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9 何事も経験

「いやぁぁ、仕事あとのひとっ風呂は格別だねぇ」


 体から湯気を出しながらフミは部屋に戻ってきた。そしておののいた。同室のアキラ、という新入りがベッドの上で膝を抱えて、暗い雰囲気を漂わせていたからだ。うわー、なんか根暗な奴と一緒になっちまったのか? やだなぁ。やりづらいなぁ。フミは刺激しないようにそっと階段を登ろうとしたが、ギシと軋ませた音を鳴らしてしまった。


「あ、フミさんっ!」


「フ、フミさんっ?」


 目ん玉剥きそうだ。なんだ? フミさんって。今まで呼ばれたことない呼び方して。気色悪い。げんなりした顔で晃を見やった。


「あの、やっぱり僕お風呂行きたいです。どこにあるか教えてもらえませんか?」


「……部屋出て左、しばらく行って右。そしたら左左右って曲がれば着くよ」


「左、右、左左右、ですね?」


 パッと顔を輝かせて晃はフミに確認した。


「あ、あぁそうだけど、初めはって、ちょっと、おい!」


フミが呼び止めるのも聞かずに晃は部屋を飛び出した。


「アイツ大丈夫かな? しばらく行って右っていうのがわかんないと思うんだけどなぁ。左行ったあと、すぐ曲がっちゃったら女湯にぶち当たっちゃうんだけどなぁ。まっ、何事も経験だよな、経験。失敗して学ぶしかないかねぇ」


 フミは晃の身を案じながら、階段をのんびりと登った。


 一方、部屋を飛び出した晃はフミの予感通り、女湯の脱衣所に踏み込んでいた。

 晃も中にいた女性たちも一瞬静止し、互いに目をぱちくりさせた。そのあとすぐに甲高い叫び声が響き渡り、遠慮なく色んなものが晃めがけて飛んできた。避ける暇もなくなにか固い物が頭に直撃し、晃は気を失った。



◆ ◇ ◆


「お宅の坊ちゃん、お兄さんお姉さんに続いて医学部に進むのでしょう?」


 あぁ、近所のおばさん、僕の将来を勝手に思い描かないでください。


「晃、将来は兄さんたちと一緒にうちの病院を大きくしてくれよな」


 父さん、それは父さんの希望で野望だよね? 僕は……僕の意見を聞いてください。


「晃? この成績はなに? 受験を控えて結果が出てないってどういうこと?」


 母さん、そんなに目くじら立てないでよ。皴が増えちゃうし、また血圧の薬出されちゃうよ?


「ふっ。お前が俺と同じ大学に行くだって? 親父とお袋はどこに目をつけてんだろうね。お前には無理な話だよな?」


 えぇ。僕もそう思っています。兄さんのように野心があるわけでも、人を病気から救いたいなんて崇高な思いなんてもってないんだから。


「晃、父さんと母さんの言いなりになってていいの? ハッキリ言わないとあの人たちわからないわよ?」


 姉さん、気付いてるならもっと僕の背中を押してください。僕一人ではあの二人に太刀打ちができないんです。


「反発? だめよ。あの二人の敷いたレールから外れるってことは、それなりの代償を払わないと。私は、逆にあの二人に感謝してるわよ」


 怖いんだ。虫けらを見るような視線が。

 今まであった自分を否定されそうで。

 心の中は反骨精神でも表面上、素直に従ってるさまを貼り付けて。それは卑怯だ、って罵られたっていい。人に背中をぐいっと押されるのを待っているなんて無様でズルいんだってわかってるけれど。踏み出せない、この一歩。


「踏み出してしまえばいいのだよ。だってほら、君は迷いこんで、こんなにも……」


 甘い囁きが耳を掠めたような……?


 そ、それになんだろう。これは。ぼ、僕の目がおかしいのだろうか? は、は、裸の女の人が地面からニョキニョキ浮き上がってくるんですけど! なんだこれっ?


「異世界の男はやはり変態だな」


 変態? 誰が? 


「純朴そうな顔をしてるのに。全く困った奴だ」


「そもそもおいらの説明がきちんとしてなかったからですから、どうかここは穏便に」


「うーん。穏便にはちょっと難しいぞ? 女達からもの凄い抗議がきているし。だからだな……」


 声がする。誰だろう。晃はゆっくりと瞼を押し開けた。


「うあっ」


 まず目に飛び込んできたのは、豊かな胸元で晃は驚いて飛び起きた。


「ようやく起きたか。ふぅ。大事ないみたいでなによりだ」


 晃の顔を上半身乗り出して見つめていた宿舎長ミシルはほっとしたのか、椅子にゆっくりと腰かけた。座った仕草でふるっと胸が揺れるのを思わず晃は目で追っていた。


「あ、あの、一体僕はどうしたんでしょうか?」


「覚えてないのかい?」


 フミは驚いた声をあげた。


「え? なにを?」


「おいらの説明が悪かったのか……ちょっとトラブルが、な……」


 フミが言いかけたとき、部屋のドアがいてタキシードを着た女性が入ってきて言葉が遮られた。


「宿舎長、夕食の準備が整いました」


 一礼し、踵を返した。


「ふむ。とりあえず夕食を食べ終わってからだな。詳細はフミ、お前が説明してあげなさい」


「は、はい」


 身から出た錆ってやつか。宿舎長に言われちゃ、しょうがないか。フミは小さなため息をつきながら首を縦に振った。


「それじゃ、アキラ食堂に行こう」


「え? あ、はい」


 事態が呑み込めないまま晃はフミに促されて食堂に向かった。その様子を見送りながらミシルはニヤついていた。


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