第3話~今日子3歳~後編
「ほら今日子、納豆食べよ。おいしいよ」
咲也の実家に行って、一ヶ月たった9月のある日の晩御飯中、佳子は今日子に納豆を食べさせようとしていた。
あの日、今日子が納豆を口から出して、「あなたが食べさせてこなかったからでしょ!」と千歳が佳子を怒ったのであった。
「ヤダ。いらない!」
今日子はあれ以来、納豆が嫌いになって食べようとしなかった。
「おいしいんだよこれは、ママ今から食べるよ、見ててね」
そう言って佳子は目をつぶって鼻をふさぎ、納豆を口に入れた。明らかにまずそうに食べている顔だった。
「ほら……、おいしいよ……。ママも食べたから今日子も食べよ?」
「いらない! おやつ食べる」
今日子は椅子から降りておやつの置いている台所に移動した。普段からおやつは台所に置いている食器棚の一番下の棚に、おやつを入れており、今日子はそのことを知っていた。
「ちょっと今日子、まだご飯中よ。納豆はもういいから、他のは食べて……」
「いらない!」
今日子は封の開いているたまごボーロを取り出して食べ始めた。佳子はすぐに、たまごボーロの袋を取り上げた。
「いいかげんにしなさい今日子。ご飯食べ終わってないでしょ!」
「お腹いっぱーい」
「じゃあ、おやつも食べないの!」
「おやつは食べるー」
今日子がそう言って佳子は頭を抱えた。今日子としては、おやつは食べたいがご飯は食べたくないと思っていたので、それができなければここにいる意味はないと思った。
「じゃあもう寝る!」
怒るように言って、今日子はベッドの置いている部屋に行った。
それ以来、今日子はご飯を全く食べない日や、食べてもほとんど残すような日が多くなった。
11月15日。今日子は自宅にて、祖母の花木時子が購入した赤い着物を身にまとって鏡を見つめていた。今日はこれから七五三のため、近くの長山寺に行くのであった。
普段の服装とは全く違う、かわいい着物を身にまとった今日子は鏡を見てほほえんだ。
今日子はさらに後ろをむき、鏡をチェックした。どの方向からみてもかわいいと思えた。
「わざわざ購入しなくても、レンタルでよかったんじゃないの? まだ年金だって支給されてないのに」
着物姿の今日子を見ていた佳子は、母の時子に尋ねた。
「何言ってるの。むしろ、今日子ちゃんがこんなに喜んでるのを見ると買ってよかったって思ったぐらいよ。また着たいと思ったら、お正月の初詣にも着ることができるしね。それにお金のことなら気にしないの。家のローンは数年前に返し終わってるし、お父さんが『老後は優雅に暮らす』って言って貯めてきたお金もあるしね」
昨年亡くなった時子の夫の花木翔午は、時子や佳子が想像していた以上の財産を残していた。その額、約3500万円。法的には佳子と佳子の兄の花木夕作は相続する権利はあるのだが、二人とも相続放棄したので、相続税を除いたのほとんどの額が時子に渡ったことになる。
「本当は、佳子の時も買ってあげたかったんだけどね。お父さんが『そんなとこに金使わんでいい』っていったから……」
「お父さんらしいよ。だから財産もいっぱいあったんでしょ?」
「そんなにケチならタバコもやめてくれたらよかったのにね……」
時子はうつむきながらつぶやいた。
「あっ! なっちゃんなっちゃん!」
長山寺に着くと今日子が同じマンションの夏海を見つけて叫んだ。佳子は今日子の手をつないで歩いていたが、今日子が夏海のほうに行きたがっていたので手を離すと、今日子は走って夏海のほうに向かった。
「なっちゃんかわいい!」
夏海の着ている着物を見てそう言うと、今日子は夏海の前でぐるぐる回り出した。
「……きょうこちゃんかわいい!」
今日子の姿をぼーっと見つめていた夏海だったが、しばらくして夏海も言った。
その後、今日子と夏海の二人は受付で千歳飴をもらい、他の七五三に来た子と一緒にご祈祷をしてもらった。会場をでると受付で授与された絵馬に名前と年齢と願い事を書くスペースがあったので書くことになった。
「今日子、大きくなったらお絵描き屋さんになる!」
今日子がそう言ったので、佳子は今日子の言うとおりに書いた。
「なっちゃんは大きくなったら何になるの?」
「なっちゃんは大きくなったらサッカーボールになる!」
佳子は絵馬を書きながら思わず吹き出した。
「サッカーボールになってコロコロころがるの!」
「たのしそー!」
今日子は夏海の夢に疑問をもってないようであった。
「そういう考えもあるのか……」
佳子はそうつぶやいて先ほど自分が笑いそうになったことを恥じた。
七五三の次の週には幼稚園の面接があった。
佳子はどの幼稚園にしようか悩んだが、マンションのすぐ近くに幼稚園バスが停まっているのをよく見かけることもあって『あおぞら幼稚園』という場所に決めた。
ただ、幼稚園の場所自体は思った以上に遠く、電車で一駅行った先の、さらにそこから急な斜面の山を登る必要があった。
すでに坂を登って10分ほどたっており、普段あまり運動をしていない佳子はハァハァと苦しげに呼吸を繰り返していた。9月に行われた幼稚園の説明会は日曜日だったということもあり、咲也に車で送り迎えしてもらったのでこんなに大変だとは思っていなかった。
「今日子疲れたー。ママ抱っこ!」
急な斜面を登っている時に今日子は佳子に言った。
佳子としては、急な斜面を登ってきたためかなり疲れており、そのうえ今日子を抱っこしてこの斜面を登るのは、考えることすら嫌だった。
「幼稚園ももうすぐだから、一緒にがんばろ?」
「イヤ! 行きたくない!」
そう言って今日子はその場で座り込んだ。
面接の時間まで30分ほどしか時間がないということもあって、佳子はしかたなく今日子を抱っこしてお尻のスカートを軽くはたき、幼稚園にむかった。
それから5分ほどして幼稚園の校門が見えると佳子は今日子を降ろし、さもずっと歩いてきたかのように見えるように手をつないで歩き始めた。
「やっと着いた……。これから面接だからね」
佳子は息切れしながら言った。
「ブランコ! 滑り台も!」
園内に入って遊具を見つけると、今日子は佳子の手をふりほどいてブランコに乗った。
「ちょっと今日子、遊びに来たんじゃないからね。今から面接だからね」
佳子はふらふらとした足取りで今日子をおいかけた。手をつないでおけば大丈夫と思ったが、疲れているうえに今日子の力も強くなってきてすんなりふりほどかれてしまったのだった。
「ほら今日子、今から先生とお話しなきゃいけないんだから、行こ?」
「イヤ! 遊ぶ!」
今日子はブランコを揺らしながら言った。一年前と比べてだいぶブランコをこぐのがうまくなっており、かなり大きくブランコは揺れている。そのため、佳子もうかつに近づけなかった。
「今日子お願い! 終わったらおやつ買ってあげるから!」
佳子がそう言うと、今日子はブランコをこぐのをやめて佳子の顔をみつめた。
「いくつ?」
今日子はたずねた。
佳子は一個だけのつもりだったが、しぶしぶ指を二本立てた。
「2つ」
今日子は再びブランコをこぎはじめた。
「ウソウソ3つ!」
佳子が慌てて言うと、今日子はブランコから降りた。
「分かった! 行こ!」
今日子は建物にむかって歩き始めた。
「どこでそんな手を覚えたの……」
佳子は小さくつぶやいた。
「お名前は?」
「桜井今日子です」
「年はいくつ?」
「3歳です」
今日子は幼稚園の先生と面接をしている。面接の受付にはギリギリで間に合い、なんとか面接を受けることができたのであった。
面接は順調だった。佳子が想定していた質問をある程度練習させていたので、今日子もスラスラと答えることができた。
「今日は誰と来たの?」
この質問も想定内の質問であった。聞かれた時には『母です』と答えるように練習していた。
「ハハッ!」
今日子は笑うように言った。
先生は特に気にする様子もなく、右手に小さい積み木、左手に大きい積み木を手に持った。
そうして右手を動かしながら、「こっちと」といい、続けて左手を動かしながら「こっち」と言って、
「どっちのほうが大きい?」
と先生は尋ねた。
今日子としては以前、3歳児検診で同じことを言われたことがあったので、その時と同じように左に顔を動かそうと思ったが、今回はじっとしているように佳子に言われていたので、そのまま顔も体も手を動かさずに今日子は答えることにした。
「こっちのほう」
先生は困惑した表情になった。
佳子は、「どっちだよ!」と突っ込みたくなるのをこらえて今日子を見守った。
その後もいろいろあったが、なんとか今日子は幼稚園を合格した。
年が明けて2月になったが、今日子はご飯もろくに食べずにおやつばかり食べていた。
「こんなにおやつ食べたら、また晩御飯、食べれないでしょ。だからもうおやつはダメ!」
佳子は今日子が食べていたおやつをとりあげた。
「イヤイヤ、もっと食べる―!」
「そんなこと言う子には、今度からおやつはあげないよ」
「じゃあ、ご飯も食べない!」
今日子はそっぽをむいてスケッチブックにお絵描きしはじめた。
最近はこのやりとりばかりだった。いざ、本当に晩御飯の時間に呼ばないでいると本当に食べにこないので佳子も観念して晩御飯もおやつもあげている状態であった。
佳子はため息をついて、食事の支度にとりかかった。
今日の献立は肉じゃがだ。万が一、今日子が食べなくても数日にわけて食べることもできるので肉じゃがにした。それに、肉じゃがは佳子の得意料理でもあった。
牛肉・玉ねぎ・にんじん・じゃがいも・しらたきを切り、お鍋にサラダ油を入れて炒める。その後、だし汁を注いで中火で煮込んでいった。
徐々に、肉じゃがのいい匂いが台所にただよってきた。
佳子がふと横を見ると今日子がいつの間にか台所に来ていることに気づいた。
佳子は、今日子がおやつの催促に来たのだと思った。
しかし、今日子は佳子の予想とは違う言葉を発した。
「今日のごはん何?」
「えっ? 肉じゃがだけど……」
今日子は下を向いて何かを考えている様子だったが、しばらくして今日子は言った。
「じゃあ、食べる」
佳子はその言葉に驚いたが、できるかぎり驚いた素振りを見せずに自然に返した。
「じゃあ、お箸並べてくれる?」
「うん! 分かった」
そう言って今日子はテーブルの上にお箸を並べ始めた。お箸を並べながら、今日子は嬉しそうに鼻歌を歌っていた。
3月半ばのとある平日の昼。
今日子と佳子は近所のスーパー、スーパー神部で買い物をしていた。
晩御飯の食材を買いに来ていたが、ついでに今日子の好きなたまごボーロも買おうとお菓子コーナーに寄り、たまごボーロを取ってカートのかごに入れ、佳子はその場を去ろうとした。
「これも買って」
そう言って今日子はアニメのパッケージのついたチョコ菓子を棚からとりだした。
「じゃあ、たまごボーロは返すね」
そう言って佳子はたまごボーロを棚に戻そうとした。
「嫌! どっちも買って!」
今日子は叫ぶように言った。
「どっちかにしなきゃダメだよ。二つとも食べられないでしょ?」
「だいじょぶ! どっちも食べれるー!」
今日子はその場で足をじたばたさせて言った。
佳子はほとほと困り果てたようで、ため息をついた。
「そうやって良い子にしてない子は置いてっちゃうからね」
そう言って佳子は今日子を置いて、お菓子コーナーから出て行った。
だが、今日子は知っていた。しばらくすると佳子が戻ってくることを。
しかし、今日子の予想に反して5分たっても10分たっても30分たっても佳子は戻ってこなかった。
「お嬢ちゃんどうしたの? 迷子?」
50歳ほどの女性店員がお菓子売り場でじっと佇んでいる今日子に声をかけた。
「ううん。だいじょぶ」
今日子はそう言ったものの、心の中では不安だった。
もしかして、本当に自分を置いて帰ってしまったのではないか。悪い子だから捨てられたのではないか。
今日子はそんなふうに思った。
そうして今日子は先ほどの店員がお菓子コーナーからでていくのを確認すると、手に持っていた菓子を棚に戻し、走りだした。
「ママーママー」
今日子は泣きそうになりながら叫び、お菓子コーナーから飛び出した
「今日子!」
今日子は自分の名前を呼ぶ声が聞こえて後ろを振り返った。
「ママー!」
今日子は佳子のもとに駆け寄った。佳子はお菓子コーナーからは死角となるところで立ち尽くしていた。カートのカゴの中は空っぽになっていた。
「ごめんね今日子、ちょっと試しちゃった。でもママは信じてたよ。今日子なら追いかけてきてくれるって」
「ごめんなさい。ごめんなさい」
今日子は泣きじゃくり、目から涙があふれていた。
そうして、佳子は今日子の視線と同じ高さまでしゃがみこんだ。
「あのね今日子、幼稚園に行ったらいっつも一人で好きなことできるわけじゃなくて、みんなで一緒に行動しなきゃいけない時もあるの。一人でわがまま言って、勝手な行動をしちゃいけない。今日子にできるかな?」
佳子は今日子の目を見つめて言った。
今日子はまだ目から涙があふれているものの、そのまま佳子の顔を見つめて答えた。
「できる! 今日子できるよ!」
今日子は言った。
「よし、じゃあ大丈夫だね。買い物のつづきしようか」
「うん!」
そうして今日子はカートを押す佳子の横を一緒に歩いた。
ママにはかなわないな。というようなことを今日子は思った。
「今日の晩御飯、何がいい?」
「肉じゃが!」
「えー。こないだも食べたのに?」
「今日子、ママの作った肉じゃがだーい好き!」
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