第0話~今日子0歳~前編
都心部から電車で30分ほどした場所にある高塚という住宅街。その街の高塚マタニティクリニックという産婦人科の分娩室にて、桜井佳子はお腹の内側からハンマーで叩かれているのではないかという痛みを感じながら分娩台に横になっていた。佳子の旦那の桜井咲也は隣で必死に祈っている。
「もうすぐだからね、頭もう見えてるから、赤ちゃんもう少しだから。もう少し頑張って!」
助産師がそう言って数秒後、佳子は声にもならないような叫び声をあげ、最後の力を振り絞ってりきんだ。
その時、体の中からズルンという感覚を佳子は感じた。
「…………オギャー、オギャー」
少しの静寂があったかと思うと、分娩室に赤ちゃんの泣き声が響き渡った。その声は、新しい物語が始まる鐘のようであった。
「生まれた……」
咲也は今にも倒れそうになりながらつぶやいた。佳子の陣痛が始まって12時間、ようやく赤ん坊が誕生した。
「おめでとうございます。元気な女の子ですよ」
助産師は言って、赤ん坊をタオルに包み、佳子の胸の上に乗せた。佳子は震える手でゆっくりと赤ん坊を抱きしめた。
名前は前から佳子と咲也の二人で考えていた。『過去や未来にとらわれず、今を精一杯生きてほしい』。そういう思いを込めて決めた。
「これからよろしくね、今日子」
4月2日午前6時18分、体重2910グラム、身長53cmの桜井今日子がこの世に生誕した。
それから長い時間か短い時間か分からないが時がたち、佳子は目を覚まして自分が寝ていたことに気づいた。いつの間にか個室に移動して寝ていたようだ。先ほどの出来事は夢だったのだろうか。ふとそんなことが脳裏に浮かんだが、すぐにそれを否定した。
あの出産の痛みと今日子を抱いた感触は今でもはっきりと覚えている。
ただ、その後の記憶がなかった。今いる場所は分娩室ではなく、個室なため、自分で歩いたにしろ誰かに運んでもらったにしろ、移動している。疲れはててすべてふっとんでいるようだった。
――それにしても……
と、佳子は思う。出産は想像を絶するほどの痛さだったと。まるで、ナイフで腹を刺されてえぐられているような感覚だった。もちろん、佳子はナイフで腹を刺されたことなどないが、もし刺されたらこんな感じだろうと思った。『鼻からスイカが出るような感覚』ともいうが、それは佳子にはよく分からなかった。ナイフが腹に刺されるのはイメージできるが、鼻からスイカがでるというのはイメージできなかった。
ふと佳子は昨年参加したマタニティセミナーの講師の言葉を思い出した。
「出産というのは痛いと思うから痛いのであって、本来は痛くないものなの。それどころかとても気持ちのいいものなのよ。私はとても気持ちよかったから5人も産んだの」
あれは嘘だったのだろう。さもなくばドMだ。佳子は思った。
「あら、起きたの?」
誰かの声がして佳子は声のするほうを振り向いた。昔からよく聞く、透き通るような声だ。
「お母さん」
佳子の寝ている右隣で、佳子の母、花木時子がイヤホンをつけて、テレビを見ていた。テレビには現在放送中の朝ドラが流れている。まだそんな時間か。と思ったが、テレビの上にある掛け時計を見て時計の針がもうすぐ1時をさそうとしていることに気づき、再放送だということが分かった。
「咲也さんはお昼ごはん食べに行ったわよ。昨日の昼から何も食べてなかったみたいだしね」
佳子が咲也はどうしているのだろうか尋ねようとすると、時子は答えた。
「じゃあ、佳子も起きたことだし、新生児室に赤ちゃんの様子でも見に行こうかな」
「えっ? まだ見てなかったの?」
「さっき来たばっかりだしね。それに、起きた時一人じゃ心細いでしょ?」
「そんな……子どもじゃあるまいし」
そういいながらも、佳子は時子の気遣いが嬉しかった。
「じゃあ私も一緒に行こうかな……」
と言って、佳子は起き上がろうとしたものの、思った以上に体が重く、思うように動かないことに気づいた。
「無理しないの。佳子はまだ体が万全じゃないんだから。そういえば、トイレは大丈夫? 行くなら支えるわよ」
「ううん、大丈夫」
「そう。じゃあ、ちょっと見てくるわね。お父さ……というより、おじいちゃんに写真もたのまれてるの」
「うん」
時子はテレビを消して立ち上がり、ドアのほうへ向かった。
佳子は母である時子の背中を見ながら、今まで母に育ててもらってきたことを振り返った。
――母も同じようにお腹を痛めて私を産んでくれたんだろうな
佳子は思った。今日から母がやってきたことを自分がやることになるのだと。
「お母さん」
ドアの取っ手を掴んでドアを開けかけた時子は佳子の呼びかけを聞いて振り返った。その後、佳子は言った。
「ありがとう」
今日子が産まれて3ヶ月があったある平日。
佳子は今日子を抱っこ紐にくるんで時子の住む実家にむかって歩いていた。
この3ヶ月、最初の内こそなかなか授乳がうまくいかなかったものの、何度も胸のマッサージをすることによって、自然に母乳がでてくるようになった。母乳を飲んでいる今日子を見てなぜおっぱいからミルクがでるのが分かるのか佳子は不思議に思ったが、そもそも口に加えたものはちゅぱちゅぱと吸う性質になっているらしく、佳子が今日子に小指を近づけてもよく吸っていた。
出生して1ヶ月がたった時の1ヶ月検診は全く問題なく終わった。モロー反射もしっかり起きていて、今でも近くで車がとおると、ビクッと今日子は驚いたように両手をあげた。その姿がとても愛おしく、佳子は思わず抱きしめたくなった。
お宮参りでは近くの長山寺まで行った。咲也の両親は高塚から東へ車で5時間はかかる長野県のとある町で商売を営んでいるが、なんとか都合をつけて来ることができ、両家揃っての参拝となった。
最近では今日子の体はどんどん大きくなり、産まれた時には細く感じた手足も今ではぼってりと太くなっているように思えた。首はまだ完全には座っていないものの、だいぶしっかりしてきて、少しの間なら立てて抱っこもできるようになった。
何より佳子が驚いたのがうんちの匂いだった。大人のように強烈に臭い匂いではなく、まるで炊きたてのご飯のように良い匂いでいつまでも嗅いでいたいと思うほどであった。
と、3ヶ月を振り返りながら歩いていると時子の家の前まで後少しというところまでいつのまにか来ていた。
佳子としてはこの家に来るのは出産して以来初めてで、4ヶ月ぶりぐらいになる。
4ヶ月ほど見ていなかっただけなので、周りの景観はほとんど変わっていなかったが、ずっと工事中だったアパートが建っているのだけは目新しかった。1年ほど工事をしていたが、ようやく完成したようだ。
「新しいおうち! 新しいおうち!」
そう言いながら5歳ほどの男の子がアパートの駐車場を走っていた。バタバタと走っている男の子は突然、足を躓いてコケ、途端、大きい声で泣き始めた。
佳子はその姿を見て動揺したが、そんな心配は無用だったようで、男の子の少し後ろを歩いていた女性が男の子に話しかけた。
「男の子でしょ。いつまでも泣いてちゃ、強い男の子になれないぞ」
女性がそう言うと、男の子は泣き止み、自力で立ち上がってヒザをはたいた。
「うん。僕、強くなる」
佳子がじっとその姿を見ていると、視線に気づいたのか女性が佳子のほうをむき、軽く会釈をした。佳子もそれにならって会釈するものの、急に恥ずかしくなってすぐに家に入ることにした。
――性別は違えど、今日子もあんな日が来るのかな
そんなふうに思いながら引き戸の扉を開けた。
「いらっしゃい」
扉を開けると時子が佳子と今日子が出迎えた。
その後ろから小さい小刻みの足音が聞こえてくる。
「赤ちゃんだー」
佳子の姪の花木朝陽だった。先日2歳になったばかりだが、かなり言葉の発達が早いように佳子は感じた。
「朝陽ちゃんも来てたんだ。じゃあ、朝陽ちゃんのママも来てるのかな?」
「うん、いるよ」
朝陽がそう言うと、後ろから朝陽の母、花木真昼が遅れて玄関の方に歩み出た。
「ダメでしょ朝陽。いきなり飛び出しちゃ。赤ちゃんがビックリしちゃうでしょ」
と、真昼は朝陽と同じ視線になるまでしゃがんで、優しく問いかけた。
「ごめんなさい」
素直に謝る朝陽。はたして自分も今日子をこんな素直な子に育てることができるだろうかと佳子は思い、真昼にたいして尊敬の念を抱いた。
その後、5人はリビングにむかった。
リビングにたどり着くと、佳子はローテーブル代わりのこたつテーブルの前に座り、その横に今日子を寝かせた。
「じゃあ、真昼さんが持ってきてくれたケーキでも食べましょうか」
時子はそう言うとキッチンへ行き、つづけて真昼が、「お義母さんは座っていてください。私はやりますよ」と言うと、時子は
「いいのよ、いいのよ。真昼さんは座っていてちょうだい」
「いえ、私が」
「いいのよ、いいのよ」
と、両者譲り合い、もしくは譲らないため、なかなかケーキが出てくる気配がなかった。
嫁と姑という関係だけあって、どちらも気を使っているようだ。昔はそんなに気遣わずに、自分は仲の良い嫁姑関係を築きたいと佳子は思っていたが、最近はこれぐらいの距離感が一番いいのではないかと思っていた。
「指つかんだー!」
朝陽が叫んだ。佳子が朝陽の方を向くと、今日子が朝陽の人差し指を握っていた。多分、朝陽が今日子の手のひらを触っていたのだろう。朝陽がゆっくり引き抜こうとするが、なかなか離れないようであった。
赤ちゃんの手のひらに指などを入れるとギュッと握る現象を、把握反射というらしく、佳子も何度かやられたことがあった。
「かわいいなぁ、赤ちゃん。お母さん、朝陽も赤ちゃんほしい!」
「朝陽が良い子にしていたら、うちにもやってくるかもしれないわよ」
赤ん坊をほしがる朝陽にたいして、真昼はそう返した。
――十分良い子だと思うのだけど
と佳子は思いながら、朝陽に尋ねた。
「朝陽ちゃんは、弟か妹どっちがほしい?」
「うーんとね。今日子ちゃんが女の子だから、弟! 男の子がほしい!」
まるで、今日子が妹みたいな言い方であったが、佳子としては今日子と朝陽は姉妹のように仲良くしてくれたらなと思っていたので、その言葉は嬉しかった。
「はい、ケーキの準備ができたわよ」
ようやくケーキの準備ができたらしい。ケーキは時子と真昼が2皿ずつ手に持って運んできた。運ばれてきた皿のうち、一つはプリンだった。
「朝陽プリン食べるー」
朝陽はそう言ってプリンが置かれたテーブルへ移動しようとするものの、今日子はまだ手を放そうとしなかった。
「ほら今日子、朝陽ちゃんがプリン食べるからそろそろ放してあげて」
そして、佳子が今日子の手を取ろうとすると、
「アー」
今日子はそう言って、手を広げた。
「今日子ちゃん、ありがとー。また後でね!」
朝陽は、今日子から離れて、プリンが置かれたテーブルの前に着席した。
一方、佳子は今日子を見つめたまま呆然としていた。
――あれ? 言葉通じた?
その後も今日子はすくすくと成長していった。生後4ヶ月には完全に首がすわるようになり、5ヶ月には初めて寝返りもした。6ヶ月には支えずにお座りもできるようになり、佳子は日々成長する今日子を見て幸せを感じていた。
そんなある日のことだった。今日子が生まれて半年がたった10月末の深夜2時。今日子の泣く声で佳子は目を覚ました。
――お腹すいてるのかな?
そう思って咲也を起こさないように今日子を抱いて寝室を出て、洗面所まで移動してから佳子は服をはだけて、今日子の顔が胸の高さまでくるように抱いた。
しかし、今日子は胸に吸い付こうともせず、ずっと泣き続けていた。
おしっこやウンチをしてオムツに不快を感じているのだろうかと思ってオムツを脱がしてみたものの、汚れていなかった。
今日子が泣いている原因が分からなかったが、そのまま30分ほど抱きつづけて背中をトントンと叩いたりしているとやがて今日子落ち着き、再び今日子は眠りについた。
その日はそれ以降、今日子が泣くことはなかったので佳子はゆっくり眠ることができた。
しかし、それからというもの、何度も今日子は夜中になると泣くことが多くなった。ひどい時には泣くのが収まって寝たと思って布団に寝かせるとまた泣き出すというパターンが繰り返される日もあった。そのせいで、佳子は寝不足な日々が続いていた。
そうして11月には今日子は匍匐前進のように手と足を動かしてずりばいし、ある程度自分で移動できるようになり、12月には今日子はお腹をつけずに手と足を動かして、少しだけならはいはいで移動できるようになった。
佳子は寝不足の原因でありながら、今日子が成長して今までできなかったことができるようになると、嬉しくなって携帯電話のカメラで写真を撮って記録し、咲也の携帯電話に写真付きでメールを送信する日々を送っていた。
12月中旬のこと。その日も今日子の夜泣きがひどく、佳子はほとんど寝付けずにいた。
夕方になっても眠気がとれないでいたが、晩御飯を作る必要があったので今日子がNHKの子供向け番組をじっと見ているその隙にすませてしまおうと思い、キッチンに向かった。
だが、佳子がキッチンに立ったとたん、強烈な眠気が襲った。さすがにこの状態で包丁や火を使う料理をするのは少し危ないと思い、今日子がテレビに夢中になっている隙に食卓のイスに座り、テーブルに突っ伏して少しだけ寝ることにした。間違っても熟睡してしまわないように、キッチンタイマーを3分後にならすようにセットした。
3分後、タイマーの音で佳子は目を覚ました。まだまだ眠気はとれなかったが、少しはマシになった。これで家事のつづきができる。そう思ってキッチンに移動しようとする前に、ふとテレビの音が聞こえる隣の和室に目をやると、そこには今日子の姿がなかった。
「今日子どこー? どこいったのー?」
言いながら佳子は隣の和室に移動し、あたりを見渡したがそこには今日子の姿はなかった。窓は閉めてあるので外にでたわけではない。
となると、考えられたのはリビングと玄関を結ぶ廊下にいるのではないかと考え、廊下に移動すると案の定、今日子は、はいはいをして玄関のほうへ向かっていた。佳子が見つけた時には今日子は残り50cmほどで玄関というところだった。
今日子を見つけるなり佳子は走り、今日子を抱きかかえた。佳子の住んでいるハイツは、バリアフリーがなされておらず、玄関は30cmほどの段差があるのだった。もう少し発見が遅ければ、危うくそこに今日子が落ちるところであった。はいはいをして自由に動けるようになったということは、危険なことも増えるということを佳子は身を持って感じた。
さすがにまたどこかに移動させられてはかなわないと思い、佳子は今日子をおんぶして家事の続きをやろうとしたが、おんぶして家事をしようとすると、今日子は泣きじゃくり、佳子は軽く頭を叩かれた。成長したせいか、だいぶ力が強くなっており、少し痛かった。
この調子だと家事もできないので今日子を降ろすと泣き止み、再び元気にはいはいしだした。自由に動けることがうれしいのか、どんどん速く動こうとする。今日子が移動する方向を見てみるとローテーブルの脚があることがわかったので、佳子は先回りしてテーブルの脚にぶつからないように今日子を別の方向へ誘導した。
しばらく元気に動いていた今日子だが、急に動きがとまり、真顔になったかと思うとその後またはいはいしだした。最近になって佳子は今日子の行動パターンでだいたい何が起こっているのか少し理解し始めていた。これは、ウンチだと。そのため佳子はオムツを交換しようとしたが、今日子はなかなかじっとしようとしなかった。
その後、四苦八苦しながらもなんとか今日子を仰向けに寝かせてオムツをはずした。
――くさい
最初のころの炊き込みご飯のような匂いはどこへやら、今の今日子のウンチの匂いは非常に臭かった。
さらに、オムツ替えをしようとしているのに、まだ今日子は動きを止めようとしなかった。
なんとか必死の思いで、佳子は今日子のオムツを替え、今日子はその後もまだ元気に動きまわった。
と思ったら今度は今日子が泣きだし、佳子は今日子を抱きかかえた。
なんとなく佳子は、この今日子の行動はお腹がすいているのだろうと思い、服をはだけて今日子を抱いて授乳させた。
おいしそうに母乳を飲む今日子。飲み終わると安心したのかゲップをして今日子は抱きかかえられたまま眠った。
佳子はゆっくり今日子を床におろした。
佳子は疲れがピークに達し、立ち上がるのも億劫であった。できるならこのまま今日子と共に寝てしまいたい。そう思うほどだった。
「ただいまー」
咲也が帰ってきたのはそんな時だった。
咲也はリビングのほうに目をやった。そこには今日子が寝ている前で佳子が座り込んでいる姿があった。次に、咲也はキッチンのほうへ目をやった。キッチンには佳子が料理の途中であることが伺えた。
「まだ、ご飯できてないの?」
普段は帰った時には食事の用意ができているので、何気なく咲也は佳子に尋ねた。特に意味は無いし、咲也としては晩御飯ができていないことを気にしているわけではなかった。
その瞬間、佳子の心の中で何かが弾けた。
「まだってどういうこと?」
佳子はいつもより低い声で言った。声を聞いただけでだいぶ疲れているのが分かった。
「私がどれだけ今日子の世話でつきっきりになってるか分かってるの? あなたが寝ている時も仕事しているときも、ほとんど休みなしで見ていなきゃいけないんだよ。分かってるの?」
思わず佳子は声を荒らげた。荒らげてからしばらくたって静寂がくると佳子は自分がひどいことを言ってしまったと後悔した。
「ごめんなさい。すぐに作るから。いやでも、今作ってたら時間かかっちゃうからお弁当買ってくる」
佳子はそう言うと立ち上がり、出かける準備をし始めた。
「いや、いやいや、いいよ。俺が買ってくる。ごめん」
そう言って咲也は家を出て行った。部屋には再び佳子と今日子だけになり、静寂が訪れた。
「私、なにしてんだろ……」
佳子は再び今日子の前に座り込んでつぶやいた。
「どうしてこんなことに……」
佳子の目からは涙があふれていた。




