9 フミの怒り
静けさに包まれ、味気ない昼の食事を終えてた晃は着替えるために自分の部屋へ戻った。後ろ背にヒマリの声が聞こえたと思い振り返ったが、もうそこには姿がなかった。
空耳が気になりつつ晃が部屋へ戻ると、仁王立ちして待っているフミがいた。
「あ、あの、ど、どうしたんです?」
明らかに怒っている顔つきである。
「自分さえいいのかい?」
「へ?」
開口一番、いわれのない言葉で晃は首を傾げた。
「なっ! そんなしらばっくれた顔してっ!」
顔を真っ赤にさせてさらに激高しはじめた。うわっ、フミさんってちょっといい人って思ったけど、勝手に怒り始めて怖い。いかにしてフミの怒りを鎮めたらいいか晃は算段し始めた。
「おいら、朝、起こされなくて朝メシ食いっぱぐれたんだけどっっ!」
「え? えぇ?」
晃は耳を疑った。朝食を食べれなかった? どういうことだろう? と。
「なんっ? なんだいその驚き方? ……あっ! 晃も寝坊して食べれなかったとかなのかい?」
「え? いや、あの……」
口ごもるとフミはつかつか前へ進んできてぽかり、と晃の頭を軽く叩いた。
「いでっ」
叩かれたところをさすりながらフミを見ると、大きなため息をついていた。いつの間にか怒りで赤くなっていた顔の色がもとの色に戻りつつあった。
「はぁ。なんだいその覇気のない言い方は。ったく、張り合いがないなぁ」
「す、すいません」
「別に謝ってほしいわけじゃないんだ。ただこの部屋の一員なら、俺を起こしてくれってことだよ」
「へ? 言ってる意味がちょっと」
「わかんないって言うのかい?」
こくこくと晃は頷いた。
「はぁぁぁ。あのさ、朝のあのフライパンをガンガン叩く音はうるさいだろ?」
「はい。耳が痛かったです」
「だろ? だからおいらは耳栓使ってるわけ。高性能で外の音を完全シャットダウンしてくれるんだ。だから……」
「え、じゃぁ、あのうるさい音が聞こえていなかったんですか?」
「そういうことっ」
ニカッと白い歯を見せて笑んだ。
「そ、それ僕も欲しいんですけど」
フミはチッチッと舌うちしながら人差し指を口元で左右に振った。
「だめに決まってるだろ? おいらのほうがここで働いてるの長いんだから。そうホイホイ便利道具を新入りに紹介できないなぁ」
そうしてニヤニヤいやらしい笑みを浮かべはじめた。はつらつとしたフミの雰囲気が急に陰ったように晃は感じた。
「でもね、まぁ紹介してやらないわけじゃぁないよ。血も涙もないわけじゃないし。ただしタダってことじゃぁない」
晃は眉間に皺を寄せながら首を傾げた。フミさんの笑顔が怖い。
「百ブロー用意できたら、俺が使ってる耳栓をあげるよ」
「ほんとですか?」
でも百ブローってどのくらいなんだろう。
晃は契約書の内容を思い出した。郵便舎の仕事で十ブロー、宿舎の雑用で五ブロー、一日でもらえるっていうことは、一週間働けばいいっていう計算になるよね? うんそれならいけそうだ!
百ブローを手にするのはたやすいことと思い、晃は嬉しくなった。あのけたたましい音とお別れできる日がそう遠くないことに。
「用意します! だからフミさん、約束守ってくださいね」
「ん? え、あぁ」
思いもがけない返答でフミはたじろきながら頷いた。コイツ、本当に百ブロー用意しようとしてるのか? もしそうだったらちょっと哀れだな。希望に目を輝かせている晃をフミは一瞥した。
「それまでは、俺のことちゃんと朝起こすんだぞ」
先輩風を吹かせてフミは晃に命令すると、二つ返事がすぐに返ってきた。なんだか張り合いがないな、と物足りなさをフミは感じた。
「あぁ、そうだ着替えが終ったら玄関ホールに来てくれって清掃係長が言ってたよ」
「は、はい」
清掃係長? もしかしなくて、雑用って――――、掃除!?
予感的中で、急いで玄関口へ向かうと長いほうきに、バケツを持って待ち構えている人がいた。
「おぉ、きたきた!」
晃の姿を見つけるなり、手招きしているのは白髭を床につくほど伸ばした白髪の老人であった。
「あ、あのフミさんに言われて来た晃といいます」
「ほうほう。よろしゅーな」
眉毛か髪の毛かわかないくらい伸びた間から、つぶらな瞳が覗いた。
「こ、こちらこそ」
「ふむふむ。挨拶はそこそこいい、と。さてアキラくん、まずお主に今日やってほしいのはだね」
よっこらっしょ、と掃除道具を床に置いた。そして老人は人差し指で宙に長四角を描いた。その長四角は透明な板になり、老人の目の前に浮き出てきた。
「この四角形がこの玄関ホール、ここをぐるりと囲んで廊下と各部屋がある。わかるかいの?」
「はい」
老人は簡単な宿舎の図面を長四角の透明な板のようなものにさらさらと筆で書くように描いた。描いた線は墨のような色ではなく白銀で、図を描けば描くほど白銀の線は音を立てて輝いている。
なんて綺麗な音なんだろう。シャラシャラというこの音、とても心地よい。晃はいつまでも耳を澄ませたくなった。
「君に今日やってほしいのは、この玄関ホール、それと各階の廊下、階段の清掃と床磨きをお願いしたいのじゃ」
「は、はい」
じっと耳を傾けていたので、老人に声をかけられ驚いて声がひっくり返った。
「ふぉふぉ。そんなに驚かなくてもいんじゃよ? さてはて、ミシル聞いたのだがお主、文字書きと読むことくらいしかできないとか。本当かの?」
「えぇ、まぁ」
カタカナ、いや、ここではマンデルブロ文字か。お昼を食べる前までたくさん書いたせいで手首や腕が痛くなっていることを思い出した。それと全身の疲労が半端ないことを。あれを毎日こなすって耐えられるのだろうか? 不安が晃を襲った。
「そうかそうか。ちと体力がないとできんことだけど、まぁ限界までやってみんさいね。バケツの中にこの床を綺麗にする特別な液体が入っている。高価だから無駄遣いはしないように。この柄杓ひとすくいで玄関ホール半分は磨けるじゃろう。そしてこれ」
柄杓をはじめ、ミシルと同じようになにもない空間から掃除に関する色々な物がでてきた。ちりとり、雑巾、予備のバケツ。そして極めつけは――――。
「な、なんですか、これ?」
というか、これだけどうして機械物なのだろう。確か大きなショッピングモールやコンビニの清掃時に使っている、アレ! 円形でタワシのようにくるくる回転させてゆっくり床を綺麗にするアレ! なんというのだったかな? くるくる床を掃除するやつ、っていうくらいにしか認識してなかったからなのかもしれないけれど、名前が思い出せない。うんうん唸ってる晃をみて老人はふぉふぉふぉっと髭を撫でながら笑った。
「これはのぉ、ポリッシャーというのだよ」
「ポリッシャー?」
「アキラくんは見たことあると思うのじゃがなー。ふぉふぉふぉっぉ。スイッチは赤いボタン、ストップは青ボタンじゃから、よろしくなぁ。わからないことがあったら大きな声で〝ポポリさーん〟と呼んでーなっ。ほいじゃっ」
片手をあげ、円を二回ほど描くと渦巻く空間が現れた。そしてそこへ髭から吸い込まれ、スポンという音とともに姿を消した。
「えぇ? えぇぇぇ?」
なに、スポンって。音立てて消えたんですけど。困ったときは〝ポポリさんーん〟て呼ばないといけないの? 本当に? 老人が言い残したことや、消えかた一つ一つに晃は驚きが隠せなかった。
「それにしても、ちょっと掃除道具多いんだけど、これ一人で運ぶんだよね?」
思わず独り言ちてしまう。両手を酷使しないといっぺんに運べない量で、晃は肩をがっくり落とした。そのとき昼過ぎの作業に取り掛かる鐘が宿舎中に響いたと思うや否や、どっとたくさんの人が玄関ホールに向かってきた。
◆フミへ100ブロー用意する◆
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『契約書』
■マンデルブロ大陸、特別区内ウルサの町の郵便舎で仕分け作業に従ずる
・作業時間…朝七時~昼十二時
・一日の給金…十ブロー
■マンデルブロ大陸特別区内宿舎にて下働きに従ずる
・作業時間…昼一時~夕方五時
・一日の給金…五ブロー
一日で得られる給金=15ブロー




