4 契約書
一人取り残された晃は、ゆっくりと中へ進んだ。
開けた玄関ホールは吹き抜けになっており、天窓から温かい陽の光が降り注いでいる。人の気配が感じ取れなく晃は不安になった。
「君が異世界から来たとかいう少年かね?」
突如、後方から声がして晃はぎょとしながら振り返った。そこには豊満な胸をあますことなく魅せつけるタイトな黒いロングドレスを着た女性が立っていたのだ。デコルテ部分に粉をはたいており、キラキラと肌が光っている。それだけでも目をひくというのに、更に胸元に視線が集まるように、小指の爪くらいの滴型を逆三角形に敷き詰めたネックレスを身につけている。その輝きを邪魔しないように金色の髪は結いあげて、耳より高い位置で団子状にまとめていた。
「どこを見てるんだ?」
「あ、いえ、あの別に」
胸がふくよかすぎて晃は凝視していたが、指摘されて慌てて視線を外した。
「君の魔法は……」
どこから取り出したのか、右手に虫眼鏡のようなものを手にし、自分の目にあてると晃をじっとそこから見つめた。
「ん? んん? んー?」
虫眼鏡らしきものを遠ざけたり近づけたりしながら見直したあと、暫く無言になった。
「ふむ。稀だ……な。君にはなにもないらしいね」
「え?」
言われている意味がわからない晃を横目で見ながら、ロングドレスの女性は語り出した。
虫眼鏡のようなものは、魔法力を計るスコープらしく、今僕の魔法がどんな種類か調べていたらしい。だけれども、その結果なにも写さなかったというのだ。それはどういうことですか? と訊くと素気なく「わからない」と返されてしまった。
「まぁ、ここの掃除や洗濯くらいできるだろう?」
「え?」
「衣食住は心配しなくて大丈夫だぞ? あと、いつ使うかわからないが給金も出そう。ということでまずは契約書にサインしてほしい」
「え? えぇ??」
女性はそう言うと右手の人差し指で小さく円を描くと筒状の紙らしきものと、羽根つきペンをなにもない空間から浮かび上がらせた。
「え? あ、あの、もしかしなくとも手品の類じゃないですよね?」
「手品? なんのことだ? ただの魔法だぞ?」
「魔法」
晃は口に改めて出して、自分のおかれている状況をかみしめた。
「ここにいると色んな魔法が見れると思うぞ。そのへんの一般市民とは違う高度な技術を持つ者もいるからな。例えば私、とかな」
ふふん、と鼻を鳴らしながら胸を反らして自慢げに言った。反らした際に、たゆんと胸が揺れるのを晃は見逃さずにはいられなかった。
「さぁさぁ、とりあえずサインを」
手を触れずに、丸まっていた紙をゆるゆると伸ばし、羽根つきペンを晃の目の前に移動させた。
紙には漢字と平仮名とカタカナを使った文章が記されていた。
『契約書』
■マンデルブロ大陸、特別区内宿舎にて下働きに従ずる
・作業時間…朝六時~夜八時
・休憩時間…昼休み一時間(食事含む)、お茶休み一時間
・朝食・夕食時間…各三十分
・一日の給金…十ブロー
晃がその文面をスラスラと読み始めたので、女性は驚いた。
「その文をなんなく読めるのか?」
「あ、はい」
「ふむ」
腕を組んで考え込んだ。胸元で組んでいるので胸がドレスからこぼれ落ちそうになっている。そんな姿に晃は目を奪われてたが、急いで首を横に振って目に焼き付いた姿を打ち消した。
「……そうだな。昼までは郵便の仕分け作業に入ってもらう。人手が少なくなっていたところだからな。午後は宿舎の細々した仕事を頼みたい」
そう言うなり、晃の目の前で契約書の内容が次々と変わっていった。記されていた文字が紙から剥がれ、うねって踊りながら新しい文字に変わっていくのだ。
「ではもう一度契約書を読んでほしい」
「あ、はい」
『契約書』
■マンデルブロ大陸、特別区内ウルサの町の郵便舎で仕分け作業に従ずる
・作業時間…朝七時~昼十二時
・一日の給金…十ブロー
■マンデルブロ大陸特別区内宿舎にて下働きに従ずる
・作業時間…昼一時~夕方五時
・一日の給金…五ブロー
以上のことをここに誓う。
※尚契約期間はサインを記した翌日から無期限で有効
「え? あ、あの無期限ってなんですか?」
「そのままの通りだが。なにか?」
「ほかに行くあてもあるまい? それともなにか? アミにでも惚れたのか? あの子の家に帰りたいのか?」
「へ?」
「やめたほうがいいぞ。あの子は」
「え? どうしてです?」
「二十歳も過ぎれば、大概結婚するのだけどな……。あの子はとうに二十歳を過ぎているし……。まぁ君はアミに惚れてる、っていうわけではないのだろう?」
「え、あ、まぁはい」
親切にしてくれていい人だなっては思ってるくらいだから、好きとかなんとかっていう感情はないけれど。あの容姿ですでに二十歳を超えてるの? 僕より二、三歳離れてるくらいかと思ったのに。それにこの女のひとが言うように僕には戻る場所がない。
「なら気にすることはない。さぁさぁサインを」
ずずいと晃の目と鼻の先に契約書を突き付けた。言われるがままペンを握ってサインをしようと紙にペン先を近づけた。
でも本当にサインしていいのだろうか? おかしな仕掛けがあるとか、なにか重要なことを隠しているとかないのだろうか? ふと晃に迷いが生じた。
「君はここでの生活を、この特別区で学んだらいい。とくに郵便の仕分けは助かるよ。アミにも会えるんだ。いい条件だと思うんだが」
甘く囁く声が晃の頭に語りかけてくる。アミの名前を出されるのと同時に晃は警戒していた硬い心がふんわりと和らいでいったのがわかった。
アミさんに会える――――。頭の中で反芻すると、あっという間に迷いは消え、晃はペンを強く握りサインをしていた。




