第7話~今日子7歳~前編
「ほら、もっと笑って笑って、入学式の記念の写真なんだから」
桜井今日子は『入学式』と書かれた看板を立てかけてある高塚小学校の校門前に立っていた。今日子の前にはカメラを構えている父の桜井咲也がおり、今日子は笑顔を促されているがうまく笑えずにいた。
入学式終了後、今日子は指定の教室に入って、教室の後ろのロッカーににランドセルを入れ、トイレに行った。
トイレから出た今日子はハンカチで手を拭きながら教室に戻った。
今日子はうつむきながら手を拭いていたので前を見ておらず、前から走ってきた男の子にぶつかり、今日子は転倒した。
「いたーい。もう! 廊下は走っちゃダメなんだよ!」
今日子はぶつかってきた男の子に言った。
「なんだよ。前を見てないのが悪いんだろ! 歯抜け!」
言われて今日子は口元を手で隠した。今日子の前歯は春休み中に抜けてしまっていた。校門前の写真撮影で笑えなかったのは、歯が抜けているからだった。
「歯抜けじゃないもん! ちゃんと、桜井今日子って言う名前があるんだから」
今日子が立ち上がって男の子を改めて見ると、非常に背が低いことが分かった。今日子より10cmほど低く、男の子の中では最も低いのではないかと今日子は思った。
「あなたの名前は?」
自分が名乗ったこともあって、今日子は男の子に名前を尋ねた。
「俺か? 俺の名前は梅崎春樹だ。背が低いからってナメるなよ!」
春樹は言った。
5月末の放課後、今日子と同じマンションの桃園夏海は小学校の運動場の鉄棒で逆上がりの練習をしていた。体育の時間に逆上がりをやったが、二人共できなかったのだった。
鉄棒は正門のすぐ近くにあり、逆上がりができる生徒は次々に帰っている姿がよく見えた。今日子も早く逆上がりができるようになって帰りたいと思ったので一生懸命に練習をした。
しかし、今日子は勢い良く走るように足を前にだしたものの、そのままズルズルと体がすべってしまった。
「こんなの絶対できないよ!」
今日子はそう言うといったん休憩することにし、水筒をとってお茶を飲んだ。夏海はまだ練習を続けていた。
「前にサッカー漫画でバク宙しながらシュートする場面があったんだよね。多分、そんな感じでボールを蹴るように……」
夏海はそう言うと、宙に浮かんだボールを蹴るように高く足をあげ、そのまま一周した。
「……できた! できたよ今日子ちゃん!」
「なっちゃんすごーい」
と今日子は言ったものの、まさか夏海がこんなすぐにできると思わなかったので内心焦っていた。
「じゃあ、夏海、ブランコで遊んでくるから今日子ちゃんもがんばってね!」
「うん……」
今日子は再び、逆上がりの練習を再開した。しかし、やはり何度やってもうまくいかず、徐々に疲れてきた。
「なんだよ桜井、逆上がりの練習か?」
いつの間にか今日子の近くに春樹がいた。二人は席替えをして隣同士になったということもあり、話すことが多かった。
「春樹くんは逆上がりできてたでしょ。帰らないの?」
「俺は放課後でも小学校にいることになってるから」
春樹はそう言いながら今日子の横の鉄棒の前に立ち、軽々と逆上がりをした。逆上がりをした春樹は、『どうだ、すごいだろう?』とでも言いたげな顔をして、今日子のほうを向いた。
「保育園では3月産まれで逆上がりができたのは俺だけだったんだぞ」
自慢気に春樹は言った。
「保育園? 幼稚園じゃなくて? 保育園と幼稚園って何が違うの?」
「そんなことも知らないで小学生になったのかよ。よく聞けよ。幼稚園は幼稚、つまり子どもということだ。だから保育園は逆で大人ってことなんだよ」
「ウソだー。だって、春樹くんが一番ちっさくて子どもみたいなのに」
「ちっさいかどうかは関係ないだろ。大事なのは中身だ。後、俺がちっさいのは早生まれでみんなより遅く産まれたからなんだよ。そのうち桜井よりもぐーんと高くなるんだからな!」
春樹はムキになって言った。今日子としては、『早生まれでみんなより遅く産まれた』という言葉に多少の違和感を覚えたが、気にせず逆上がりの練習を続けることにした。だが、先ほどと同様、なかなかうまくいかなかった。
「やっぱりできないー」
「下手くそだなぁ。そりゃそんなやり方じゃ無理だろ。だいたい、なんで手の向きが逆なんだよ。手のひらが下だろ? 桜井は手のひらが上になってる」
「えっ? それは前回りの持ち方でしょ? 逆上がりは逆だからこれでいいんじゃないの?」
「回る方向が逆なだけなんだから持ち方は同じでいいだろ! 後、腕も曲げろよな。体を回すんだから鉄棒の近くに体がなきゃいけないに決まってるだろ。そしたら空を蹴るつもりで足をあげて、へそを鉄棒にくっつける感じで回ったらいいんだよ。もう一回やるから見とけよ」
そう言うと春樹は先ほどと同じように軽々と逆上がりをした。背の低い春樹がやるとまるで逆上がりをする人形のようだった。
「やってみろよ」
「うん……」
今日子は先ほど春樹に教えてもらったことを思い出しながら、鉄棒を握った。手のひらを下にして鉄棒をにぎり、腕は伸ばさずに体を鉄棒に近づけ、空を蹴るつもりで足をあげ、へそを鉄棒にくっつける感じで回る。
「…………あれ?」
今日子はへそを軸に鉄棒を一周した。あまりにも軽々と逆上がりができたものだから、できた今日子自身が驚いていた。
「うわっ! すごい! できた! できたよ春樹くん! ありがとう、春樹くんのおかげ!」
今日子は春樹の手を握って喜んだ。
「つまらないやつだなー。こういうのは夕焼けになっても練習してようやくできるもんだろ」
春樹ははにかみながら言った。
「ふっふっふっ、今日子もやればできるのだ!」
今日子は高らかに笑い、それにつられて春樹も笑った。その後、春樹は校舎にかけてある時計を確認した。時計の針は間もなく3時を指そうとしていた。
「あっ! そろそろ、おやつの時間だ。じゃあな」
「帰るの?」
「いいや」
春樹は正門や裏門とは別の方向、今日子も入ったことはない小学校内の建物の方向へ走っていった。なぜそんなところでおやつを食べるのか今日子には分からなかった。
その後、今日子は逆上がりができたこともあり、ブランコで遊んでいた夏海とともに家に帰った。
家に帰ると母の佳子がおやつにプリンを買ってきており、今日子は手洗いうがいをしてイスに座り、プリンを食べ始めた。
「今日、放課後ね、今日子、逆上がりできたんだよ。同じクラスの梅崎春樹くんに教えてもらったらすぐにできたんだ」
今日子はプリンを食べながら今日あったことを佳子に話し始めた。
「へー。小学校入って新しい友だちができたんだね」
「うん。でも、変なんだよ。春樹くん、おやつの時間って言って、学校にあるよく分からない建物のほうに走ってったの」
「ん? 学童保育なんじゃないの?」
佳子の言葉で、今日子は顔を傾けた。
「……学童保育? 保育園のこと? 春樹くん、幼稚園じゃなくて保育園に行ってたって言ってたけど」
「じゃあ、やっぱり学童保育だね。学童保育っていうのは、お母さんもお父さんも仕事に行ってる子が宿題したり遊んだりする場所かな」
「えっ! 春樹くんの家ってお母さんも仕事してるの!?」
「そうだと思うよ。保育園だってお母さんもお父さんも働いてる子が通うところだしね」
今日子は幼稚園の時からずっと、家に帰ると母の佳子がいたので母親が仕事でいないという子がいることに驚いた。
「実は、お母さんも今日子が産まれても働き続けようって思ってる時もあったんだよ」
「えー、やだ! お母さんは仕事しないで家にいてほしい!」
「今日子がそう言うと思って、結局やめることにしたんだ」
「お母さんありがとう!」
今日子はプリンを食べ終え、容器の中は空っぽになった。
「でも、春樹くん、それじゃあお家帰っても一人なんだね……かわいそう……。夏休みになったら学校にも行かなくなるし……」
今日子はうつむき加減で行った。
「夏休みでも学童保育はあると思うけど、そういう時のための友だちなんでしょ。今日子が一緒に遊んだり宿題したりしたら寂しくなんかないよ」
今日子は顔をあげて佳子の顔を見た。
「うん! そうだよね」
7月になり、給食期間も終了してもうすぐ小学校初めての夏休みになろうとしていた。終業式を明日に控えた放課後、帰りの会が始まる前の担任の先生が配布物を取りに行っている間に今日子は立ち上がり、隣の席の春樹に話しかけた。
「ねえ、春樹くん。夏休みになっても一緒に遊んだり、一緒に宿題したりしようよ」
「えっ?」
今日子の言葉に春樹は驚きと嬉しさがまじった顔になって今日子のほうを振り向いた。
「ああ、いいけど……」
「やったー!」
今日子はそう言って喜び、話を続けた。
「だって、春樹くんって帰ってもお母さんもお父さんも仕事でいないんでしょ? かわいそうだよ」
「…………え? かわいそう……?」
「うん、そうだよ。家にお母さんがいないってかわいそう」
春樹の腕は小刻みに震えだした。そのことに今日子は気づかなかった。
「かわいそうって言うな!」
「えー、だってかわいそうだよ」
「言うなって言ってるだろ!」
春樹がそういった途端、春樹は立ち上がりって今日子の肩を強く押した。今日子は押された反動で後ろに倒れ、イスの角で腕をすりむき、そのまま尻もちをついた。
今日子は一瞬何が起こったか分からなかったが、コケたことによる痛みと、良いことをしたと思ったのに急に押されたショックと、その時の春樹の表情の怖さで今日子はその場で泣きだした。
教室にいたクラスメートたちはみな、二人を注目していた。
それから20分ほどして佳子、さらにそれから10分がすぎたころに仕事を抜けだした春樹の母親の梅崎曜子が学校にやって来た。
今日子は佳子によりそい、春樹は母親がやってきてもちょっと見ただけで、特に反応を示さなかった。
「この度は、うちの息子がご迷惑おかけしてしまい、本当に申し訳ございません」
春樹の母は深々と謝ったが、横にいる春樹は居心地が悪そうだった。
「ほら、あんたも謝りなさい」
「叩いてごめんなさい」
いかにも言えと言われたから言った感じで、春樹は言った。佳子はため息をついた。
「今日子、何があったか話してみて」
「えっとね、帰りの会が始まる前に今日子が夏休みに……」
「言うなよ! 言ったらまたぶつぞ!」
今日子の言葉を遮って春樹は言った。今日子はその言葉に怯えて、佳子の後ろに隠れた。
「春樹! いいかげんにしなさい」
そう言って曜子は、春樹の頬を平手で叩いた。叩いた時の余韻が室内に残り、その後静かになったかと思うと、春樹は静かに泣きだした。春樹の母は、今日子のほうへ向き直った。
「今日子ちゃん、おばちゃんからもお願い。何があったか教えて?」
今日子は春樹が気になったが、回りの視線もあったので、勇気をだして何があったかを説明し始めた。
「あのね、帰りの会が始まる前に……」
今日子はその日、何があったか一連の流れを話し始めた。
「……それで、『かわいそう』って言ったら、急に『かわいそうって言うな』って言って春樹くんが押してきたの。ねえ、今日子悪くないよね? お母さんも夏休み一緒に遊んだり宿題したりしてあげてって言ってたから……。ねえ、お母さん……!」
今日子は佳子の服を引っ張って必死に訴えた。
佳子は唇を噛みしめて春樹を見ているだけだった。
その後、今日子は佳子と二人で家に帰った。帰っている間、佳子は一言も喋らず、ずっと遠くのほうを見て何かを考えているようだった。
遅めのお昼ごはんとして、昨日の残りの肉じゃがを今日子は食べていたが、好きな食べ物であるにもかかわらず、あまりおいしく感じなかった。先ほど倒されてケガをした右腕が痛いせいかもしれないと、今日子は思った。
「まだ痛い?」
先ほどまで黙っていた佳子が尋ねた。今日子は黙ったまま、ゆっくりと頷いた。
「そう……。あのね、今日子。夏休みにお友達と遊ぶ約束をするのは全然悪いことじゃない。だから、今日子が今日、春樹くんに言ったことは全然、悪いことなんかじゃない。でも、何で急に春樹くんが怒ったのか、今日子は分かってないよね」
「……うん」
「じゃあ、ちょっと想像してみようか。例えば、お金持ちの家に生まれて大きい家に帰ったらお母さんもお父さんもいるような子がいるとします」
今日子は考えた。大きい家と、そこに住む子ども一人の3人家族を。
「ある時、その子は今日子と話をしました。『そんなに小さい家に住んでるの? それじゃあ隠れんぼもできないね。それに、夜になるまでお父様にあえないなんて。かわいそうだね』」
佳子の言葉を聞いて、今日子は不快感を覚えた。そういう子はうらやましいとは思うが、その子にかわいそうと言われるのは嫌だと思った。
そこで、今日子は気づいた。なぜ急に春樹が怒ったのかを。
「かわいそうって言っちゃダメなんだね……」
「分かってくれてよかった。もちろん、だからって暴力を振るっていいわけじゃないけど、理由はあったんだよ。それにね、今日子は春樹くんをかわいそうと思ったから一緒に遊ぼうって言ったわけじゃないと思うんだ。だから、許してあげてとは言わないけど、これからも今までどおり接してあげて」
「……うん、分かった!」
今日子は先ほど打って変わって、元気にそう言った。
次の日の朝、今日子が夏海の席で夏海とお喋りをしていると、春樹が教室に入ってきた。いつもよりは遅い時間の登校となる。
「女の子に暴力ふるうなんてサイテー」
「これだから保育園出身は」
「それは関係ないだろ。3月生まれだからだよ」
教室のあちこちで誰かがそんなことを言いだした。
今日子は春樹が来たことに気づくと、そちらに向かおうとしたが、腕を掴まれて制止した。腕を掴んだ夏海は心配そうな顔で首を横に振ったが、今日子は笑顔で返し、夏海から腕をはずすと再び春樹のほうにむかった。
「春樹くん」
今日子が呼びかけると、春樹は気まずそうな顔をして俯いた。
「昨日はごめんね」
今日子が言うと、春樹は顔をあげて今日子の顔を見た。
「何で謝るんだよ。謝るのは俺のほうだろ」
「春樹くんに押されてコケた時はショックだったし痛かったよ。でも、春樹くんの気もち考えずに言った今日子も悪いんだよ」
「…………」
「それに、昨日あんなこと言っちゃったけど、春樹くんと夏休みに遊んだり宿題したりしたいって思ったのは本当だよ。かわいそうと思ったからじゃない。本当に春樹くんとそうしたいと思ったの」
「え?」
「だから、夏休みになっても一緒に会おうよ」
春樹は返す言葉を探すように目をうろちょろさせた。
「本当は、帰ったら母さんがいる子って少しうらやましいと思ってるんだ。でも、そんなこと思ってるって気づかれたくないからそう思われないようにしてきた。だから、昨日、桜井がかわいそうって言って思わず叩いちゃったんだ……。俺のほうこそ……、いや、俺のほうがごめん……」
「いいんだって。友だちとならケンカすることだってあるよ」
今日子がそう言うと、春樹は今日子の顔を見つめた。その後、春樹は顔を赤らめ、今日子から顔をそらして言った。
「……ありがとう」




