2 出発
もし翼が生えたなら
僕はどこに行こう
外国? 行ったことのない日本のどこか? 無人島?
それとも
この地球には存在しない別の世界?
……馬鹿げている。別の世界なんて行けっこない。
◇ ◆ ◇ ◆
「バカバカしい」
空想を振り払うように頭を振った。この現実という世界から逃げ出せることなんてできないのに。
「バカバカしくないよ?」
「は?」
あり得ない。視線の先に……明らかに浮遊している物体がいた。そう、浮遊した……。は? 僕はもう一度まじまじと見つめた。
それは――、もこもこした熊のぬいぐるみ、いやこげ茶色の熊の着ぐるみだった。完全な着ぐるみではなく、ご丁寧に顔の部分だけ人間の顔を覗かせている。額には真っ直ぐ切りそろえられた熊の毛色と同じこげ茶色の前髪が見える。
「びっくりした? びっくりした?」
僕が苦手なかん高いアニメ声でその熊の着ぐるみの人が聞いてきた。声の高さからして女の子?
いや、これは夢だ。さっき変なことを考えていたからその延長線なんだ。きっとそうだ。
「えー。失礼しちゃうなぁ。君が別の世界に行ってみたい、って願ってくれたからお迎えにきたんだけどなぁ」
頬を膨らませながら着ぐるみの人は、ぼ、僕の隣に膝を抱えて座り込んだ。もあ、っと着ぐるみから温かい空気が漂っているのがわかるほど隣だ。こんなの着て熱くないのだろうか?
「それはそうと、別の世界に行ってみたい、って願ってくれてありがとうね。しばらくそういう人いなかったから助かったよぉ。最近の子? っていうの? 創造性があまりなくてさぁ、辛くなったら死んじゃおう、とか外の国に行けばいいとか、結構安直で」
ペラペラと話だした。夢でこんなにハッキリと話すことを認識できるんだろうか?
「だからねぇ、夢じゃないってば。現実だよ? 私はね、マンデルブロ大陸からの使者なんだ」
一気に胡散臭い話になって僕は立ち上がった。
「バカバカしい。そんな大陸、なんかの小説での話だろ? からかわないでくれる? 貴重な時間、勝手にずかずか邪魔して」
「お邪魔しちゃったのはごめんなさいだね。でも私は君の願いを聞き届けようと思ってこの世界に来ただけなんだよ……」
尻すぼみしていく言葉を後ろ背に僕はその場を立ち去った。いや、正確には立ち去ろうとした、と言うべきだろうか。普通に裏庭を抜けようとしただけなのに、なぜか抜け出すことができない。見えない透明な壁に阻まれているような……、そんな感じ。あと数歩前に進めば裏庭から出れるというのに。
「ごめんね。逃したくないからちょっとこのへんの空間、閉鎖しちゃった」
てへへ、と笑いながら音もなく僕の横に立って……、浮いていた。
「空間を閉鎖?」
気になる言葉だったので思わず聞き返してしまった。
「うん。まぁ白状しちゃうと、私結構切羽詰まってるんだ。マンデルブロにいつまでも”雪かきさん”が現れなくて。だから少しでもここではない別の世界に行ってみたいって、例え小さな思いでもすがるしかなくて。あ、意味わかるかな?」
「いいえ」
即答した。そもそもマンデルブロとかいう場所がわからないし、この着ぐるみの女の子の焦りも全然わからない。
「困ったなあ。あんまり詳しくは説明できないからなぁ。うーん」
「いや、別に説明は求めてませんから。とりあえず僕をこの閉鎖された空間? というのですか? ここからとにかく解放してください。授業ありますんで」
「授業大事?」
聞き返された言葉に、僕の心が跳ねた。見透かされたと思った。
「透けてるよ? 君の考え」
「は?」
「私たち使者の特別な能力なんだよ。 人の想いがわかっちゃうんだなぁ」
口元を覆いながら肩を震わせながら笑っている。……怖い。っていうか、使者ってなんだ?
「使者の意味も秘密。さてさてこんな押し問答時間の無駄だからもう二者択一でお願いね?」
かなり強引に話をもってかれたような気がしなくもないが……。
「それでは選んでください。私と一緒にマンデルブロに行って、マンデルブロの”雪かきさん”になるか、この不満だらけな世界だけ見て、自分自身を憐れんで生きていくか、どっちがいいでしょーか?」
笑っていた表情は消え、口元も目元も急に引き締まったように僕には見えた。
「いや、そもそもその質問おかしいんじゃ……」
「反論、異論、質問も受け付けないよ。さぁ、どっち?」
さぁ、どっちって……。どっちもナシ、という選択はできないのだろうか。
「だめ。そんなのはダメ」
心を見透かすことができる、というのは信じていいかもしれない。ことごとく言い当てられてしまっているから。
「と、いうことで、さぁさぁ」
ずずい、と僕の顔に着ぐるみの人の顔が近づいてきて催促された。
正直どっちでもいい。どっちに転んだって失うものは失うんだろうし、得るものは得られるんだろうし。
「うん、どっちでもいいんだったら、私が決めちゃうね」
「それじゃ、お任せします」
「うんうん。って、主体性ないなぁ。ま、いっか。それじゃぁ、マンデルブロに行こう!」
にっこり微笑みながらすっと手を僕に伸ばしてきた。ほっぺをピンク色に染めて愛らしい。もしかすると僕が考えているより幼い子なのかもしれない、とふと思った。
「マンデルブロに行ったら、ここじゃ味わえない体験が待ってるからね。いい? 私の手を離さないでよ? 離したら君の命やその他ものもの、保証できないからね」
「はいはい」
二つ返事をして僕は着ぐるみのもふもふした手に自分の手を重ねた。一見ひ弱そうなイメージなのに力強く握り返された。
「いい? 絶対に離さないでよ? なにがあっても」
「え、あ、ちょ、ちょっと」
僕の返事を待つ前に着ぐるみの女の子は、僕たちの頭上に突如現れたぽっかりと丸く浮かんだ紫色の空間に引っ張り上げた。
「うぅ。人間って重いぃぃ」
片手で掴んでいた僕の手を、両手で支えなおした。あと数秒遅かったら僕は完全に手を離して、下に叩きつけられていたかもしれない。
「さぁ、それじゃマンデルブロにしゅっぱぁぁぁーつ」
元気のいい声が頭上でしたかと思うと一気に僕の体が軽くなり、紫色の空間のうねりの中に吸い込まれる感覚がした。その直後、体が圧迫され、息苦しくなった。かと思うと口から鼻から、思いっきり空気入れで空気を入れられたかのように、体が弾けるくらいパンパンになったような気もした。
圧縮と膨張を繰り返されているような、そんな感じ。
何度繰り返された頃だろう?
もう数えることが困難で、僕の意識はそこで途切れてしまった―――。