「婚約は妹に、仕事は君に」と言われましたが、もうあなたのためには働きません ~雨読み令嬢は隣国の公爵に大切にされる~
「婚約は妹に譲ってくれ。君はこれまでどおり、雨の記録を取ればいい」
トリスタン様は、私が徹夜で書いた報告書の上へ婚約解消の書面を置いた。
その下には、三日以内に下流が増水するという警告がある。昨年補修を見送った橋。川沿いの穀物倉庫。説明のために描いた地図も、彼の袖で隠れた。
「地味な雨読みは、もう表に出なくてよい。ミレーユの方が人々に希望を与えられる」
父の隣で、妹が指を組んだ。晴れの祝福を使ったばかりの髪には、金色の光が残っている。
「お姉様の分まで、私が頑張るわ」
私は指についたインクを親指で擦った。落ちない。昨日も、その前も、同じところについた染みだった。
「私には、何をお望みですか」
「観測と記録だよ。判断と発表は私たちがする。君の苦手なことは引き受けてあげるから」
去年、水門を開ける時刻を決めたのは私だった。人々の前で感謝を受けた彼に、帰りの馬車で一度だけ尋ねたことがある。私の名も出していただけませんか、と。
婚約者同士で、功績を数えるものではない。
そう諭されて、謝った。
「給金はいただけますか」
トリスタン様の笑みが止まった。
「家族を手伝うのに、金を取るつもりか」
父が言い、妹は目を伏せた。
机には三人分のお茶があった。私の席にあるのは、読み上げてもらえなかった報告書だけだ。
私は婚約解消の書面に署名し、その下から地図を抜いた。
「下流の橋を閉じ、倉庫の荷を高台へ移してください。警告と避難先は、公用の雨帳に残してあります」
「そうやって最初から素直に――」
「私が補佐に残るというお話は、お断りします」
書庫の鍵を地図の端に置く。父が椅子を引いた。
「お前は、この家を出て何ができる」
行き先は決まっていない。旅費にできるのは、私物を売って残した小さな銀貨が数枚。雨を降らせる力も、妹のように雲を払う力もない。
それでも、書面に署名を足す必要はなかった。今ここで終わった婚約を理由に、明日も働くことはないのだ。
「自分の名前で、仕事を探します」
私物の古い雨帳を抱えて、扉へ向かった。
廊下まで追ってきた使用人に避難図の写しを渡すと、彼女は倉庫へ届けると約束してくれた。私は礼を言い、国境行きの乗合馬車に乗った。
◇
「その橋を渡らないでください!」
馬車を降りた私は、先行する隊商へ走った。
御者には、晴れた空を指して笑われた。橋の前で番兵に訴えても、通行を止める権限はないと言われた。
川の水はまだ浅い。けれど対岸から来た荷車の車軸には、濡れた赤泥がついていた。この辺りの土は白い。赤土の崖があるのは、上流の山だけだ。
水鳥が川を捨てて高い畑へ降り、北からの雷が近くなる。
私一人なら、左手の石切場跡へ登れる。
前の馬車から、小さな男の子が手を振った。道中、干し杏を一つ分けてくれた子だ。私は鞄を抱え直し、隊商の旗を持つ騎手の前に立った。
「責任者の方を呼んでください。上流で強い雨が降っています。ここが晴れていても、水は来ます」
騎手が振り返った先で、黒馬が止まった。
「何を見れば確かめられる?」
濃紺の外套の男性が馬を降りる。カイル閣下、と騎手が呼んだ。干ばつに苦しむ隣国を治める、アルヴェーン公爵だった。
私は赤泥を指した。彼は手袋を外し、車軸の内側から泥を取った。乾いた表面が割れ、湿った赤が指につく。
「鳥が逃げたのは、どちらだ」
「あの畑です。雷は北から。次の鐘を待っていては危険です」
彼が橋へ視線を戻した。先頭の馬が、もう板を踏んでいる。
「全車を止めろ。橋の先頭を戻して、石切場へ上げる」
「閣下、国境市に遅れますぞ。娘一人の話で!」
荷主の抗議に、私は雨帳を開きかけた。証拠を並べて、言葉を尽くして、それでも駄目なら謝って頼む。早くしなければ。
「命令は私が出した。遅れの損失も私に請求してくれ」
公爵はもう坂を見ていた。
「歩ける者から登れ。荷車には子どもと、歩けない者を乗せる」
御者が手綱を返した。あの子の馬車が橋から離れる。私は雨帳を閉じ、車輪の後ろへ回った。
石切場への坂で、最後の荷車が止まった。後輪が轍にはまり、馬がいななく。押す人の靴も滑っている。
「右の車輪です。後ろから綱を回して、上へ引いてください」
公爵が兵を呼ぶ。張った綱に私も手をかけた。麻が掌に食い込む。荷車が浮き、轍を越えたところで、川底から唸りが上がった。
「もう上がって!」
振り向いた公爵の手が、私へ伸びた。その腕につかまって最後の段差を越える。
すぐ下を、枝のついた木が横倒しに流れた。
濁流が橋脚を叩く。板がめくれ、馬車の通っていた場所が、音を立てて折れた。
隣で男の子が泣きだした。お母さんに抱かれて、顔をくしゃくしゃにしている。私はその声を聞きながら、握った綱をなかなか放せなかった。
「君の名を聞いていなかった」
公爵が私の前に膝をついた。
「エリナ・ヴァルクールです」
「エリナ。助かった。ありがとう」
返事をしようとしたのに、息が引っかかった。
「右手を見せてくれるか」
「記録は、すぐにお見せします」
「怪我をしている」
見下ろすと、掌の皮が擦りむけていた。彼は白いハンカチを出したが、手に触れる前に一度待った。私がうなずくと、そっと巻いてくれた。
細い縁飾りに赤い染みが広がっていく。
「汚してしまいます」
「洗える。少し押さえていてくれ」
彼は私の指を布の上へ添えた。
◇
公爵領で仕事を始めて、初めて給金をもらった日。私は銀貨の袋を、三度も開けて確かめた。
井戸の水を取り戻すまでには、失敗もした。工事の中止を求めて職人のサーラさんとぶつかり、予報を外して、測り直した。それでも給金の袋には、私の名前が書いてあった。
「数が足りないか」
執務室へ来た公爵が尋ねた。
「いえ。多くて」
「契約どおりだと思うが」
「食事もお部屋も、いただいています」
彼は少し考えてから、自分の給与明細も持ってこようかと言った。領主も食事をするし、城に住んでいる、と。
私は袋の口を結んだ。頬が緩むのを見られたくなくて、結び目をゆっくり直した。
それからの日々、公爵は時々、私を困らせた。
朝食の席で明日の雨の話を始めると、目の前のパンは口に合わなかったかと聞かれた。夕食へ誘われ、雨帳を持っていくと、仕事の相談は明朝だと言われる。
一度、断ってみたことがある。
「今夜は眠りたいです」
言ったあとで、扉の前に立ち尽くした。彼は手にしていた食事の案内を畳んだ。
「おやすみ、エリナ」
翌朝も、私の席は窓際にあった。お茶が一杯、湯気を立てていた。
故国から帰還を求める手紙が届き始めたのは、その頃だった。封筒には出立から何日も後の日付があり、本文には、私が家を出た三日後の増水で橋と倉庫が被害を受けたと書かれていた。
私は公用の観測記録の所在と、避難図の読み方を返書に記した。帰らないという返事も。
手紙には倉庫の損害額ばかりが並び、そこで働いていた人たちのことは書かれていなかった。後に国境を越えてきた人々から、使用人が届けた図を頼りに高台へ逃げたと聞けた夜は、ようやく眠れた。
予報が外れていればよかった。
けれど届けていた警告の日付まで、なかったことにはできない。
私は手元の控えを調査官へ渡した。トリスタン様の名で出された報告書についても、原本を持って説明することになった。
◇
王都の水務会議で、書記が二冊の帳面を窓へかざした。
一冊は、私の雨帳。もう一冊は、トリスタン様が自分の研究として提出した報告書だ。
「こちらには訂正の跡があります。数字を一本線で消し、欄外へ正しい水位を書いている」
書記の指が、彼の報告書へ移る。
「こちらは、その欄外の数字を本文へ写してあります。同じ順の訂正が、後の頁にも続きます」
彼が椅子の上で身じろぎした。
「婚約者の研究を私が取りまとめた。それだけのことだ」
「観測した場所を、ご説明いただけますか」
私は川の曲がり角を描いた頁を開いた。
「この年だけ水位を測る位置が違います。理由も、ご存じですか」
「細かい作業は君が担当していただろう」
「橋脚の石が崩れたからです。翌日から上流の杭へ移しました。現地で測った値も、ここに残っています」
紙をめくる音が、議場のあちこちで重なった。
会議は彼の著者名による報告書の使用を止め、原本の調査を決めた。提出資料には、私が観測し、記録したことが書き加えられた。
閉会後、トリスタン様が控室へ来た。
「婚約を戻そう。私から申し出れば、訂正も早く済む。父上も、帰るなら許すとおっしゃっている」
彼は私の椅子を引いた。
謝って座れば、明日には手続が済むのかもしれない。家にも戻れる。知っている部屋で、慣れた窓から空を見て暮らせる。
開いた扉の外では、書記が資料を片づけていた。
私は彼女を呼び止めた。
「今の申し出も、記録していただけますか」
「エリナ、二人の話だろう」
「婚約はしません。報告書の名前は、調査に従って直してください」
「君のためを思って来たのに」
彼の手が椅子の背を握った。
「あの公爵が、君をいつまで大切にすると思う。雨が読めなくなれば、どうなる?」
鞄の留め具が、指に当たった。
予報を外した翌朝。眠りたいと断った翌朝。窓際のお茶は、いつも温かかった。
「予報を外した翌朝も、私の席にお茶を用意してくださる方です」
私は引かれた椅子に座らず、鞄を持った。トリスタン様は私を見ていたが、もう質問はしなかった。
◇
公爵が好きだと気づいてから、お茶の時間が短くなった。
時計の針はいつもどおりなのに、次の仕事まで、あと少ししかない。そんなことばかり考えてしまう。彼が席を立つと、話し忘れたことを探した。
けれど、仕事の話ならいくらでもできるのに、もう少し一緒にいてほしいとは言えなかった。
それを先に言ったのは、彼だった。
水害を食い止める仕事を終え、二人とも泥まみれで救援を待っていた夜だった。
地下の水門を動かし終えたものの、戻る通路は水に塞がれていた。私たちは水面より高い作業台に上がり、天井の穴から下りてきた綱で地上へ無事を知らせた。水位は下がり始めている。あとは上の職人たちが梯子を固定するのを待てばよかった。
公爵が敷いた外套に並んで座り、傷ついた彼の掌に布を巻く。初めて会った日に私の手を包んでくれた指が、今夜はおとなしく膝に載っている。結び目を締めると少し動いたので、緩めて巻き直した。
「明日は休めますか」
私が尋ねると、彼はうなずいた。
「君は?」
「報告が――」
言いかけて止まる。地上には交代の記録係がいた。時刻も人数も、向こうで確かめてもらえる。
「私も、休みます」
布の端を結んだ。公爵はその手を見て、それから私を見た。
「休みの日を、私と過ごしてくれないか」
指が結び目から離れなくなった。
「私、天気のほかは、あまり上手に話せません」
「焼き林檎の店を教えてくれた。甘いものより、少し酸っぱい方が好きだとも」
「そんな話で、よろしいのですか」
「もっと聞きたい」
救援の槌音が遠くで続いている。私は口を開きかけ、彼の手をもう一度見た。この人も怖かったはずだ。私を気遣ってばかりで、冷えた指を握ったり開いたりしている。
私は両手で、その手を包んだ。
「私も、閣下の好きなものを知りたいです」
「では、明日から少しずつ」
彼の口元が緩んだあと、急に真剣になった。
「待ってくれ。食べ物の話だけで終わらせるところだった」
私は顔を上げた。
「君を、恋人として誘っている。エリナ」
「……はい」
「返事は、救援が来てからでも」
「今、します」
言ってから、頬が熱くなった。公爵は黙った。私の次の言葉を、ちゃんと待ってくれる。
「私も、あなたが好きです」
包んでいた手が、ゆっくり握り返された。
翌朝、私は雨帳を部屋に置いて食堂へ向かった。
窓の外は雨だった。扉の手前で立ち止まると、中からカイル閣下が私を呼んだ。卓にはお茶が二杯と、小皿に載った焼き林檎がある。
「少し酸っぱいそうだ。どうだろう」
隣に座って、ひと匙すくう。まだ熱い。彼がこちらを見たままなので、なかなか飲み込めなかった。
「おいしいです。カイル閣下も」
皿を二人の間へ寄せると、彼の膝が私の膝に触れた。少し迷って、そのままにした。
お読みいただきありがとうございます。
エリナとカイルの時間をもっと読みたい方へ、長編も公開しています。
井戸を取り戻す最初の仕事、盗まれた雨帳の名前をめぐる対決、仕事帰りのお茶が特別になっていく日々を出会いからじっくり描いています。
『「地味な雨読みはいらない」と追い出されたので、隣国で水害を止めます ~二番手だった私を干ばつ領の公爵だけが最優先にしてくれる~』
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長編では出来事の順序や会話も異なるため、第1話からお楽しみいただけます。
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