第2話~今日子2歳~前編
5月の第4日曜日。
桜井今日子と、今日子の母の桜井佳子と父の桜井咲也の三人は、今日子の祖母で佳子の母の花木時子の還暦祝いのため、時子の家を訪れた。
「ばあちゃー!」
玄関で時子を見るなり、今日子は歩いて抱きついた。時子は抱きついてきた今日子の頭をなでた。
「いらっしゃい今日子ちゃん、しばらく見ないうちに上手に歩けるようになったわねぇ」
桜井家の三人と時子はリビングに向かった。
「はい、お母さん。還暦祝いのちゃんちゃんこ。定番だけどね」
リビングについて一息したところで、佳子は時子に還暦祝いの赤いちゃんちゃんこを手渡した。時子はちゃんちゃんこを手に取って眺めた後に、佳子の顔を見つめた。
「せっかくだから、佳子が着せてくれる?」
「えー、赤ちゃんじゃないんだから」
「だから、赤いちゃんちゃんこなんでしょ?」
「仕方ないなー」
言葉とは裏腹に、佳子はうれしそうにちゃんちゃんこを広げ、袖を時子の右腕に入れた。
「今日子がやるー」
ちゃんちゃんこの右側を入れ終わったところで今日子が言った。
「じゃあ、今日子は左側をお願いね。ママの大事なママなんだから、キレイに入れてあげてね」
「うん!」
そう言うと今日子はちゃんちゃんこの左側の袖をつかんで、時子の左腕に入れようとした。ただ、ちゃんちゃんこを力強く引っ張って破きかねなかったため、結局ほとんど時子が左腕を動かして、ちゃんちゃんこの中に腕を入れた。
「ありがとうね、今日子ちゃん」
「ありがとう!」
今日子は言った。
「今日子ちゃんも立派になったなぁ。ママの手伝いをしようとするなんてなぁ」
そばで見ていた今日子の祖父で時子の夫の花木翔午は感慨深げにそう言い、ポケットからタバコを出した。
「ちょっとあなた、タバコ吸うなら庭に行ってくださいね。子どももいるんですから」
「ああ、すまんすまん」
そう言うと翔午はゴホッゴホッと咳をして、一息つきに庭にでて濡れ縁に腰掛け、タバコを吸い始めた。
「まったく、結局この歳になっても禁煙しなかったわね。夕作を妊娠した時から辞めてって言ってるのに……。タバコのせいか、最近は咳も多くなってきたし」
時子はため息をついた。
「おじゃましまーす」
玄関からそう聞こえたかと思うと、今日子の伯父にあたる花木夕作、その妻の花木真昼、その娘で今日子の従姉妹の花木朝陽がリビングにやってきた。
「今日子ちゃーん」
朝陽は今日子を見つけるなり、今日子に駆け寄ってだきしめた。
今日子は、朝陽を誰だか思い出せなかったが、自分と同じ子どもがあらわれたことに喜んで笑った。
「佳子たちも来てたのか。ちょうどよかったよ」
夕作はそう言いながら、カバンから赤いマグカップをとりだしてテーブルの上に置いた。
「これ還暦祝いのマグカップ。テーブルの上に置いとくから」
「あ……ありがとう……」
還暦祝いのプレゼントを手渡しでなく、少し見せてテーブルの上に置いた夕作に対して、困惑するように時子はそう返した。
「親父は?」
「庭でタバコ吸ってるわよ」
夕作の質問に時子は答えた。
「そうか」
夕作はそう言うと、庭へでて、翔午に話しかけた。
「親父、ちょっといいか?」
「おお。夕作も来てたのか。お前も一本吸うか?」
「イヤ、今は遠慮しとく。それより、話あるから一服したらリビングに来てもらっていい?」
「なんだあらたまって。ちょうど今一服したところだからそっちにいくよ」
翔午はそう言うとタバコを灰皿にいれ、リビングに戻った。
翔午がリビングに戻ると、夕作が座布団を敷いてそこに座るように促し、翔午は時子の横に座った。対して、夕作は翔午の対面に座り、その横に真昼と朝陽を座らせた。今日子達、桜井家の三人は、翔午の後ろでその様子を伺っている。
「この度はご還暦を迎えられ、おめでとうございます。いつまでもお元気でご活躍ください」
最初に話を切り出したのは真昼だった。あぐらをかいている夕作とは違い、真昼は正座をしながら頭を下げてそう言った。
「おめでとうございます」
隣の朝陽も真昼の真似をしながらそう言った。
「い、いえそんな頭を下げていうことじゃないでしょ。頭をあげてちょうだい」
「はい」
真昼はゆっくりと頭をあげた。
「ついでといっては失礼ですが、本日はもう一つ、ご報告があってうかがいました」
真昼が話を切り替えた。その後、真昼は自分のお腹をさすって言った。
「二人目を妊娠しました」
一瞬、8人のいる部屋が静寂につつまれた。
「えっ!? そうなの、おめでとう! 離婚か引っ越しか悪い方の報告かと思ったからよかったわ」
静寂を破ったのは時子だった。
「それはまた朗報な話じゃないか。定年になって平凡な日常を送っていたが、生きる楽しみが増えたよ。予定日はいつなんだ?」
翔午は尋ねた。
「それが、12月31日なんです」
「大晦日か。いい年明けになりそうだな」
翔午はそう言って笑った。
「前に朝陽ちゃん、赤ちゃんほしいって言ってたもんね。よかったねぇ」
佳子は2年前のこの場所で朝陽が「赤ちゃんほしい」と言っていたのを思い出し、そう言った。
「うん。男の子!」
朝陽はうれしそうにそう言った。
「えっ? もう性別分かってるの?」
時子は驚くように真昼に尋ねた。
「いえ、朝陽がそう思っているだけです。リンカルという男が産まれる確率が高くなる薬を飲んではいましたが、まだ判明はしていません。朝陽には女の子だったとしても優しくしてあげてねと伝えています」
「男の子かー。それなら、グローブ買って一緒にキャッチボールしなきゃならないな」
翔午はそう言って、左手をグローブのような形にし、右手を拳にして左手に入れる動作を繰り返した。
「おいおい親父、俺が子どもの時はそんなことしてもらった覚えないぞ」
「仕方ないだろ。あの時は仕事で忙しかったんだから。それにくわえて今は定年して暇だしな。それにしても、十年ぐらい前は家族や親戚は減っていく一方だったが、最近は逆にどんどん増えていって楽しくなってきたなぁ。年取るのも悪いもんじゃないな。ゴホッゴホッ」
翔午は咳き込みながらそう言った。
一方、今日子は真昼たちの話していることがよく分からず、佳子にむかって首をかしげた。佳子は首をかしげた今日子に気付き、優しく伝えた。
「真昼さんのお腹の中に、赤ちゃんがいるんだって。今日子の新しいイトコだよ」
佳子はお腹をさすりながらそう言った。
「あかちゃ……」
そう言って今日子は佳子のお腹をさすった。
「一応言っておくけど、ママのお腹の中には赤ちゃんはいないからね」
6月のとある平日の朝、今日子と佳子は梅雨時期の晴れ間の天気ということもあってマンションの隣にある公園に足を運んだ。昼以降になると小学生や園児たちが元気に遊びまわる場になるが、平日の朝はみんな学校や幼稚園に行っているので、今日子たちでも安心して遊ぶことができた。
その日、今日子達が公園にいくと、すでに6階に住む今日子と同い年の桃園夏海とその母の桃園久美の姿があった。夏海は紫色のサッカーボール大のゴムボールを足で蹴って遊んでいるところだった。
「おはようございます。夏海ちゃん、すごい器用に動いてますね。サッカーみたい」
佳子は久美に言った。
「おはようございます。そうなんです。父親と小学1年生のお兄ちゃんがサッカー好きで、その影響で好きになったみたいで……」
今日子が夏海に近づくと、夏海は「パー」と言いながらボールを軽く蹴って今日子のほうへ転がした。
今日子はボールが転がってくるのが気づくと、そのボールを手で取り、そのまま手でボールを投げ返した。
「ちーがーうー」
手でボールをとった今日子に夏海はそう言い、足踏みした。今日子の行動に対して怒っているようであった。
今日子は何が悪かったのか分からず、困惑した。
「今日子、夏海ちゃんはね。足で蹴って返してほしいんだって。多分、こんな感じかな」
佳子は今日子にそう言って、ボールを蹴るような動きを見せた。
「夏海ちゃん、もう一回、今日子にボール渡してあげて」
佳子がそう言うと、夏海は再び今日子のほうへボールを蹴った。
今日子は再度ボールを受け取り、先ほど佳子がやっていたように足を動かしてボールを蹴った。ボールは夏海のいる位置から少しはずれたものの、ゆっくりと転がっていった。
その後、今日子はだんだんと蹴るのに慣れていき、うまく夏海にパスできるようになり二人はボールを蹴り合う遊びを続けていた。
「パー」
「パー」
二人共、蹴るタイミングで大きい声でそう叫んでいた。
その時、佳子の携帯電話の音がなり、今日子達から少し距離をおいて電話にでた。
「もしもし? お母さん、どうしたの……?」
一方、今日子は勢いにのってきたため先ほどよりも強くボールを蹴ってみることにした。
今日子の蹴ったボールは、夏海の横を通りすぎて公園の端まで転がっていってしまった。夏海は転がるボールを追いかけて取りにいったが、途中、シロツメクサが生えている場所で座り込み、シロツメクサを抜き始めた。
その夏海の姿を見て今日子も夏海の隣に駆け寄ってしゃがみ、今日子も一緒になってシロツメクサを抜き始めた。花が咲いているものもあったがほとんどは草だけのもので、今日子は草のほうを抜いていった。
何本か抜いていると、今日子はその内の一本が他と何か違うように感じ、今日子はその一本をじっと見つめた。
「あっ、それは四つ葉のクローバーだね」
今日子の横にしゃがんだ久美がそう伝えた。
「ほら、葉っぱが他と違ってイチ、ニー、サン、ヨン枚。だから四つ葉のクローバーっていうんだよ。見つけた人は幸せになるっていわれてるの」
「よちゅば……」
今日子は再び、手に持った四つ葉のクローバーを見つめた。
「あげるー」
今日子が四つ葉のクローバーを見つめていると、夏海が手にいっぱいにつんだシロツメグサを今日子に手渡した。
「ありがとー。じゃあ、これ!」
今日子は代わりに手に持っていた四つ葉のクローバーを夏海に渡した。
「ごめんなさい。私のお父さんが急に体調不良を訴えて病院に運ばれたみたい。私、ちょっと行かなきゃ。今日子、夏海ちゃんにバイバイしてね」
先ほどまで電話していた佳子がそう言って駆け寄り、慌てるように久美にそう言った。今日子は言われたとおり、夏海にバイバイと手を振り、佳子に自転車に乗せてもらって病院へ向かった。
「肺ガンですか……」
佳子は医師にそうつぶやいた。
今日子達は病院につくなり医師に呼ばれ、診察室に入った。佳子が座ってその膝元に今日子が座り、その横に時子が座り、対面に医師がいるという構図だ。
そうして今日子の祖父の翔午が肺ガンだと伝えられた。
「ステージ4の肺ガン、わかりやすくいうと、末期のガンということになります。今まで普通に生活できていたのが不思議なぐらいです」
医師はたんたんとそう言った。
「しゅ……手術はできないのでしょうか?」
時子が息を呑んでそう尋ねると、医師はゆっくりと首を横に振った。
「すでに、食道や肝臓など、全身に転移しています。全て取り除くのは難しいでしょう。例え、手術したとしても、60代の翔午さんでは体力をかなり消耗してしまいます。それよりも、抗がん剤治療を続けて、少しでも長く生きられるほうをオススメします。ただ、肉体的に負担は大きくなりますし、治療を受けたとしても……申し上げにくいのですが、半年もてばいいほうだと考えてください」
「半年……」
半年後といえば、真昼のお腹の子が生まれるころだ。
「主人は、半年後に産まれる息子の子どもを楽しみにしているのです。先生、どうか主人を、その子にあわせてやってください」
時子は医師の手を強くにぎって必死な様子で頼み込んだ。
今日子はその姿を見て腕をのばし、時子と同じく医師の手にふれた。
「三世代で頼まれたら断り用もありません。全力をつくします」
医師は力強く言った。
それから翔午の入院生活が始まった。だが、抗がん剤治療のせいか肉体的にも精神的にも弱っていき、時々声を荒らげて泣くこともあった。
それにつられて今日子も泣きだし、佳子は今日子を抱きしめて背中を軽く叩き、病室をでた。今日子が泣き止んだのはいいものの、今度は佳子が泣きだした。佳子にとって、父が泣いているのを見るのがその時が初めてだった。
翔午が入院して1ヶ月がたった土曜日。
今日子と佳子と咲也は慌ただしく出かける準備をし、マンションの機械式駐車場に入れてある車を出そうとしていた。
桜井家の車は機械式駐車場の地下に入れてあるため、出庫するのに少し時間がかかり、佳子は焦りを感じて足をじたばたさせていた。
「今からどこいくのー?」
今日子は佳子にたずねた。
「おじいちゃんのところよ。今日は早く行かないといけないの」
先ほど、家の電話に夕作から翔午が危篤状態だと連絡があった。医師にそう連絡があって今向かっているところらしい。
ようやく車が地上にあがり、柵が開いて三人は車の中に乗り込み、佳子は今日子にチャイルドシートに装着した。それを確認して咲也は車を走らせた。焦る思いはつのるばかりだった。
「ゴーゴー!」
事情を把握できていない今日子は楽しそうにそう言った。
10分ほどして今日子達は病院にたどりつき、佳子と、今日子を抱っこした咲也は急いで病室にむかった。病室は2階ということもあり、エレベーターを待つのももったいないということで、階段を使って走るように駆け上がった。
翔午の病室の前にたどりつくころには、佳子も咲也もハァハァと息を切らしていた。
佳子は一度、つばを飲み込み、緊張した面持ちで取っ手に手をかけて扉を開いた。




