第1話~今日子1歳~前編
桜井今日子の初めての誕生日から数日がすぎた4月の第一土曜日の夕方、今日子は誕生日プレゼントとして両親の桜井佳子と桜井咲也からもらった積み木で遊んでいた。遊んでいるといっても、積んでは壊して積んでは壊しての繰り返しだ。
「楽しそうに遊んでるなぁ。迷って買ったかいがあったよ」
横から声が聞こえて今日子は振り向いた。振り向いた先には咲也が座って今日子を見つめている。
「ほらほら、パパだよ―。こっちにおいでー」
今日子が振り向いたためか、咲也は今日子に呼びかけた。
「マーマ、マーマ」
そう言いながら今日子はハイハイして咲也に近づいていった。
「いや、ママじゃなくてパパだって」
「マーマ、マーマ」
「だから、ママじゃなくて、パパ! パーパ!」
「マーマ、マーマ」
「いやだから、ママじゃなくて、パ……」
「いつまでやってるの」
無限ループに陥りかけていた今日子と咲也の会話、もしくはコントを佳子は強制終了させた。
「だって、ママとは言ってるのに、パパは言ってくれないなんて……、ズルいよ……」
「ズルいと言われても……」
「いつになったらパパって呼んでくれるのかなぁ」
咲也はそう言って今日子を180度回転させて膝の上に乗せ、頭をなでた。今日子は咲也の膝の上に乗ったことにより、先ほど遊んでいた積み木が目に入り、またそちらへ向かったハイハイしだした。
「やっぱり、別のにしたほうがよかったか……」
咲也はつぶやいた。
「そういえば、家買おうって話だけどさ、夕作さんの家の近くにマンション建つだろ?」
咲也は食卓のイスに腰掛け、話題を変えた。
「マンションって、あのスーパー神部の近くの?」
「そうそう。チーターズ高塚っていうそうなんだけどさ、あそこどう思う? 10階建てだけど、周りに遮るものもないし、上の方だと景色もよさそうだと思って。後、駅から徒歩15分でスーパーもコンビニも近い。さらに、佳子の実家とも夕作さんの家とも近いし」
「確かにいいよね……でも……」
そう言いながら佳子は今日子のほうに視線を向けた。
「もう少し先でもいいんじゃない? 頭金だって多いほうがいいだろうし、今日子だって今でも元気にハイハイしてるのに、歩けるようになったらもっとドタバタうるさくなっちゃうんじゃない? 今はハイツの一階に住んでるからいいけど、マンションの上のほうに住むとなると下の人に迷惑になりそうだし……」
「うーん……確かにそう言われてみればそうかもしれないなぁ」
そう言って、二人して今日子のほうを見つめた。
今日子は真っ白な壁のほうに視線を向けていると思いきや、そのまま視線を上にあげ、積み木を渡すような素振りをみせてそのまま積み木を落とし、キャッキャと笑った。その動作はまるで、誰かと遊んでいるようだった。
「やっぱり早めにこの家、出ていったほうがいいんじゃないか?」
「そうかもね」
こうして二人は引っ越しを決意した。
気候が徐々に暖かくなってきた5月半ばの日曜日の正午過ぎ。佳子が大学時代の友人と映画を見に行っているため、今日子と咲也が二人でお昼ごはんを食べていた。
すでに今日子は大人と似たような食事を食べることができ、不器用ながらスプーンを使って口にご飯を運んでいる。お茶もコップに入ったコップを自分で掴んで飲むことができるようになってきた。だが、まだまだうまく食事をすることはできず、スプーンを口に持っていくまでにボロボロとこぼしたかと思えば、お茶も飲む時に口の横からダラダラとこぼれてしまっていた。
それを見た咲也はあわててフキンを持ってきて今日子の汚れた服などを拭いた。咲也の食事はなかなか進みそうになかった。
食事をした後に今日子はオシッコをした。オムツをしているので取り替えなければいけない。最近の今日子はオシッコをした場合にはうまくは言えないが、言葉で伝えるようになっていた。
「しーしーた。しーしー」
「えっ? ごめん、何?」
今日子はオシッコをしたからオムツを替えてほしいと咲也に訴えたが、伝わらなかったようなので、仕方なくオムツの置いている場所にハイハイしてむかった。
「あー。オムツ交換してほしいのか。ごめんな、気づかなくて。教えてくれてありがとう」
今日子の行動で何をしてほしいか察した咲也だったが、咲也の慣れていないオムツ交換に時間がかかり、今日子は少し苛立った。じっとしているのも辛くなってきたので、まだ履き替えている最中だったが、今日子は下半身を露出させたままハイハイしだした。
「ちょちょちょ、動いちゃダメ動いちゃダメだって」
結局、10分が経過してようやくオムツを履き替えることができた。
午後2時半になり、今日子は積み木を使って遊んでいた。1ヶ月前と違い、今はすぐには壊さず、ある程度積んでから壊すようになっていた。
「そういや、2時半ぐらいに洗濯物入れといてって頼まれたなぁ。洗濯物いれてくるから、ちょっとだけおとなしく一人で遊んでてね」
そう言って咲也は洗濯物を入れに、隣の部屋から外にでていった。今日子はその様子を見届けると、再び一人で積み木遊びを始めた。咲也は一つ一つ衣類をはたいて部屋に入れている。今日子が今いる部屋と外に通じる部屋はフスマで仕切られているが、普段は開けっ放しにしているので、今日子から咲也が洗濯物をいれていくのが見えた。
今日子は引き続き積み木を積んでいって、2個、3個、4個と高くしていった。ある程度高くまで積んで、もう一個上に置こうとしたが、あいにく全て使い切ってしまった。
ふと、今日子は横を見ると、ローテーブル代わりのコタツが目に入った。今日子はそのコタツの上に積み木を置き、先ほどよく高く積み上げようとした。
だが、片方の手を支えとしてコタツに手をつき、もう片方の手で積み木を手にとっていたので、今日子はバランスを崩して転倒しそうになった。
その瞬間、ズササササー、という音が部屋に響いた。
転倒しそうな今日子に気づいた咲夜が、今日子を支えようと走りだし、入れたばかりのタオルで足を滑らせて、転倒したのであった。一方、今日子は転倒しそうになったものの、うまくバランスをとってなんとか転倒することなくつかまり立ちしていた。
今日子は呆気にとられたような顔で転倒した状態の咲也を見ている。
「きょ、今日子ー!」
咲也はうつ伏せの状態のまま、手を伸ばして今日子の名前を叫んだ。
今日子はその呼びかけに答えるように、一歩、二歩、三歩と足をふみだし、咲也に近づいて手を床につけた。咲也はその光景を見て呆気にとられた。
「歩いた? 今、歩いた? いつから歩けたんだ? いや、佳子から写真送られてきてないし、もしかして初めてか? うおー。とうとう今日子の初めてを目撃してしまった。写真とれてないけど、佳子にメールしなければ」
そう言って咲也はうつ伏せの状態のまま、ポケットから携帯電話をとりだした。
「マーマ」
「だからママじゃないって」
午後4時をすぎ、今日子と咲也は近くの公園まで散歩しに来ていた。
「ブラブラ、ブラブラ」
そう言いながら、今日子はブランコを指さした。そのブランコは座る場所が木の板一枚になっているものではなく、オムツのように丸みをおびた形で両足を入れて乗るタイプのブランコだった。
「乗りたいのか? ちょっと待ってろよ」
咲也は言って今日子を抱き、ベビーカーからブランコに移動させた。咲也は後ろからゆっくりと揺らした。
今日子はブランコに乗って揺れていることに、キャッキャと喜んだ。
「あっ、今日子ちゃん」
今日子がブランコに乗ってしばらくたった時、ベビーカーを押した女性が近づいてきた。
「今日はパパに連れてきてもらったんだ。よかったねー。イクメンパパだねー」
女性は今日子の視線までしゃがむと、そう言った。それを聞いた今日子はニヒヒと笑っている。
「あ、あの……。どちら様ですか?」
急に今日子に話しかけた女性に咲也は尋ねた。
「あ、すみません。竹中と言うものです。最近、公園デビューした者なんですが、うまくなじめなくて……。そんな時、今日子ちゃんと奥様の佳子さんに話しかけてもらいました。奥様には感謝しています」
今日子に話しかけた女性、竹中亜紀はそう言った。
「そうなんですか」
咲也はそう言うと、亜紀が横に止めたベビーカーの中を覗いた。ベビーカーの中には生後半年ほどとみられる赤ちゃんが眠っている。
咲也はその後、今日子の顔を見て満足そうな顔をして亜紀に伝えた。
「かわいいお嬢さんですね」
「いえ、息子です。利秋といいます」
今日子はその横で笑っていた。いつの間にか、自分で膝を動かしてブランコを軽く漕いでいる。
咲也は気まずい思いをして何と返せばいいか考えていたが、その途中で先ほどまで寝ていた利秋が起き、突然泣きはじめた。
「すみません、私はこれで……」
亜紀はそう言うと、頭を軽く下げて公園の端っこのベンチに向かって歩き出した。
「赤ちゃんは性別分からないもんだな。今日子は誰が見てもかわいい女の子だけど」
咲也はそうつぶやいて再び今日子の乗っているブランコを押そうとしたが、今日子はブランコに飽きたらしく、滑り台を指さして「うーうー」と言いながら、滑りたいと訴えた。
咲也が滑り台に目をやると、母親らしき人が赤ん坊を抱いたまま滑り降りていた。
「よし、じゃあ今日はとことん遊ぶか!」
その後、今日子と咲也は滑り台で一緒に滑ったり、馬の形をしたスプリング遊具に乗ったり、咲也が今日子を高く持ち上げながら走ったりして時間をすごした。
それから時間がたち、今日子はベビーカーの中で目を覚ました。ベビーカーはゆっくりと動いていた。日はかなり落ちてきており、空は少し夕焼け色にそまっている。周りの町並みは家の近所で、今日子の見慣れた景色だった。
今日子は寝る前のことを思い出そうとした。公園でいっぱい遊んだ後は、今日の晩御飯を買うためにスーパーに向かい、スーパーにいる間に疲れて眠ってしまったということを思い出した。
その時にベビーカーを押していたのは咲也なので、今も咲也がベビーカーを押しているはずだが、上を見ても、そこからは誰が押しているのかは分からなかった。
「パパぁ?」
ベビーカーを押しているのが本当に咲也なのかどうかを確かめるために、今日子は呼びかけるように言った。
「ん? 起きたのか? どうした?」
咲也の声が聞こえて今日子は安心した。咲也かどうかを確かめたかっただけなので、今日子は咲也の質問には返さず、なんだか嬉しくなって、ニヒヒと笑った。
その数秒後、動いていたベビーカーが突然止まり、ベビーカーの後ろにいた咲也はベビーカーの前に移動して、今日子と同じ視線の高さになるまでしゃがんだ。
「…今、『パパ』って言ったよな? もう一回! もう一回だけお願い! パパって言って!」
咲也は両手の手のひらをあわせ、祈るようにして言った。
今日子は咲也の顔を見たが、先ほどと同じ、いや、先ほどより嬉しそうに笑っているだけだった。
その後も今日子は順調にすくすくと育ち、6月には断乳し、7月には外に出て行く時にも歩くようになり、8月にはかなり歯が生えてきて、10月の1歳半検診でも何の問題はなく、11月には自分で着替えができるようになった。
時はたち、1月の第4月曜日。
それまで健康優良児といってもいいのではないかというぐらい健康的だった今日子だったが、この週末は咳や鼻水が、今朝になって熱も38度と高かったこともあり、佳子は今日子をつれて小児科病院に来ていた。
診断の結果、風邪とのことだった。薬を処方するので、その薬を飲んでぐっすり眠ったらよくなるだろうとのことだった。
今日子と佳子は診療室から待合室に戻り、空いているイスを見つけ、腰をおろした。
佳子は左隣に座った今日子の顔を見て、辛そうだと思った。
「大丈夫。薬飲んでねんねしたらすぐ治るだろうから」
「うん……」
今日子はコホッコホッと咳をした。咳が多く、喋るのも辛そうであった。
その数秒後、待合室にいる赤ん坊の一人が急に泣きだし、連鎖反応で次々と待合室にいる赤ん坊が泣き始めた。
佳子の右隣の女性の膝元で座っている、ちょうど1年ぐらい前の今日子ほどの大きさの男の子の赤ん坊も泣きだし、つづけて今日子も泣き始めた。
佳子は、カバンからスーパーのレジ袋をとりだして丸め、両手でこすり合わせてカサカサカサと音を鳴らした。
すると、今日子は泣き止み、佳子の右隣にいる赤ん坊も泣き止んだ。
赤ん坊を抱いている女性は不思議に思うような顔で佳子のほうを見た。
「こないだネットで見たんですけど、こうやると赤ちゃんが泣き止むそうなんです。こう、カサカサって…」
そうやって、佳子は先ほどと同じようにレジ袋をこすりあわせた。
「ありがとうございます。時々泣き止まないことがあったので、今度から試してみます」
佳子の隣にいる赤ん坊はレジ袋が気になったようで、佳子から袋をとりあげ、自分でこすりあわせた。
「ダメでしょ、春樹、人のものとっちゃ」
「いや、いいですよ。ゴミみたいなものですし、春樹くんも気に入ったみたいですしね」
春樹たちとは初対面だったが、先ほど女性が春樹と呼んでいたので佳子もその名を使って話した。
コホッコホッと今日子はまた咳をした。
「大丈夫ですか? お子さん?」
春樹の母親、梅崎曜子が今日子の咳に心配したようで、そう尋ねた。
「はい、この子……、今日子はただの風邪みたいですし、えっと、春樹くんもどこか具合が……?」
「いえ、今日は検診で来たんです。先日の10ヶ月検診には仕事で行けなかったので……。今日は仕事が休みだったので行っておこうかなと」
そういや、昨年の今頃も今日子を検診に連れて行ったのを佳子は思い出した。ふと、佳子は気になって曜子の目の下を見てみると、メイクで隠そうとしてはいるがかすかにクマができているのが分かった。ちょうどこの時期は今日子も夜泣きが大変で、佳子はなかなか寝付くことができなかった。そのうえ、先ほどの曜子の言葉から、働いているらしいことが分かるので、本当に大変な生活を送っているのだろうと、佳子は思った。
「じゃあ、小学生になったら、今日子の一学年下になるのかな? 今日子は一昨年の4月2日に生まれたので」
ふと、佳子は尋ねた。今日子の一年前ほどの体型で、名前に春とついているのと10ヶ月検診が先日という話から春樹も4月産まれだと思ったのだった。
「いえ、春樹は昨年の3月26日に生まれたので、小学生になったら同級生ですね」
曜子は言った。
「……えっ?」
一瞬の間があって、佳子は女性の言葉に少し驚いた。驚いてすぐに、3月生まれだと確かに10ヶ月目ということに気づいた。
「そ、そうですよね。すみません、私、勝手に勘違いしちゃって」
「いえ、年度の最後の月なのでややこしいですよね」
その後、「梅崎さん、診察室のほうへどうぞ」という受付の声で佳子の隣に座っていた親子は診察室に向かい、その後すぐに「桜井さん」と呼ばれたので会計をし、病院をでようとした。
その時、最近二語話せるようになった今日子が、
「ママ、だっこ!」
と、抱っこをせがんできたので佳子は今日子を抱っこして病院を出、病院をでてすぐの場所に駐めている自転車に乗せた。
帰りしな、自転車をこぎながら佳子は先ほどの春樹のことを思い返した。
「不思議な感じ。今の今日子とは全然違うのに、小学生になったら同じ教室で勉強することになるかもしれないんだね」
現在の今日子は歩くことができ、簡単なものなら言葉も話すようになってきている。
たいして春樹は歩くこともままならないだろうし、言葉らしい言葉も話すようになっていないだろうと思われた。
ふと、佳子は春樹の誕生日が3月26日と言っていたのを思い出した。3月26日というのは佳子と今日子にとって特別な日だったのでどういう日だったかを覚えていた。今日子が初めて「ママ」と言った日だ。今日子が初めて言葉を話した日に春樹は産まれたことになる。それどころか、今日子が生まれた日は、春樹はまだ受精すらしてなかったことになる。
実は、3月26日にはもうひとつ特別な意味をもった日でもあった。3月26日は今日子の出産予定日であった。そうして、曜子は現在働いているというようなことを言っていたが、佳子も、最初は今日子が産まれても働くつもりでいた。つまり、もしかしたら今日子も春樹と同じような境遇になる可能性があったのだった。




