第4話~今日子4歳~前編
「みなさん、今日は、あおぞら幼稚園の入園式です。みなさんは今日からあおぞら幼稚園に通うことになりました。これから苦難や困難などの壁が立ちはだかる時もあると思いますが、それを乗り越えることができる力をこの園でつけてもらいたいと思います。みなさんこれから、よろしくお願いします」
ホールの舞台上であおぞら幼稚園の園長先生がスピーチしている。
今日は、桜井今日子が通うことになった幼稚園の入園式だ。今日子はホールの前から3列目、母親の桜井佳子と父親の桜井咲也の間に座り、園長先生の話を聞いていた。
幼稚園の制服に身を包んでいる今日子は、これからこの幼稚園に通うことにワクワクと胸を高鳴らせていた。
入園式が終わると、割り当てられたつくし組のクラスに移動することになった。室内には入り口左側の壁に黒板があり、その前にはピアノが壁につけて置かれていた。部屋の中は黒板に向かうようにイスが並べられており、テーブルは室内の隅に置かれている。入り口右手にはロッカーがあり、ロッカーには園児の名前がひらがなで書かれてあるラベルが貼ってあった。
今日子は、『さくらいきょうこ』と書かれているロッカーを探し、そこに持っていたカバンを掛け、ロッカーの下の小さいスペースに佳子から受け取った筆記用具を入れた。
「きょうこちゃん!」
「なっちゃん!」
保育室にはすでに今日子と同じマンションに住んでいる桃園夏海が来ていた。一緒のクラスになれたことを二人で喜んだ。
「はーい、みんな好きなイスに座ってね!」
つくし組の担任の藤宮がそう言ったので、今日子は佳子から離れて夏海と手をつなぎ、近くにあったイスに座った。
その時突然、誰かの泣く声が聞こえて今日子は振り返った。一瞬、今日子は泣いている子は女の子かと思ったが、よくよく見てみるとスカートではなく、ズボンを履いているので男の子だということが分かった。
「やだー。ママと離れたくない! 帰るー!」
男の子は母親らしき人に抱きついてわんわんと泣いていた。
「大丈夫。ママはどこにも行かないよ。この部屋にいるから泣かないで」
「やだやだ、離れるのやだー」
男の子はなかなか泣き止まなかった。
今日子はその姿をみて席を立ち、男の子に近づいた。
「だいじょぶ、だいじょぶ。一緒に座ろ」
今日子は男の子の頭をなでながら言った。
すると、男の子は今日子の顔を見つめ、泣き止んだ。
「ありがとう今日子ちゃん、お母さんと同じで、優しい子になったのね」
男の子の母親は言った。
「どういたまして」
今日子がそう言うと、男の子の手を引っ張り、男の子を今日子の隣のイスに座らせた。
座ってからなぜ男の子の母親が自分の名前を知っていたのだろうかと今日子は疑問に思ったが、先生が話しはじめたので、そのまま先生の話を聞くことにした。
その後、先生が園児たちの名前の順番に呼び、今日子はその男の子の名前が竹中利秋だと知った。
次の日からはバス登園ということで、今日子は朝8時に家を出て佳子と手をつないで幼稚園バスの停留所に向かって歩いた。停留所はマンションの近くにあり、歩いて2分ほどすると到着した。
「今日子ちゃん!」
停留所に着くと、今日子の従姉妹の花木朝陽が先に来ており、今日子を見つけて駆け寄ってきた。
「朝陽ちゃんも行くのー?」
「うん、そうだよ。今日から一緒に幼稚園に行こうね」
「やったー!」
今日子は朝陽と一緒に幼稚園に行けるという、思いがけない出来事に喜んだ。
その時、今日子は朝陽の後ろにいる伯母の花木真昼が、ベビーカーを持っていることに気づいてそちらにむかった。ベビーカーには1歳3ヶ月になる今日子の従兄弟の花木聖夜が座っていた。
「聖夜くん。おはよう!」
今日子が聖夜に挨拶すると、聖夜は手を今日子のほうに伸ばして口を開いた。
「おっぱいおっぱい」
今日子は思わず自分の胸を触った。
「……おっぱいほしいの?」
今日子が尋ねると、代わりに真昼が答えた。
「ごめんなさい、今日子ちゃん。最近ようやく言葉を発するようになったと思ったら、誰か見ると『おっぱい』って言うようになっちゃって……。朝陽はそんなことなかったのに」
「へー」
今日子は胸に手をあてたまま、こんな小さな赤ちゃんでも言葉を喋るのかと驚いた。ただ、今日子は自分のことをおっぱいと呼ばれているような気がしてイヤだったので訂正しておくことにした。
「聖夜くん、おっぱいじゃなくて今日子だよ」
「おっぱいおっぱい」
「だから今日子だって!」
そうこうしているうちに夏海と夏海の母親の桃園久美も停留所に辿り着き、その後すぐに幼稚園のバスがやってきた。
「いってらっしゃい今日子」
「いってきます!」
朝陽がバスに乗ってすぐ後に、今日子はバスに乗った。佳子とは少し離れることになるが、朝陽や夏海も一緒だと思うと寂しくなかった。
「やだー。ママも行くのー。なっちゃん離れるのやだー」
夏海の泣く声が聞こえて今日子は振り返った。夏海は無我夢中でバスから出ようとしていた。
「毎年いるんだよねー。ああやってお母さんと離れるのがイヤで泣く子。幼稚園はそういうとこってわかんないのかなぁ? お昼になったらまた会えるのに」
今日子の横で朝陽が言った。
「昨日はなっちゃん泣いてなかったよ」
「昨日はお母さんもいたでしょ?」
「そっか……」
今日子は夏海と一緒に幼稚園に行きたかったので、夏海に近づき、昨日、利秋にしたのと同じことをすることにした。
「だいじょぶだいじょうぶ、一緒に座ろ」
「ヤダーー。ママも一緒がいいー」
今日子がなぐさめようとしても夏海は泣き止まなかったので、今日子は途方に暮れた。
その時、今日子の後ろで、朝陽が夏海に話しかけた。
「あのね、なっちゃんが寝ている時間がどれぐらいか分かんないけど、なっちゃんが寝ている時間よりお母さんと会えない時間のほうが短いんだよ。寝ている時間ってあっという間でしょ。だからお母さんと会えないのもあっという間にすぎるんだよ!」
夏海はそれを聞いて泣き止むのを忘れ、呆然と朝陽を見つめた。朝陽は満足顔だ。
今日子は朝陽の言っていたことがよく分からなかったが、朝陽の言ったことはすごいとなんとなくだが、思った。
今日子自身は佳子と離れて泣くまでは至らなかったが、幼稚園は未知の世界ということもあって不安はあった。朝陽がいなければ今日子も泣いていたかもしれない。
だが、幼稚園は今日子が思っていた以上に楽しいところであった。
先生が絵本を読んでくれたりピアノを弾いたりして、楽しく歌う時間もある。休み時間の時にはお絵描きもできるし室内でブロック遊びもしていいし、外に出たらすぐにブランコや滑り台などの遊具がある。
そして何より、今まで夏海や2歳上の朝陽ぐらいしか同世代の子がまわりにいなかったのに、幼稚園にくるとたくさんの自分と同じぐらいの子たちと会えることができるのが何より今日子にとってうれしかったし楽しかった。
だが、一方でなかなか幼稚園に馴染めない子がいた。その一人が、利秋だ。幼稚園に通い始めて一ヶ月がたっても登園のバス乗車時には「ママー」と泣き叫び、先生がいくらなだめても泣き止まないが、なぜか今日子が頭をなでると泣き止む事が多かった。幼稚園に来ても一人で母親の絵を描いたりしていることが多く、先生が「みんなと一緒に遊ぼうね」と呼びかけることも多かった。
6月のある日。梅雨の時期ということもあり、この日も雨だった。昼から雨がやむと今日子は佳子から聞いていたが、幼稚園に到着してもやむ気配がなかった。幼稚園のバスから降りた今日子は傘を差して、正門から園内に入った。歩いてすぐのところに緩い上り坂があり、右手にはちょっとした林が広がっている。その坂をあがると運動場が広がり、そこをそのまま右に抜けると保育室だったが、雨で水たまりができているということもあり、そのまままっすぐ行ってホールまでいき、そこから屋根の下を通って保育室に行くことになった。
登園して制服からスモックに着替えると遊び時間になる。雨は少し弱まり、土砂降りというほどではないが、外で遊べるような雨ではない。そのため、園児たちはみんな室内で思い思いに遊んでいた。
「今日もあきくん、ずっと絵、描いてるんだね」
今日子の横で夏海がいった。夏海も最初こそは母親がいないことで泣くこともあったが、今では喜んで幼稚園に行くようになっていた。なお、あきくんとは利秋のことだ。誰かが最初にそう言い始めてそのままみんなあきくんと呼ぶようになった。
「ママのこと好きなのはわかるけど、もっと自分からみんなと一緒に遊ぶようになったらいいのにね」
今日子はしみじみ思った。
「思いついた!」
夏海はわざとらしく左の手の平に右手の拳を叩いて叫ぶように行った。夏海の突然の発言に今日子は少し驚いて体を浮かした。
「今日子ちゃんが、あきくんのママになったらいいんだよ!」
「えっ?」
今日子は夏海の言っている意味が分からなかった。
「……おままごとで」
「あぁ、なるほど!」
そう言って今日子は利秋に声をかけにいった。一緒に遊んでくれるか心配だったが、利秋は画用紙とクレヨンをカバンの中に入れてロッカーにしまい、今日子のもとへ駆け寄った。
「じゃあ、なっちゃんがパパで今日子ちゃんがママ、あきくんは赤ちゃんね」
「わかったー」
「…………」
利秋から返事はなかった。
そうしておままごとが始まった。夏海がいったんその場から少し離れ、振り返ってゆっくりと今日子と利秋がいる場所に戻った。
「ただいまー。はぁ、今日もクタクタだぁ」
「おかえりなさーい。ごはんにする? それともお風呂?」
「そうだなぁ。今日はメシにするか」
「分かったわ。今から作るわね」
今日子は一辺30cmほどのブロックの上に手を包丁にみたててトントントンと叩き、夏海は座って二つ折りにしていた画用紙を新聞に見立てて広げた。
「なに!? 今日も日本は負けたのか。何をやってるんだトヨタは!!」
「そんなに怒らないで。トヨタさんもたまにはミスするわよ。はい、料理できましたよ。今日は肉じゃがよ」
「うん? どれどれ、むしゃむしゃむしゃ。おー! おいしいぞ! さすがママの手料理だ!」
「肉じゃがなら誰にも負けないわ」
「ところで聞いてくれよ、今日も課長がガミガミ怒るんだよ。いやになっちゃうよ」
「あらそう。大変ね」
「本当、いやになっちゃうよ。こないだも酔っ払って息がくさくて……」
「ストーップ」
今日子は夏海の演技を強制的に終了された。
「なんで止めるの! 今、パパやってたのに!」
「だって、あきくんの番がないよ!」
利秋は隅でじっと二人のやりとりを見ていた。
「あぁ、そうだった。あきくんのためにやったんだった。忘れてた。テヘッ」
夏海はそう言って今日子と利秋から少し離れた。
「じゃあ、風呂にでも入ってくるか」
「いってらっしゃい」
そこから今日子は利秋に近づいて作戦を決行することにした。
「はいはい、じゃああきくんもごはんにしましょうねー」
そう言って今日子は利秋の目の前におもちゃのにんじんを起き、利秋はそのにんじんを手にとってみつめた。
そして、利秋がおもちゃを手にとって見つめたまま30秒が経過した。
「早く食べないと冷たくなっちゃうよ。ママが心をこめて作ったんだから早く食べてね!」
今日子は言った。
すると、利秋は「マ……マ……」と言い、
「ママーーー。あーーー」
と泣きだした。
母親のことを思い出して泣いてしまったようだった。
利秋はなかなか泣き止まなかったが、今日子が長い時間、頭をなでてなぐさめることでようやく泣き止んだ。
利秋が泣き止んでしばらくして、担任の藤宮が片付けの号令をかけた。
「みんな。もうすぐお歌の時間だからお片づけしましょうねー」
そうして児童たちは一斉に片付けをしだした。今日子達もおままごとで使っていたおもちゃやブロックを元あった場所に片付けた。
「おしっこー」
一人の男の子が言った。
「そうだね。お歌の時間の前にみんなでおトイレだ!」
藤宮が言って、何人かの児童がトイレに向かった。今日子は尿意がなかったので保育室に残ることにした。
大勢の園児たちがでていって最後に利秋も出ていこうとしていた。利秋はなぜか幼稚園のカバンを抱えていた。
「あきくんもおしっこ? 何でカバンもってるの?」
今日子は利秋にたずねた。
「ハンカチ……」
利秋はそう答えて保育室を出て行った。
数分たって園児たちは保育室に戻り、担任の藤宮はピアノの前に座った。
「じゃあ、今日は雨なので『かえるの歌』を歌いましょう」
藤宮はピアノを弾き、「かえるのうたがーきこえてくるよー」と園児たちは歌い初めた。
今日子は歌わずにあたりを見渡した。
「藤宮先生!」
今日子は藤宮を呼んだ。
「どうしたの今日子ちゃん? 歌いたくないの?」
「ううん……そうじゃなくて……」
今日子はもう一度あたりを見渡して言った。
「あきくんがいないよ」
今日子の言葉を聞いて藤宮は園児を見渡した。確かに、そこに利秋はいなかった。
「トイレかな? ちょっと待っててね」
藤宮は駆け足で部屋を飛び出してトイレにむかった。
今日子も気になって部屋をでると、そのすぐ後に藤宮がトイレから出てきて部屋の前に置かれている下駄箱を覗きこんだ。途端、藤宮の顔色が青ざめた。気になって今日子も下駄箱を除いてみると、利秋の靴箱には下靴ではなく、上靴が入ってあった。
「今日子ちゃん、利秋くんどこに行ったか知らない?」
「おしっこだよ。ハンカチ入ってるカバン持ってたよ」
「カバン……」
藤宮は外を眺めた。外はまだ雨が降っている。藤宮は部屋を覗きこんで「ごめん、今日、お歌の時間とれないからみんな遊んでて」と言うと、急いで職員室に向かった。
その数分後、傘を差してグラウンドを抜け、「としあきくーん。どこー?」と大きい声で呼びながら校門のほうへ向かう藤宮がいた。校門は園児たちが登園した後は閉まっているはずだ。
「かくれんぼかなぁ?」
夏海は利秋を探す藤宮を見て言った。
「えー、一人だけずるーい」
「かくれんぼボクもやりたーい」
「歌のあとは帰るだけなのにー」
夏海の声が聞こえた園児たちはつぎつぎに、利秋一人だけでかくれんぼをしていると思い、かくれんぼをやりたがった。
「でも、藤宮先生なんで外探してるの?」
「靴がないんだよ。……ほら」
夏海の疑問に今日子は利秋の靴箱を指差して答えた。
「でも、あきくんカッパもってってないよ。部屋にあったもん。雨あたるのやでしょ」
夏海が言った。
「じゃあ、外じゃないのかなー?」
今日子は利秋がどこで何をしているのだろうかと考えた。
そういえば、利秋はカバンに画用紙とクレヨンを入れていた。そういえば、今日は給食もお弁当もないので歌の時間が終われば帰るだけだった。そういえばお昼に、もうすぐ雨がやむと言っていた。
考えてしばらくして今日子は走りだした。
「今日子も探してくるー」
今日子は夏海にそう言い残した。
「あきくんみーつけた」
利秋は靴下のみを履いた格好で、ホールの隅っこでカバンに入っていた画用紙とクレヨンで絵を描いていた。体育の教室に使われることもあるホールだったが、現在はどのクラスも使っていなかった。
ホールは校門から比較的近い。もうすぐ帰る時間なので校門が開くはずだ。その時には雨もやんでいるのでカッパを着ずに外に出れる。そして床もツルツルで誰もいないので邪魔されずにお絵描きをして帰りの時間を待つことができた。なので、今日子は利秋はここにいるのではないかと考えた。
「この絵、誰?」
利秋の描いた絵は決してうまくはないが、人として認識できる人物が一人だけ描かれてあった。絵の中の人は笑っているように見えた。
「……ママ」
利秋は答えた。
「ママのこと大好きなんだね。今日子もママ大好き。でも……」
今日子は利秋が使ってないクレヨンを取って画用紙に描き足した。
「こうすればもっといいよ」
利秋の母親の絵が描かれている箇所から少し離れている箇所に今日子は一回り小さい人物を描いた。
「あきくんだよ」
「…………」
利秋は絵を見つめていた。
「でも、これじゃ何でお母さんが笑ってるのかわからないよね」
そう言って利秋の絵のすぐとなりに女の子の絵を描いた。
「今日子ちゃん?」
利秋は絵をみて言った。
「うん。今日子だけじゃないよ、他にもなっちゃんもいるしゆずちゃんもいるし藤宮先生もいる」
今日子はすばやく利秋と今日子の絵のまわりに丸い顔のようなものをたくさん描いていった。
「あき君のお母さんはきっと幼稚園で一人で遊んでることよりも、友だちいっぱいで遊んでるほうが嬉しいはずだよ」
「……友だち?」
「うん。友だちだよ。一人ぼっちよりも絶対に楽しいんだから」
「今日子ちゃんとあきくんみーつけた」
後ろから夏海の声が聞こえて今日子は振り返った。
夏海の後ろにはさらにつくし組の園児みんなが夏海についてきていた。
「みんな、かくれんぼしたいだって。雨もやんだよ!」
今日子は立ち上がった。
「よーし。じゃあ次、今日子たちが鬼だよー。10数えるからみんな隠れてー」
その後、今日子は10数え、今日子は隠れたみんなを探そうとした。
「あきくんいこっ!」
今日子は利秋に手を差し伸べた。
利秋は少し戸惑ったものの、今日子の顔を見つめた後、今日子の手を握った。
「行こう!」
利秋は言った。
その後、利秋は隠れている子をつぎつぎに見つけ、「なっちゃんみつけた」と嬉しそうに言っていった。
それから利秋は一人ではなくクラスの友だちと遊ぶことが多くなり、笑うことも増えていった。
今日子も利秋と一緒に遊べてうれしく思った。




