あとは王様の毛を貰えば粗方完了じゃな」
「あ、あのポポリさん」
晃からついっと出ている自分の名を指摘するべきか、とポポリは思いながら、気にしない素振りで顔を向けた。
「なんじゃ?」
「あの、なにをしているんです? 急に髪の毛とか髭とか抜いて」
むしろいきなりで異様で怖いんですが。と付け加えようと思ったが、晃はぐっと堪えた。
「ん? 儀式じゃよ。よく……そうじゃな、アキラたちの世界にある本にあるじゃろう? 魔女の儀式みたいのが」
「へ?」
口をあんぐり開けて晃はポポリを見るしかできない。
「生き物の血とか骨とか、大釜に入れて茹でたりするじゃろ?」
「え……」
そんなファンシーな本あまり読んだことがありません、とは言いにくい雰囲気であった。
「ワシらの世界にもそういうのがあってのぉ。ワシやミシルのように血、肉、骨以外にも髪の毛一本、髭一本まで魔法力が宿っていてな、長ければ長いほど秘めたる力が含まれているんじゃ」
「はぁ」
ポポリの解説にただただ相槌を打つばかりだ。
「いま抜いた髪の毛と髭と王様の毛を混ぜ合わせての、今回アキラにふりかかる罪を除こうと思ってるんじゃ」
「え?」
思いもよらぬ提案に晃の心は浮き足だった。儀式? みたいのを終わらせれば、いよいよ帰れると思ったのだ。
そんな期待に溢れたにこやかな表情の晃を見て、ミシルは短く湿っぽいため息をついていた。
「ちょうどこの大陸で困ったことがあってのぉ」
「ん?」
晃はポポリの言葉に違和感を感じた。想定していた返しと違う。なにか嫌な予感もしなくないような……。
「一年間だけよろしく頼みたいんじゃ!」
ぽむっと晃の肩にポポリは手を乗せた。眉毛と髭の間から見え隠れしているつぶらな金色の瞳がキラキラと輝いていた―――――。




