モアレ2/4
通話が終わったインカムを、数台の携帯端末が散らかったテーブルに投げ捨て、脇に置いてあった煙草にそそくさと火をつける。
激安ビジネスホテルの小さな窓を開け、ベランダと呼ぶには若干厳しい飾りのような小さな出っ張りから身を乗り出した武夫は、これまた中庭と呼ぶには若干小さく思える何もないスペースに純白な雪が積もる様をみつめながら、冷たい空気に生ぬるい紫煙を吐き出した。
気温差の為、画面を白く曇らせる携帯端末のうちの一台は画面が粉々に割れ、黒く凍える雪の結晶のようになってしまっている。見た目以上に内部もやられているようで、全く使えないのは既に確認済みだった。形をキープしているだけでも根性があると思われる状況だが、これは武夫にとって、ただの仕事用のダミーでしかなく、中に入っているアドレス帳も履歴も、そして家族の写真さえも偽物だった。だから問題は全くない。
多分先程の戦闘の際、避けたつもりの攻撃の余波でも当たってしまったのだろうと思おうにも、現地の被害者と同様に狙い打ちされたかの様な、対象と傷痕にさすがに図太い武夫も、もはや苦笑しか浮かばない。
七瀬からの特殊で安全で孤立した回線、というか端境に似た情報伝達での通話を切った後、灰皿を片手に武夫はくわえた煙草を先ほどの内容とともに深々と吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
昨今の禁煙のご時世。武夫も多分に漏れず、煙草はとっくの昔に卒業済みだ。けれど、時折どうしようもなく吸いたくなる夜がある。
こういう時の為に、学生の二人からは離れた階にはなったが、少々臭い喫煙ルームを予約していて良かったと思う。
「私にも一本おくれ?」
いつからここにいたのか。
後ろからの気配一つ感じさせず近づいてきた人物……と言って良いのか微妙な存在の声に、驚きどころか、そろそろ慣れさえ感じ始めた自分に少し嫌気を感じつつ、武夫は窓枠に置いた箱を掴みトントンッと軽く揺らし煙草を数本飛び出させ差し出した。
「どぞ。神使様って意外に暇なんですか?」
「ありがとう。火もくれるかい?」
たずねた武夫の言葉なんて答える気もないのだろう。唇にフィルターを軽く当てたその人……いや神使様……いや様は要らんだろう……神使は続けて火を御所望された。
「火なんか自分の指先からでもつければいいでしょう?」
武夫達より更に神様の域に近い存在だ、それくらい朝飯前、というか一服前の一仕事にさえならないだろう。面倒くさそうに、いや実際面倒くさいのだが、武夫が嫌々答えるとかの方はニコリと美しく微笑み、
「いや、その銀色の火打石……ではなく、ライターからの火が一番美味しい気がしてね」
と煙草吸いなら一度はこだわってしまうであろう事を口にした。ちなみに武夫は一手間かかるもののマッチの火が一番好きだ。
「随分俗世に染まった神使様ですねぇ」
嫌味たっぷりの言葉とともに窓枠に投げ置いたままだったライターに手を伸ばし、武夫が両手で火をつけて差し出すと
「私はあまり普通の人間と変わらぬ。それに、俗世を知らねば鏡姫様の御付きではおれぬからな」
とかの方はフゥーッと紫煙を吐き出し、また銘柄を変えたのか?と付け足してニヤリと人間ぽく笑ってみせる。
「あー、そんな雑学、知りたくなかった。で、なんですか?」
姫神様ほどてはなくとも、人前には余り現れる事はないと言われる姫神直属の九人の神使達。武夫の目の前で紫煙を吐き出すのはそう伝え聞く神使の中、代変わりが直前と噂される、武夫が使える鏡姫の三人の神使のうちの一人、睦月だ。
武夫達だって神使の下部なのだから姫神様との契約の際、一度は直属となる神使様の一人には必ずお会いするわけで全く面識が無いわけではない方々だし、センターにはその存在意義から時々予告なく突然現れることもあるらしい。だが、普通はここまで人前には現れない筈だし、定説通りあまり現れて欲しくないと武夫は切に願う。
知りたくない、関わりたくないを全面に押し出す武夫に、けれど直属の人ならざる上司は容赦ない。
「お主、わかっておるだろう?」
言われた言葉に、とっさとはいえ武夫の煙草を摘まむ指先が微かに震えてしまう。
どこまで興味を持たれてしまったのか。いや、それどころか武夫が知らない全てを睦月は知っているのだろう。
「……いいえ。さっきの七瀬ちゃんからの連絡でやっと直視できた所ですよ」
手に持った灰皿にポトリと灰が落ちるのをみつめながら、武夫は視線を上げることなくそう答えた。
「戯言を。お前は自分が思っておるより何倍も優しく、そしてそれ以上に何十倍も割り切って考え動ける稀有な存在だからのぉ」
先程の七瀬との通話の前に武夫がまとめかけた報告書を何処からか取りだし、片手に持ってニヤリと笑って見せる睦月の姿に武夫は頭痛を覚えた。
「こんなの優しさなんかじゃないですよ。しかも、割り切ってとか、それ誉め言葉じゃないし。……仕方ないじゃないですか……いえ、多分そうだろうな、とは思ってましたけど」
あー、やってらんねーと前髪をかきあげ、武夫はまだ勿体ないなと思いつつも、三分の二しか吸っていない煙草の火を灰皿に押し付け消すと、その手から下書きの報告書を奪い取り、テーブルの上のビジネスバッグに捻り込んだ。
「お主は本当に面白い男だ。色々とところ構わず手足も突っ込んでおる様だし、そのお陰か、かの時が近しい予兆も窺える。鏡姫様との願い、お主が一番手早く叶えるか?」
武夫が少し肩を揺らしてしまう位には衝撃的な呟きとともに、クックッと笑いながら優雅に煙草を吸い続ける姿は、黒いシャツにグレーのスラックスという、ありきたりの俗世の人そのままなのに、優美でならない。
今現在、多分強制的に依り代とされている純然たる人間の青年は二十代前半とは思えぬ中性的な顔立ちの青年と見受けられる。そこに、睦月本人曰く、元々えげつない程に整った顔立ちらしい睦月が入ることで更に人間離れしてしまっている、らしい。悔しいが同じ男なのに熟した大人の女性の様な艶さえ感じてしまう。
「それ、前から気になってたんですけど、今までに叶えた人間っているんですか?」
武夫も交わした姫神との、その神使の下部になる契約は、願う者の存在をもって、まずは仮初めの願いを叶える。願いの完全な成就は姫神から提示された条件を願う者が満たし、願う者の存在が消えてはじめて叶うものだ。いや、条件が満たされるから願うものの存在が消えるというのが正しいのかもしれない。
まぁどっちにしろ、叶ったところで、願う者は霧になって存在自体をこの世界から忘れ去られるのだから、どうにもならないほどグズで救いようのない救いの手段だ。だから途中で目移りしてしまう馬鹿が多い。とても多い。笑える位に多い。
「確かにいたよ。周りの全てを犠牲にして、だがな。まあ、大抵は叶う前に二つ目の願いにその身を沈めているが」
<周りの全てを犠牲にして>
その言葉に武夫は、新しい煙草を一本取り出すと火を付け、深々と息とともに
「あー、救われねぇ」
と素直な感情を露呈させた。
「だよのぉ。人間とは本当に愚かで儚くて美しい」
武夫とともに降り積もる雪を見つめ、そんな人々を自身の部下として持つ睦月は感慨深く笑ってみせた。
「愚かはわかるけど、儚くて、しかも美しい?」
どこがだよ?そう訊ねる武夫に
「惑う姿は愚かで、その在り方は儚くて、真っ直ぐに願う姿は美しい」
と睦月は悦に入った表情さえ見せ紫煙を吐き出す。
「その美的感覚わかんねーわ。どう考えても分不相応かつ図々しくて意地汚ねぇだけじゃん」
思わず武夫が口にした本音は同年代の友人向けレベルで随分口汚い。本来、目の前の存在には許されない口調だが、今は互いに非公式な対面だ。大体、人前にちょくちょく神使様が現れるなんていうのがおかしいのだ。
自分たち以外の気配がないことを良いことに、だんだん本音がダダ漏れる武夫に睦月はまるでイタズラを誘う子供の様な笑顔でニヤリと笑って、口を開けた。
「お主、今宵は一段と酔っとるな?私にも「はいはい、そんな気がしてご用意しておりますよ!」」
「気が利くな」
面倒くさそうに言葉を重ねた武夫がベッドの上に投げ出したままだったコンビニの袋を指差せば、目の前の神使様はうんうんと一人頷きながら、その麗しい姿にはまったくもって似つかわしくない事だが、そそくさとベッドの上に胡坐をかいて白いビニール袋の中をガサゴソと探り始めた。
酒は好きだか強くはない武夫が、わざわざ夕食の後、ホテルに向かう道すがらのコンビニで、少女達に白い目で見られつつビールやら日本酒やら瓶入りのアルコールやそれを割るソフトドリンクを山ほどを買ってきたなんて、睦月の来訪を予期しなければあり得ない事だ。それは飲み友達の孝典が誘いの連絡を入れてくる直前の予感というか直感によく似ている感覚だ。
「あっ、そだ。手ぇ出さないでくださいね。あんたが係わると余計にややこしくなる」
「随分な言い様じゃな。……今は出さないよ。しかし状況は移ろうものだ。確約は出来ぬ」
ニヤリと笑い、恐ろしい事を酒の肴に盃を傾ける孝典の姿が目の前の睦月にも重なる。
「あー、俺ってろくな飲み友達しか居ねーな、おい」
武夫は誰に言うでもなく、吐き出した紫煙の中、音もなく舞い落ちる雪を見つめつつ、強くもない酒を煽った。
*****
「ねみー」
頭を一斗缶にいられて、ガンガン周りから叩かれているような激しい頭痛と、胸の奥底から沸き上がる水以外は拒絶する不快感。ついでに髪の毛とシャツに染み付いた、一晩経った煙草とアルコールと加齢臭のミックスした独特の臭い匂い。と、いう最悪の三つ巴の中、武夫は少し柔らかすぎるベッドの中、目覚めざるおえなかった。
姿も気配も既にない昨夜の来訪者は、武夫が缶ビール一本で酔い潰れた後も飲み続けていたのだろう。霞がかる記憶の中、あり得ないスピードで消費されつつも半分は残っていた筈のアルコールと呼ばれる缶も瓶も全てが空っぽだ。ついでにいうと、昨夜買ったばかりのあまり好きではなかった銘柄の煙草も一本も残されていない。静かな時の中、気持ち程度のホテルの小さなテーブルの上、飲み散らかされた跡と吸殻が積まれた灰皿だけが残されている。
あと半時もすれば日が射し込むであろう。換気の為開けた窓の外はまだ薄暗く凛とした冷たい空気が流れ込む。
「片付けていけよー……って流石に神使様に下界の、しかも飲みの片付けとかやらせれねーやな」
いそいそと昨夜の痕跡を手慣れた手つきで片付けた武夫は、ブルッと体を震わせ窓を閉めると、静かにイルミネーションを点していた携帯に手を伸ばした。届いていたメールに軽く目を通し、判断力は落ちていない筈の頭を一回激しく振ったあとメールを削除した武夫は、シャワーを浴び、昨日よりは若干くたびれた感もあるが、ありきたりな休日の家族サービス中のサラリーマンを装う。
そして、本当は今一番行きたくはない場所だが、昨夜、少女達と待ち合わせを約束したホテルのレストランスペースへと足を向けた。
「武夫さんは朝は食べない方なんですか?」
心配そうに武夫の顔色を向かいの席に座る柚希がのぞきこんできた。
無料サービスの朝食バイキングでかろうじて武夫が手を伸ばしたのは簡単なサラダの盛合せとコーヒーだけだ。食べられる気がしないサラダを睨み付けながらフォークを一向に動かさない武夫を心配してくれたのだろう。ちなみに彼女の前には彩りよく綺麗に盛り付けられたバランスの良さそうな洋風の朝食が半分程手を付けられた状態で置かれている。
一番賑やかな時間帯なのか、湯気を上げた料理が次々バイキングコーナーに追加され、空いたテーブルは次々と埋まっていく。最近のビジネスホテルは観光での国内外の利用客も多く年頃の少女を二人連れた武夫達も目立つ事はない。
「おう」
答えた武夫に柚希の隣、きっちり和食風の盛り付けをしたトレーを美しい箸使いで片付けていた綺羅が、その箸の動きを止め呆れた表情で口を開ける。
「柚希は気にしなくてもいいわよ。どーせ、飲み過ぎで二日酔いでしょ?あんだけ一人で飲めばこんくらいで済むのが不思議なくらいよ。しかも仕事の出張先のホテルでとか常識疑う」
高校生には言われたくないなーと思いつつも、多少というか、ほぼ当たっている綺羅の言葉に武夫は言い返す事もできない。
「ひでー言い方だな。接待とか予想しねーの?」
思わず素で子供の知らない大人の世界を武夫が提示してみれば
「ビジネスホテルの個室で接待とかありえないし」
と、綺羅は取り繕う暇さえ与えず、新たに追加された料理に欲しいものでもあったのか、立ち上がってバイキングコーナーへと向かった。
「デスヨネー」
余りの綺羅の正論と頭痛の酷さに武夫は視線を、ホテルの窓の外、遠くに飛ばした。
二階にあるレストランの小ぶりなテラスの手すりには昨日降り積もった雪が朝日にキラキラと煌めき、その上を痩せ細った雀が二羽遊ぶ姿が見える。武夫がその動きを目で追っていると、斜め向かいから一呼吸聞こえ、少しの沈黙の後
「綺羅ちゃんも口だけで、本当は凄く武夫さんを心配してるんですよ?でも、飲み過ぎはいただけませんね」
何か気がかりなことでもあったんですか?
と柚希が少し背伸びした優しい口調で笑ってみせた。
「オジサン、お酒は弱いから本当に缶ビール一本しか飲んでないんだけどな」
ポリポリと頭を掻きつつ武夫が微笑む柚希に、ここだけの話しだぞ?とそっと真実を小声で伝える。
すると優しい笑顔の柚希が少し真面目な顔を一瞬みせて、珍しくかなり優しくないツッコミをいれてきた。
「あんなに買っておいて?」
「そそ、あんなに買っておいて」
めげずに武夫が苦笑をのせ柚希の言葉そのままに返すと
「どこに消えちゃったんですか?」
あれだけのお酒を?と柚希は堪えきれない様子で真面目そうな表情を崩し、クスクス笑いだした。
一応飲んだ犯人は姫神様の関係者だ。奴が消したと言っても言い過ぎにはならないはずだった。色々考えあぐねて、
「んー。そうだなー。御神酒みたいなもん?」
と、言葉を多少濁し武夫が伝えれば
「また、随分な言い訳ですね」
と柚希も暗に武夫だって姫神様の関係者だろうと無理やり笑いを抑えつつ神妙な顔を作って見せる。
「やっぱり言い訳に聞こえる?」
「はい」
デスヨネーと再び困った表情を見せる武夫に柚希は、更なる笑いを堪えられないと、年相応の明るい笑顔で屈託なく笑った。
武夫の大切な上の娘も後数年で目の前の少女とさしてかわらない年頃となる。
武夫が初めて会った時の柚希はいつも泣いていた。
泣きながら周りも妬み呪い不幸に引き摺り込もうとしていた。
それが、こんな風に笑えるようになった。そんな人生をやり直している。
そのさまは不幸の雪原に射し込む優しい日の光に似ていると武夫は思う。少しづつでもその不幸が溶かされていけばいいのにと思う半面、溶けた雪が見えないところで冷やされ再び凍る恐ろしさからも目を反らすことは出来ない。
だから武夫も屈託ない笑顔とは言えないが、大人が最大限与えられる優しく笑みを見せ共に笑った。
「昨日は急な事で部屋の確保が間に合わず、二人同室になって申し訳なかったね。しかし……また、ずいぶんと綺羅ちゃんと仲良くなったようだね」
昨夜の現場の余りの穢れに武夫達は急遽、予想外の凪を考慮し、綺羅も柚希と同じホテルに泊まらせることにした。監視はもちろん、何か起きても対処はしやすい。
しかし運悪く悪天候でホテルは満室。追加の部屋が取れなかったため、柚希の為に押さえていた二人部屋を二人で使ってもらうことにしたのだ。
「いえいえ。私達、年も近かったですし、昨夜は二人色々な話で盛り上がって楽しかったんですよ」
「ほおう。どんなことを話したの?」
ニコニコと笑う柚希に武夫はのたうち回りたい頭痛をおして笑顔で訊ねた。
「普通の女子トークですよ。ほら、学校のことや……」
「うんうん。他には?」
「恋の話……とか?」
昨夜、何を話したのか思い出したのか、柚希が恋する乙女そのままに頬を染め口ごもる。
「うんうん。いいねぇ。へぇー。恋の話かー。柚希ちゃんも好きな人とかいるの?同じ大学生とか?……あ、オジサンとかどうよ?」
「どうなんでしょうね?」
対象はおおよそ想定済みだが、あえてそこに武夫は踏み込んで反応を確かめれば、流石、年頃の少女、表情には色々現れるが容易には本音を口にしない。
「私達が好きな人はねー。めちゃくちゃ格好よくて、優しくて、強くて、包容力があって、少し影があるところがまたスパイシーで素敵な人なのよ!……で、オジサン。何、女子高生と女子大学の私生活に踏み込んでるの?ほら、大根おろしと梅干しと熱いお茶。自分で持ってきたんだからサラダはちゃんと食べなさい」
照れ笑いしている柚希をニコニコと武夫が見つめ続けていると、いつの間にかバイキングコーナーから戻って来た綺羅がガチャリと武夫の前に新しいプレートを置いた。
その上には、本来なら食欲を呼び起こす筈の匂いに武夫が探すことを諦めた、二日酔いに良さそうな、というか二日酔いの現在、それ以外口に出来なさそうな物が陳列されている。
「おお!!綺羅ちゃん、ありがとう」
口が悪いながらも優しい綺羅の気遣いに、オジサン嬉しいわと武夫が嘘泣きの素振りと共に喜んで見せると、
「綺羅ちゃんさすが。優しいね」
一瞬何が起こったのかと驚いた表情を見せた柚希が、状況を把握し美しく綺羅に微笑んだ。
「ああ、うちの母さん、しょっちゅう二日酔いで呻いてるのよ。それに、今日は多分これから武夫さんの運転で出掛けないとなのにこれじゃこまるでしょ?」
慣れよ、慣れ!と笑って見せる綺羅の後ろに彼女の苦労が見え隠れする。けれどそれに武夫はあえて触れない。そして
「ふっふっふっ。大丈夫!今日はタクシー移動を予定した!」
とあえて少し大袈裟に、深夜、七瀬と打ち合わせ、先程確認が取れた今日の予定変更を二人に伝えた。
「金にモノを言わせる大人っていやらしいー!!」
「でも、体調、あんまり良くないですよね?少し休んでも大丈夫ですよ?タクシーなら私達二人でも動けますし」
露骨にイヤそうな顔をして見せるものの否定しない綺羅に、肯定しつつあえて優しく心配して見せる柚希。やはり二人は表裏一体に見えて似ていてると武夫は感じる。
「大丈夫、大丈夫。仕事のない土日は前日何があろうと必ず嫁さんや子供と出かけるからさ。酒量と抜ける時間の計算、あと復活力には自信があるよ。年頃の娘にお父さんお酒くさーい、最低ーって言われたくないからねー」
にこやかに話す武夫を前に柚希が、八の字のままの眉で再び食事に手をつけ始め、
「武夫さんてば、どんだけ、家族大好きマイホームパパなのよ。仕事中の少しだけクールなイメージがガラガラ崩れてくわ」
と、お浸しを一口飲み込んだ後、綺羅が爆笑してツッコんできた。若干武夫を理想の存在として見ている感が否めない柚希ならまだしも、まさか綺羅からそんな返しを受けると思っていなかった武夫は少しドキリとする。
「えー、そんなに違う?常に理想的な育メンは目指してるんだけどね?」
「あー。武夫さんは家、だけ、ではやってそうだよね」
いい人を。
最後の一言は武夫の位置からしか見ない唇の動きだけだった。武夫が珍しく本音百パーセントで答えた言葉なのに綺羅は何処までも容赦ない様子だ。
「なんだよ、その<だけ>って」
特に強調された単語に武夫がムスッとしてみせるが綺羅の隣の柚希も作りもののように綺羅な笑みでウンウンと綺羅に相槌を打ちながらトーストにジャムを塗っている。
あのガラス細工のように壊れやすく繊細だった柚希が随分変わったものだと武夫は一瞬目を見張り苦笑いを見せると、その目の前の現実を丸ごと飲み込むかのように静かにゆっくりと瞬きをし、まだ息が白くなる冷え込みのままであろう窓の外を再び見つめた。
少し日が射し込みだしたテラスの先程の雀達は窓際の宿泊客からでもせしめたのだろうか。その体には随分と大きいパンをひきずり啄む。冬が長く雪の深い地域だ。収穫の季節では豊富だった食料も雪解けの季節までは少なく厳しいのだろうと思い当たるのに差ほど時間を要しない。
「でさー。そんな、家庭的な武夫さんが、酷い二日酔いにも関わらず、かつ、大好きな家族も居ないのに朝から頑張ろうと思うなんて帝都からどんな連絡があったの?」
武夫が見つめる先に気がついたのか窓の外の景色を優しく見つめた後、箸を下ろした綺羅が、先程までの笑顔はそのままに、けれど、先程までとは打って変わって周りに聞きとらせないくらいの音量で、武夫の瞳を真っ直ぐ見つめ訊ねてきた。その姿に柚希も朝から何かしら思うところがあったのだろう。
「昨夜の件から何か判明したことでも?」
綺羅の視線の動きと顔色を確認したあと、ことりと首をかしげ長い三つ編みを揺らし、彼女もまた武夫を見つめてきた。
どう話し、どう伝え、どう対処すべきなのか。
答えは決まっているのに、そこまでの道が新雪に埋まっているかのように最初の一歩を躊躇わせる。
二人の視線を受けながらも武夫がそのまま外の雀の様を見つめていると、二人も武夫の視線の先を追い、窓の外へと視線をうつした。
じゃれあうかのように餌をつつき、跳ねる二羽の雀に僅かな幸福を見た気がした。
けれど次の瞬間。
平和なそこに突如黒い塊が鋭角に突っ込む。
直後、茶色の小さな羽が無数に空に舞い、一羽は消え失せ、残った一羽がその恐怖に飛び去っていった。
窓に面した客達から悲鳴にも似た小さな叫びが漏れ聞こえる。
あぁ、カラスか……。
一瞬の出来事であったし、少し離れた場所だったこともあって、黒い塊が何で、何が起きたのか日々の任務で強制的に動体視力を鍛えられている武夫でさえ把握するのタイムラグが生じた。
こんな寒い季節だ。カラスだって生き残るのに精一杯なのだろう。黒い瞳で静かに狙いを定めたカラスは、二羽の雀のうちの一羽を鋭い嘴で確実に捉え、飛び去っていった後だった。
命を繋ぐ為、命を食す。
等式が成り立つ、生命的な危機を生き残る為の本能の行動だ。生きるもの全てのルールであり、それを残虐だと否定する事は誰にも出来ない。
武夫の置かれた現状と似て見えるものの、本質は大いに異なり天地の差がある。彼らの行動と武夫の穢れた行いを比較する事すら失礼極まりない。
目の前の平和な光景に突如現れた自然の摂理の残虐さに、己の狂気を自覚し、心の中、冷笑する武夫に対し、未だ無垢な少女達は身を硬め、絶望と恐怖に顔を染め、そのままかき乱され煌めきを増したテラスの雪を見つめ続けていた。
*****
「なー、綺羅ちゃん。おんなじ学校の敦史っ知ってる?」
やっと衝撃から立ち直ったと思われる少女達が朝からデザートをつつく姿を眼前に、武夫は柚希が用意した氷だらけのオレンジジュースに軽く口をつけテーブルの上に昨日空港の売店で買っておいた観光ガイドブックを開いた。
周りからの見れば今日めぐる観光地を品定めしてる親戚御一行くらいにはみえることだろう。
「同じ学校……の?……ああ、三年のあの最悪なモテ男?」
ジャムが大量に乗ったヨーグルトをつついていたスプーンを口に当てたまま少し考えた様子の綺羅は、その人物に思い当たったのか、あぁ、と軽く手を叩いてみせた。
「モテ男だったの?」
「才能があるんだか自意識過剰なんだか、目立ってたわよー。自称アーティスト、だっけ?学校中の美人な女の子っていう女の子をひっかえとっかえしてたやつ。長い休みの後、必ずアイツのせいで学校を辞めていく子がいたのよねー」
私も声をかけられたことあったけど、アイツ嫌いだったし、見るからにあんまり良くないものを沢山引き摺ってたのよねー。
訊ねた武夫への返答で軽く綺羅が語る内容の重さに、武夫も柚希も表情が若干固くなったのもいた仕方ないだろう。
「華麗な女性遍歴……ねぇ。まるで帝都本部の智也君みたいだ……。まぁ、彼みたいに動物しか愛せない癖に食い散らかすのと違って本当に女性に興味があったみたいだし、まだましかぁ。……いや、いやいや、うちの娘がそんな奴に手ぇ出されたら許せんな。……いや、しかし、そうか、未来は輝いていると疑わない少年だったんだなー」
「で、あいつがどうしたの?だったんだなー、って……ひょっとして今回の被害者の一人だとか?」
一人百面相をしつつ氷をかじる音とともに独り言を口にする武夫に綺羅は最初こそふざけた口調だったが、後半になるとその元気さを声から完全に失わせていた。
「なら、まだ良かったけどね」
「あー……ご本人?」
「ぽいね」
武夫のはっきりとは言わない回答をきちんと把握した綺羅は少し顔を歪める。
「あんだけ自由に生きてれば自分から鬼に唆されなくても、人の怨みも買ってたみたいだし、災厄化もありえるかも、ね……」
「人の怨みで災厄化とか現役高校生、こえーな、おい」
綺羅の言葉に思わずボソリとでた武夫の本音に、斜め前の席で、フルーツを丁寧に食べていた柚希が手を止め目を見張った。
「あんなに強い武夫さんでも怖いものってあるんですか?」
「……人の心は怖いよね。すぐにうつろう」
闘う武夫ばかりを見てきたであろう純粋な柚希の質問に武夫はふざけ、砕けた口調に本音を練り込む。
「それは……実体験ですか?」
真っ直ぐ武夫を見つめ、柚希がいつもより少し低い声で訊ねてきた。少し汚れた指先から赤味を持ったクレープフルーツの果汁が滴る。
「どうだろうねぇ。……さて、まぁ、今日はそういう予定だから。あ、そろそろ迎えが来る頃だ。10分後に下のロビーに集合ー」
さらりと笑って、腕時計に目をやった武夫は、ほとんど目を通すことのなかった観光ガイドブックをパタリと閉じ、席をたった。
*****
二日酔いの上、あまりあの浮遊感覚が好きではないエレベーターだ。だが、本部の七瀬とのやり取りで出遅れ、階段では間に合わないと武夫がなんとか意を決して乗れば、タイミング良く、と言っても待ち合わせ時間は決めていたので当たり前と言えば当たり前だが、柚希と綺羅も乗っていた。
何でもない様に一応、到着階の表示をじっと眼で追っていたがやはり若干青ざめていたであろう。武夫の様子に、他の客も意識したのか柚希はそっと心配そうに眉をひそめ、綺羅は必死で笑い声を抑え肩を震わせてみせる。その、やはり表裏一体似た者同士としか思えぬ少女達の年相応の反応に、武夫は愛娘達の幼く無邪気な表情が重なって見えた。
移動時間だけとれば確実に早いはずなのに少し長く感じられたエレベーターが、少々時代遅れな音と共に到着を知らせ、扉を開ける。
観光に仕事にと、それぞれの今日の為、ロビーへと向かう人々の先、ソファーからこちらを窺い、さわやかな笑顔で手を振って声をかける青年に武夫は軽く手を上げ答えた。
「オジサン、久しぶり!」
「よう、遠夜、久しぶり!!おっきくなったなー」
なんて言ってみるが、実際はひと月も間を開けていない再会の相手と、親戚のオジサンと甥っ子を演じるのも手慣れたものだ。
今日の遠夜は学生という設定だ。細い黒縁の眼鏡にTシャツとジーンズ姿がいつも見かける似合わないことこの上ないフォーマルな服装以上にしっくりと馴染んでいる。
「大きくなんてなってないですよ。綺羅ちゃん、柚希ちゃんお久しぶり。覚える?俺だよ、ハトコの遠夜。合流が遅れてゴメンね。このちんちくりんなオジサンに苛められてなかったかい?」
先手とばかりに自然な流れで自己紹介を済ませる遠夜に少女達がぎこちない笑顔のまま武夫に無言で尋ねてきた。聡い子達だ。きっと自分達が周りには、親戚の集まりに見られていると二人ともわかっている。だから目の前の人間をどう受け入れるべきか、それを武夫に問うてきた。
「さーて、今日のタクシーが到着だ」
手に持った付箋だらけの観光ガイドブックをフリフリと見せつけ、ポケットから取り出したレンタカーのカギを遠夜に投げ渡す。それだけで二人は察したのだろう。
「タクシーって言う、普通?」
「ずいぶん良いタクシーですよね?」
「だろ?」
多少ドン引き感も拭えない気がしないでもないが少女達は自慢げに胸を張る武夫を横目に
「遠夜、君?……お久しぶりです」
「遠夜、よろしくー」
と、若干、「ご迷惑をおかけします感」満載の親しみを含んだ挨拶を遠夜に返した。
この季節にしては珍しいという青空の中、昨日より確実に路肩の雪が増えているホテルの駐車場でレンタカーのガラスの雪を落としたあと、武夫達四人は車に乗り込んだ。
「とりあえずこれから市内観光して、夕方から綺羅ちゃんに彼女の学校と例の少年の自宅を案内してもらうことにしたよ」
助手席に乗り込んだ武夫は適当な近隣の観光地までのナビを設定しながら遠夜に今日の予定を告げる。
「市内観光ねぇ……。学校は良いとして、先輩の家、大まかな場所しか知らないけどー」
と後部座席に座る綺羅が座席の隙間から顔を出してくると、
「大丈夫ですよ。僕の方で七瀬さんからデータを送ってもらっています」
と、遠夜が万人に好かれるであろう基本定型の笑顔を返した。
運転席で武夫の設定が終わるのを笑いながら待つ青年は一見人の良い大学生に見える。しかし、実際はセンターの地方出先機関の職員という肩書きをもっていて、本来なら武夫の会社の委託の元、お客様だ。
一般社会的には下請けの武夫が運転すべきなのだろうが、現実の現場では七瀬の直轄下で実力も認められている武夫の方が現場の責任者として上役に位置し何度も仕事も共にしているので問題はない。いや……社会的上下関係が狂っているというのは非常にややこしく面倒くさいことこの上ないが武夫は必死にそれから目を剃らしてやり過ごしている。
「今日の予定はわかりました。でも、なぜ市内観光を?」
動き出した車の中、知的な黒く細いフレームの眼鏡の向こう。遠夜は念のためにと車内の皆が疑問を持たずにはいられなかった今日の予定を確認してきた。
「こんなオジサンが可愛い女の子連れてホテルに一日中居たら怪しいだろ?それに俺も今度家族旅行で来る前に、どんな観光地があるか下見をしておきたいしね」
「武夫さんは相変わらずですね」
長い付き合いだ。少ない言葉の羅列内に武夫が言いたい事を理解したのだろう。遠夜が苦笑いしつつ言葉を吐き出すが、助手席から丸見えの、その眼鏡のレンズ越しの目は全く笑って居なかった。
「そっさ、俺は、遠夜みたいにイケ面でもないし、権力や地位を狙ってるわけでもない。進歩もなければ後退もない平凡な男だよ」
座席を少し後ろに倒し、足を伸ばすと、武夫は持っていた観光ガイドブックをバサリと顔の上に置く。
「後退が〈全く〉ないからあなたは怖いんですよ」
後部座席の少女達には決して聞こえぬ音量で、そう呟く遠夜の声を夢現に聞きながら武夫は二日酔いの頭痛を吹き飛ばす為、助手席で仮眠をとりはじめた。
「挨拶も済ませていないのに……武夫さん、本当に寝てしまいましたね。困った人だ……改めて、はじめまして、お二人とも。センターの地方支部職員の遠夜と申します」
カーナビのかしこまった声だけが響く静まった車内、遠夜の非難に満ちた声の響きに眠りに落ちかけていた脳がきっちりと覚醒する。嫌な癖だなと武夫は心の中だけで自嘲した。
「はじめまして、よろしくお願いいたします」
多分二度目の対面になるはずの柚希は、前回は完全に女性の姿だった遠夜に全く気が付いていないようで、声に少しばかり緊張感が残されていた。
「はじめまして。お兄さんは普通の人?姫神様の下部?それとも縁者?」
反対に、こちらは完全に初対面であろう筈の綺羅は、いつもの彼女と変わらぬ口調で遠夜にセンター絡みの人間なら聞きずらいことこの上ないことをズバズバと訊ねにかかる。
「綺羅さんはさっそくですか?……そうですね、普通の人ではない、とだけ答えたさせていただきます」
笑いながら答える遠夜に、武夫はこいつも丸くなったなーなんて感想を抱かずには居られない。初めて武夫が会った時、彼はその神器同様に鋭い切れ味を持つ鉄の香りを漂わせる気配を持つ青年だった。
「秘密ですか?」
少し声のトーンを下げた柚希の声がカサリと武夫の耳に差し込んだが
「仕事柄色々ありまして。まぁ、武夫さんの方針は下部も縁者も能力評価のみで平等ですし、あまり問題はないですよね?」
と、現場責任者である武夫に全てを放り投げて見事な作り笑いを見せているであろう青年の言葉の方が、更に乾燥して耳にこびりつく。そんなやり取りの直後、そりゃそーだと笑い同意を見せる綺羅の声が乾燥した空間に少しだけ潤いを与えたことに安堵をおぼえ、武夫は再び浅い眠りに手を伸ばした。
*****
もともと、人の中に混じるのが上手い遠夜を選んだのだから当たり前だろうが、子供たちはあっという間に打ち解けた。観光ガイドブックに乗っていた近隣で有名どころの観光地をなんとか二日酔いから復活した武夫を含め四人で親戚さながらワイワイと巡り歩き、昼近くに腰を落ち着けたのは、地元民は足を向けなさそうな観光地特有のお食事処の半個室だ。
地元の筈の綺羅でさえ知らない名物らしい蕎麦をあーじゃない、こーじゃないとじゃれつきながら食べる若者たちの姿に親戚が居たらこんな感じなんだろうと目を細め愛でていると、上着の内ポケットの中、今日何度目かのメール着信のバイブが武夫とその場の全員を現実に引き戻した。
「遠夜さんは煙草を吸うんですね」
「失礼。女性の前でしたね。つい武夫さんと一緒だと癖で」
柚希の責めるわけではなく、ただ目の前にあることを口にしただけの言葉に、遠夜が、さも武夫とは良く会う間柄だと主張しつつ申し訳なさそうに煙草を仕舞う音が聞こえた。わざとらしいことこの上ない。
遠夜の携帯端末を借りた武夫が「家族に連絡入れてくるよ」と席を外したのは少し前だ。
店内の一番奥、店員からも死角になりやすいスペースは家族客専用なのだろう。三人を持たせているスペースの入口に戻った時、武夫はその気配を消し、しばし中の様子を窺った。
「いえ、食事も終わりましたし、ここは喫煙スペースで問題ないです。お気になさらないで、そのままどうぞ」
ふふふっと笑う柚希の声には、大学に進学し慣れ始めた学生らしく、少し背伸びした危なっかしい余裕が含まれている。
「今時、煙草なんて珍しいでしょ?」
「ええ。そうじゃないって否定するには厳しいですね」
周りの学友を思い出したのか、珍しく率直に柚希が遠夜に答えた。
賑やかな綺羅は武夫が席をたった後、武夫同様に席を外したらしくその場に気配はなかった。
だからだろう。武夫から見ればまだまだ子供だが、自分たちでは大人だと思い込む大学生らしい会話が繰り広げられる。
「武夫さんに憧れてましてね」
突然の、初耳である恥ずかしさしか感じない遠夜の言葉に武夫は心底驚いた。
「え?武夫さん、吸うんですか?!」
「あの方は吸いますよ?多分家族とか人前では吸わないでしょうが。仕事の夜だけは吸ってらっしゃいます」
何処までバレてんだと内心焦る武夫を他所に
「……格好、良さそうですね」
と意外なほど柚希の声は穏やかな響きを持っていた。
「武夫さん?……そうだな、その時だけは多分君達が知っている武夫さんとは違うあの方が居る」
ちなみにあの方の吸い方が格好いいから真似た訳じゃないですよ?と遠夜が少し小声で付け足すと柚希は少し大人びた仕草でクスリと笑みだけ返す。
「あの方の在り方を私はリスペクトしたいだけです。僕なんかじゃあの人の足元にも及ばないので形からだけですけどね。しかし……今回、こんなに知覚特化型の人間ばかり集めてバランスが悪いと思いませんか?歪み穢れた空間が現れれば、問題なく容易く立ち回れるのは攻撃特化型の人員に限られてしまうのに」
ここだけの話だと言わんばかりに遠夜が声を潜め始じめると
「確かに、元々攻撃特化型の方が少ないとはいえ、今回、こんなに被害者が出ていながら派遣された攻撃特化型は武夫さんだけですね」
私も多少は戦うこともできますが……と、柚希も穏やかなまま声を潜める。無意識に前屈みにでもなったのだろう。長い三つ編みの先をテーブルの上を滑らせる音が響いた。
「武夫さんもこれから説明なさるんでしょうが、どうやら今回の相手、ここまで被害を出しながらも珍しく理性と知性を保ったままでいるようでして、こちらの手を多少読まれていると想定されています。実は、敦史君には聡史君という名前のお兄さんが居るらしいんですが、彼、柚希さんと同じ大学の学生なんです。御存じでしたか?……まぁ、大学も広いですからご存知ないかもしれませんね。近隣ということもあるでしょうし偶然かも知れません。しかし、主要関係者と思われる面々が綺羅さんと同じ高校の生徒に柚希さんと同じ大学の学生なんて、センターの人間の周辺を意図的に狙っているとしか思えない配置過ぎて、ただの偶然と流すにも無理があると帝都の指令部は判断を下しました。だから僕も呼び出されたんでしょうし、今日の昼間の武夫さんの茶番劇も、あの人のポケットで通知を知らせる携帯端末も恐らくは何かしらの布石なんでしょうね」
時折柚希が頷いたり首を振ったりする気配の中、淡々と語る遠夜の声は潜めるだけでなく徐々に冷たくなっていった。
「聡史君と言う学生は知りませんが……それは確かに意識されている感は拭えないですね」
一通り話終えた遠夜に柚希は静かに否定と肯定の意を述べる。その声も潜められ感情は確かに凍てついていた。
少しの重い沈黙の後、ずずりとお茶をジジ臭く啜った遠夜が深々と大きなため息を吐き出した後、気配をガラリと陽気な大学生のモノへと変える。
「まぁ、武夫さんなら一人で十分でしょうが。君達は知らないでしょうね。あの方の真の凄まじ「褒めても何にも出ねーぞ、遠夜?」」
あの煙草の話題の後のこれだ。出るタイミングを逸してしまった感は拭えないが、武夫としては、出るのは今しかないと思われた。これ以上の自分ネタのバレはいただけない。何より恥ずかしい。
いかにも今戻ってきたかのように足音を立てた武夫は、砕けた口調の中に要らない事は話すなと釘をさした。
「……すみません」
少ししゅんとして見せる遠夜はこんな事ごときでダメージなんて受けないと十二分にわかっているが、武夫は、その頭をガシガシ撫で回し、不味い事を見られてしまったという表情を隠せない柚希に見せつけて
「あれだ、あれ、オジサン、子供の養育費に住宅ローンの返済に必死なの」
とガッガッと笑った。
別にバレて困るような事は何一つ無かったのは確認済、いや、どちらかといえば了承済みであり、問題はない。要は武夫の恥ずかしいというオジサン心の問題だけだった。
「だからセンターの仕事を頑張っていると?」
珍しく多分素だと思われる質問と上目遣いな遠夜の顔に、武夫はその額に軽くデコピンをして
「そそ」
とギリギリで保たれた大人の余裕で笑ってみせた。
「ただいまー!って……あれ?んんっ?みんなで何話してんの?」
どう場の空気を変えようか?遠夜の瞳が武夫に語りかけできたときだった。
「お仕事を頑張る……理由、かな?」
武夫が遠夜にデコピンする姿を見ていたのだろう。
トイレにでも行っていたであろう綺羅が、テーブルに戻るや否や、何だか楽しそう!と訊ねてきた。さすがに大学生二人が気まずい表情を崩さないので武夫が当たり障りのない答え口にする。
「へぇ~面白い」
と、これまた何処まで武夫の様子を伺っていたのか、綺羅はニヤニヤを隠そうともしなかった。
「綺羅ちゃんはどうして?」
思わず話題の転換を狙いたかっただけであろう柚希が綺羅に若干声を裏返しながら話題をふり、直後、自分の発した不用意な言葉に後悔でその顔を染めた。
「私?私は皆と違って縁者だからねー。あんまり派手じゃないけど、お金を沢山貯めて、処女を捨てて海外に出ていくため!」
「縁者?!」
「処女をすてる?!」
特に気にすることもないと語られた綺羅の告白はそれぞれに衝撃の事実が合ったようで、柚希と遠夜がおうむ返しに訊ねる。その様子が可笑しかったのだろう。いつもの陽気な笑い声のまま柚希は蕎麦湯をのみつつ、笑ってみせた。
「そうそう、柚希は知らなかった?私、こういう性格だし、神器があるタイプの縁者だからよく姫神に仕える方と勘違いされるのよねー。で、この能力、うちの母親の実家の血族に代々引き継がれてるみたいんだけど、処女じゃなくなると消えるのよ。別の誰かが引き継ぐの。縁者だと国内から出られないからね。脱処女は必須!あとお金!!」
幾分、昼間のお食事処には似合わない回答内容だ。だが、武夫もお小言と共に一つの疑問を投げ掛けた。
「昼間から連呼する単語じゃぁないよな、それ?しかし、どうしてまた海外?」
姫神様の力は強くこの国を守る半面、端境でもあるかの様に縁者や下部をこの国から一歩も逃がさない。センター内部では確かに縁者は下部よりは下に扱われ気味だが、だからとて、自由を得たままに特別な力や特権を与えられる縁者を捨ててまでも綺羅が求める海外にどんな意味があるのか?武夫は心から純粋に知りたいと思った。
「私の本当の父、外国の人だったらしいから、会いに行きたいの。名前も国もわからないんだけどね。ほらこの瞳にこの髪、よく先生にカラコン入れてるとか染めてるって怒られるんだけど裸眼に地毛なのよ」
昨日のラーメン屋での軍部の男性の話といい、いつもの様に陽気に笑って自身の感情すら誤魔化す綺羅の様子に武夫は胸の痛みを感じた。
「で、そういう柚希は?」
傷付いている自分に気がつかないままの綺羅は、女子高生ならではの無謀とも思われる、姫神様の下部ならば、断ることができない事情もあるであろうことなどお構い無しに、無邪気かつ残酷に柚希にたずね返した。帝都の智也や遠夜辺りなら柚希に冷たく自業自得とでも言い放すだろうか。
「……この先、大好きな絵で食べていけたら幸せだろうなとは思っていますが、それだけで食べて行ける人って極少数だから」
少し視線を下げ、ここではない時を見つめた柚希に、泣き出すのではないかと内心、心配した。けれど、そんな武夫を他所に、思いの外しっかりした柚希の答えに、胸を撫で下ろす。
「そっか。じゃ、遠夜さんは?」
本能的危機回避能力が高いのか、それとも彼女の在り方そのままなのか。あまり深く踏み込むことなく、けれど引き続き続けられた綺羅の問いに「公務員は安定してますから」と満面の笑みで答えた遠夜によってその話題は子供達の笑い声とともに定形的な会話で締めくくられ次の他愛のない事へと話題は移っていった。
*****
午前中はご機嫌に晴天と思われた空も昼を過ぎるころにはへそを曲げ始め、この季節のこの地域ではさほど珍しくもない灰色一色と姿を変えた。七瀬からの進展のない連絡を受けつつ午後も一通り地元民は立ち寄らない観光地を回った後、刺身が自慢という観光客向けの和食のレストランでゆったりと夕食をとる。それでも時間をもて余した四人は昔の風情を再現したという土産物屋街をぶらぶらと覗き歩いた。
そのうちの一つ、空調がしっかり効いた見た目は古い木造家屋の店舗は年頃の少女達が喜ぶ細々とした品が多く、殊更長く居座った。余り長くいてなにも買わないのも、また高額な買い物をしても変に店員記憶に残ってしまうだろう。
何か適当なものはと視線を巡らせた先、ふと、懐かしさに武夫が手を伸ばしてしまったのは綺羅曰く、冬は白、春先はピンクに品揃えが変わるという観光地独特の手のひらサイズのスノーボールだった。
気がつけば、武夫の財布の中のポケットマネーが幾分目減りし、店じまいを始める通りをビニール袋をぶら下げた少女二人が跳ねるように歩いていた。
「領収書……なんか貰えないよなぁ……」
少女達の少し後ろで肩を落とし歩く武夫の横、遠夜が人の悪い笑みで肩を振るわせ大ウケしている。
「武夫さんは相変わらず優しいですね」
前の少女達から視線を逸らすことなく、遠夜は笑い続ける。
「……本当にそう思うかい?」
武夫が首を傾げながら訊ねると遠夜は少し考えた素振りを見せた後、
「ええ、少なくとも味方でいる間は、あなたは優しい」
と、相も変わらず武夫が胡散臭いと感じる、一般的には人好きされる満面の笑顔で答えてきた。
吐き出す息は朝より白さを増していて、見上げた空に星の小さな輝きも月の冷たい眼差しも見えない。見えるのはただただ厚い灰色の雲だけだ。
駐車場の留守番を仰せ付けられたレンタカーが見えたところで、武夫は遠夜から無言で投げられた車のキーを受け取った。
外気と変わらぬほど、キンキンに冷えてしまった車内に四人乗り込むと、早く暖房をとリクエストする少女達の声が昼間のテンションの延長線上を跳ね回る。
バックミラー越しのその姿に今朝の二羽の雀の姿が武夫の脳裏を過り、同時に武夫は同じミラーの中、鋭い眼光を黒光りさせた自らの姿を見た気がした。
車のエンジンスタートに武夫の奪う事を躊躇わなくなった手が触れ瞬間、穏やかなぬくもりさえ感じさせる時間は終わりを告げた。
*****
部活動の学生も帰ったと思われる時間を狙い、四人は綺羅の通っている学校とたどり着いた。
人気のない学校はそれでなくとも冬の早い日暮れで既に薄暗く、更には冷たい小雪までが舞い始め、ここが常日頃、賑やかな子供達の学舎であることが嘘の様に静かだった。
遠夜が手配していた鍵を片手にがらんどうな校舎で歩みを進める。人目につきたくないので灯りは一切つけない。
ここは、綺羅だけでなく、昨日、現場で確認がとれた行方不明者二人とその件に関連性があると疑われた敦史という名の少年が通っていた学校でもある。片手ではあるが一つの高校で一時期にとなれば、社会的にも無視できない行方不明者数だ。けれど、そんな真実は噂にはなっても、事実として広まることはない。今まで幾度も武夫が見てきたままに、恐らくは在籍状態を維持し、あやふやにするような、多分そんな目立たない手段で彼らが消えた事実は消されていく。現代特有の巧妙な神隠しともいえよう。
今回の重要参考人である敦史はネット上でかなりの有名人だったようで、昨夜のわりと早い内に、確認が取れた行方不明の半数以上が彼とネット上での関わりを持っていたことを七瀬が突き止めていた。
近年、ネット上での交遊関係が災厄の拡大や把握を遅らせる原因に繋がる事も多く、センターでも専用情報収集手段を用意して対応に当たっている。
そんな中、行方不明者達の交遊関係の中心に位置した、姿が未だに確認出来ない敦史がまず最初に元凶や災厄と疑われたのも仕方はない、と武夫も思う。
そして、その少年が今回の原因であったなら、余程のことでもなければ、もう学校なんかには痕跡さえ残してはいないだろうとも想定済だ。
敦史の教室は何処の教室とも違わない普通の教室で、ロッカーに残された教科書の山はやはり極普通の勉強を嫌う高校生そのままだった。
彼は学校で綺羅が言うように話題の人ではあったらしい。だが、その環境を好んでは居なかったと、朝、遠夜から手渡され昼間、ガイドブックの間に挟み目を通した身辺調査報告書にも書かれていた。学校での人気者は実は誰よりも学校嫌いで誰よりも人間嫌いな少年だったのだ。
おそらく学生時代の成績だけでは優等生だったであろう遠夜と綺羅という二人組の案内の中、歩く薄暗い校舎はさながら巨大迷路の様で大切な事を見落とすとそのまま遠回りをしそうだった。
「凄い……」
敦史が幽霊ではあったが在席していたという部活の部室へと特別教室棟の二階の廊下を歩いていた時だった。
突然足を止めた柚希が心を震わせたかのような声を久しぶりにもらしたのを武夫の耳は聞き逃さなかった。
注視した先、美術室と掲げられた部屋の扉が開いており、廊下の武夫からでも一部垣間見える室内にかけられたにかけられた大きな油絵に、呼び込まれるかのように柚希はその室内へと求める指先を伸ばしたまま踏み入れていく。
「凄い才能……」
害意ある気配はなかった。だからゆっくり歩いて後を追った。窓の外の雪はいつの間にか本格的に振りだしていて、暗いはずの室内、武夫達の前で、柚希が艶やかな唇をわずかに震わせ呟いた。
武夫に絵のことはまったくわからない。仕事柄美術館でみることも多い有名画家の名作より娘の保育園のお絵描き帳の中の絵の方がよっぽど感動的だと本気で思っているし、その感覚が世間一般的からずれていることも知っている。
沢山の色がやたらめったら投げつけられた様に見える恐らくはデザインセンスに満ちた衝動的で芸術的な絵に柚希は伸ばしたままの指先だけでなく、まっすぐな澄んだ瞳も、その心も震わせているのだけは武夫にも何となく感じられた。
姫神様に願いすがった柚希は現在、美大生だ。
安定した職についていた彼女の両親は、安定した将来が約束されると彼らが信じていた進路と仕事を柚希に望んだらしい。だが、柚希は鬼に唆され災厄に身を転じるほどに絵を描く未来に執着した。今思えば、武夫もその当時は柚希の絵を見る機会があったはずだか記憶には全く残っていていない。さらに、今の彼女がどんな絵を描いているのかも武夫は知らないし興味もない。武夫が知っているのは彼女のセンターメンバーとしての現在の有益性だけだ。
見た目のおとなしさの反面、柚希のその内は彼女の神器のように必要なものを見定め鋭く狙い射つ。欲しいモノには容赦のない、姫神の下部にはよく見られるパターンだ。それは他者の幸福の為とか求められる為とか装飾語が飾り付けられても、大なり小なりあっても、所詮自己満足の塊でしかない。
しかし、そんな柚希が凄いと評するならば、それはそれなりに素晴らしい絵なのだろう。ただ、武夫がタイトルを考えるなら「絶望」と名付けたくなるくらいにはクソ面白くない感情を露呈させているであろう絵がそこにあった。
「あぁ、これあいつの絵だね。確か授業で描いたやつかな?さすが柚希、よくわかったね」
珍しく少しだけ悲しそうな表情を浮かべ綺羅は笑った。
「美術部だったのかい?」
遠夜のそうは感じさせないように気負った張り詰めた声が冷たい空気を静かに震わせる。
「軽音部」
「は?」
先ほどの切ない表情が嘘のように綺羅はあっけらかんな声で予想とはかけ離れた言葉をいい放つものだから、遠夜が笑える位唖然とした表情で固まった。
「絵はね、兄貴がやってるから苦手なんだって、いっつも笑ってたみたい。たかが授業でこんなの描きあげちゃうレベルなのにさ」
「だって、自称アーティストだったんだろう?」
訳がわからないと遠夜が更に訊ねると、綺羅は絵を見つめ続ける柚希を見つめた後、静かに積もりゆく窓の外の雪に視線を向ける。
「そこそこ上手い音楽でね。私もクラスで話題になっていたから聞いたことあった。作曲も作詞も演奏も歌も全部自分一人で作ってたらしいよ。あれだって、絵くらい本気出せばもっとすごいもの作れるんだろうに。私、あいついっつも途中でわざと手を抜くところが嫌いだった」
あえて、の歩く不純性交遊だったくせに、変な所で周りには気を使うし、出来る癖に自分で限界を見いだしちゃってバカな奴。
憎しみにも満ちた表情を見せポツリと追加された言葉に柚希の肩が微かに揺れたのを武夫は見逃さずにはいられなかった。
その後訪れた軽音部の部室はさすが幽霊部員だけあって、先ほどの美術室の絵ほどの衝撃を受けるような敦史に関するものは何も見つけられなかった。
ギターでもベースでもなんでも器用にこなしていたらしい敦史だが、自前の楽器はこまめに自宅に持ち帰っていたらしいし、楽譜は耳から聞き取ってそのまま演奏していたらしいので使っていなかった。得意だったという打ち込み作曲のデータもパソコンがない部室では確認のしようがない。代わりに綺羅はクラスメイトに勧められたという敦史の動画をスマホで検索してみせた。
若者が好きそうな青い歌詞に目眩さえ覚えれば、隣に立っていた遠夜も苦笑をもらしていた。
仕事とはいえ昨夜何度も聞かされたそれは、大人には若干厳しい真っ直ぐな恥ずかしさに満ちていた。若者文化というのはそういうものなのだろう。
「このサイトを媒介にしたのか、それともこれさえもダミーなのか」
武夫の呟きに皆の視線が集まった。
「敦史君には先程綺羅ちゃんが話したように芸術を大学で勉強する兄がいる。その人物、実は柚希ちゃんの大学の学生なんだ。柚希ちゃん、聡史って学生知ってる?」
淡々と事実を語り聞かせる武夫に、少女達は何かを感じたのか、綺羅はピンク色の唇を一文字にし、訊ねられた柚希は静かに頭を振るだけだった。
学校内では収穫らしい収穫もなかったことをインカム越しの七瀬に連絡し、校舎から出る頃には、真っ白な大きな雪の花が深々とこの世界の色を塗り替えようと降り積もっていた。
「雪、綺麗ですね」
真っ暗な空を見上げ、振り返った武夫に、少し後ろを歩いていた柚希が昔、武夫の手を取った時と似ている笑顔で笑いかけてきた。
綺麗と遠夜の二人は侵入の為、落としていたセキュリティを再び立ち上げるため職員室に立ち寄っている。
「なぁ、柚希ちゃん、昼間の話なんだけど……」
武夫の耳に雪のすさすさと積もる音がやけに煩く感じられた。
「綺羅ちゃんはさ、今更異性と性交渉を持ったところで救われないんだ」
「……え?」
武夫の突然の話に柚希は理解が追い付いていないと長い三つ編みを揺らし首を傾げた。
「彼女は数年前、母親の内縁の夫に襲われている。彼女はその時、二重の絶望を味わった。大切なものを失った絶望と大切なものを失えない絶望だ。……その頃からかな?段違いに彼女は強くなった。だから多分、縁者とはいえ、彼女は姫神の下部と対して変わらないんだ」
除雪された後、降り積もった新雪に、先ほど到着時、乱雑に武夫達が踏みしめた足跡が未だはっきり残っていた。アスファルトの黒や地面の茶色が水っぽい雪から染みだし見えている。そして、そこに新たな雪が再び降り積もり、うわべだけでも白く隠そうとしていた。
「綺羅は僕達と変わらない程に既に道を踏み外しているんだ」
「そんなの……酷い……」
息をのんだあと絞り出された柚希の声は震えていた。
「そんなの酷過ぎる。……何より武夫さんが知ってるのはもっと酷い。だって綺羅ちゃんはっ!だって綺羅ちゃんは……武夫さんのことが好きなのにっ!」
最後は悲鳴にも近かった。黒く艶やかな長い三つ編みを激しく揺らし頭を振る柚希の瞼は赤く大きな黒い瞳は零れ落ちそうなほど潤んでいる。同時に、決して口にしてはいけなかった事なのにという後悔に自身の口を両手で柚希は覆った。
「知ってるよ……。そして、綺羅ちゃんも俺が知っている事を知っている。センターの情報網だってある。それに、いくら知覚系に特化してない俺でも、大人なんだ。女子高生相手にそれ位気がついていないわけないだろう?」
泣き崩れなかった少女に安堵した武夫は、再び前に向き直し歩きだした。
「そして柚希ちゃん。これも、さ……俺の自意識過剰でも何でもないはずなんだけど……」
一歩一歩と歩みを進める度にすしゃりすしゃりと雪が自身を汚す武夫に小さな非難を投げつける。
「柚希ちゃんも俺に好意を持っているだろう?」
深いため息の後、渋々吐き出した武夫の言葉に、両手で口を覆ったままの柚希が先ほど以上に息をのむのがわかった。顔を見て言うべきだったかと武夫が振り返ると柚希は先ほどの場所から一歩も歩みを進めることなく、武夫の事を、冬の夜のように冷たく黒い瞳で真っ直ぐ見つめていた。
「さっき述べた色々な大人の都合ってやつのせいで、俺は君が俺に好意を持っている事も知っている。多分、君が留まる事を選択したあの事件がきっかけなんだろう?……だが、先に言わせてもらっておくが、好意はありがたい。ありがたいが、しかし俺は君達の仲間か敵か、それ以外の立場を取るつもりは一切ない」
時にはその感情さえ利用する手立てを考えるだろう。
武夫の言葉、一つ一つに踏み潰されていくかのように柚希の顔が徐々に下を向いていった。そして、武夫の最後に付け足した一言に柚希は驚きのまま表情を固め、その後、深々とため息をついた後、雪が降り続ける空を見上げた。
「このまま雪が酷くなって、夜が続けばいいのに」
真っ暗な空から大きな白い塊が舞い落ちるのを柚希は両の眼をしっかり開き、溢れる涙をこらえるかのように見上げた。
口元を隠していた両手はだらりと下ろされ、泣いているのか笑っているのか恐らくは本人さえわからない唇が白く震えていた。
収穫はなかった。けれど武夫は確証とは少し言い難いが確かな手応えみたいなものは掴めてしまった自分に対し多少絶望と満足を感じ、運転席からこちらへと続く、先程到着時、自ら作った足跡を追って一足先に車へと戻った。