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第95話 記憶殻

声は、止まらなかった。


「――エッグ」


 何度も、何度も、同じ響きが、光の筋の向こうから、届く。


 困った時に、眉を寄せる、あの誰かの声。


 輪郭のない今の俺にも、それだけは、はっきりと、分かった。


 声が、少し掠れた。


「聞こえてる……? お願い、もう一度だけ、応えて」


 応えたい。


 だが、応えるための口も、喉も、今の俺には、なかった。


 それでも、声のほうは、待たずに、続けた。


 途切れながら、拾い集めるように、これまでのことを、話し始める。


「地割れを出て……ここまで、丸一日近く、かかりました。レオンさんが黒竜を担いで、アリアさんが支えて……角兎が、ずっと、先導してくれて」


 誰も、途中で、諦めなかった、と、声が、震えながら、伝えてくる。


 辿り着いた谷の入口には、剣が、まだ、立っていたこと。


 宝箱も、椅子も、扉も、誰一人、欠けていなかったこと。


 声の向こうに、そういう景色が、確かに、あるらしい、と分かった。


 光の筋が、少しずつ、幅を広げていく。


 その隙間から、温かいものが、流れ込んできた。


 魔力だ、と、直感的に分かった。


 それも、覚えのある、あの魔力だった。


「あなたの殻片……ずっと、持ってました。谷底で、作り直した、あれ」


 声が、震えながら、続く。


「剣に、預けていました。施設の、外に。だから……施設の消去は、届かなかった、はずです」


 言葉の意味を、摑もうとする。


 うまく、繋がらない。


 それでも、届いた欠片だけを、拾い集めた。


 殻片。


 施設の、外。


 届かなかった。


「……でも」


 声が、一段、低くなった。


「これを使うのは、私のわがままかもしれません」


「紋に刻んだのは、合図だけじゃなくて……私の、感情も。魔力も。一緒に、流れ込んでいました。刻んでいる間に、気づいたんです。これを核にしたら、あなたは、私の想いごと、背負って戻ることになる」


「それは、縛ることと、同じかもしれない」


 声が、迷いに、揺れた。


「それでも、渡します。戻るかどうかは……あなたが、選んで」


 温かいものが、そっと、差し出される感触があった。


 押しつけては、こない。


 ただ、そこに、置かれただけだった。


 選ぶための言葉を、まだ、持っていなかった。


 それでも、迷いは、なかった。


 罅は、繋がった跡だ。


 欠けていたから、伸ばした手に、応えたい。


 それだけで、十分だった。


 完全な鼓動は、まだ、遠くで、揃えと呼び続けている。


 だが、その声はもう、俺を溶かすほどの強さを、持っていなかった。


 欠けたままでいい。


 欠けたまま、あの三つの音の隣へ、戻りたい。


 それが、今の俺の、全部だった。


 俺は、差し出された温かさへ、残っていたすべてを、預けた。


 ――虚無因子の定着を確認。


 ――記憶殻の魔力紋、および外部因子(術者由来)の同期を確認。


 ――現在の意思による選択を、最優先の起動条件として採用。


 ――進化条件を満たしました。


 ――《殻継転生》を発動します。


 どく、ん。


 生命力:0/38


 どく、ん。


 生命力:15/38


 どく、ん。


 生命力:38/38


 音が、戻った。


 風の匂い。


 焚き火の燃え残りの匂い。


 誰かの、汗と、涙が混じった匂い。


 どれも、施設の中では、感じたことのないものだった。


「エッグ……!?」


 その声が、いちばん先に、耳へ届いた。


「起きた……! 起きました……!」


 別の声が、重なる。


 祈るような、低い調子だった声。


 続けて、地面を蹴る、規則正しい足音。


 こつん、と、殻へ何かが触れる、小さな衝撃。


 俺の中に、また、あの文字が浮かんだ。


================


個体名:エッグ


種族:虚無卵


種族ランク:S-


レベル:1/50


ひび割れ率:5%


生命力:38/38


魔力:55/55


攻撃力:12


防御力:25


敏捷:6


知力:24


運:4


固有スキル:


《殻継転生 Lv4》


《孵化未遂 Lv5》


《因子吸収 Lv5》


通常スキル:


《魔力腕 Lv4》


《神性への耐性 Lv1》


《空間への干渉 Lv1》


称号:


《転生者》


《孵化不全》


《消えても還る卵》


《虚無を継ぐ卵》


================


 虚無卵。


 竜の力は、いくつか、消えている感触があった。


 焼けを弾く力も、竜の威圧も、鱗の硬さも、もう、殻の中にない。


 灰から戻る、あの力も、今は、感じられなかった。


 代わりに、知らない感触が二つ、殻の芯に、居座っていた。


 神性への耐性と、空間への干渉。


 使い方は、分からない。


 それでも、確かに、そこにあった。


 竜の力を、失ったことに、寂しさがなかったと言えば嘘になる。


 あの炎を弾く感触も、威圧で敵を怯ませる重みも、確かに、俺の一部だった。


 それでも、失うことには、もう、慣れていた。


 慣れることが、良いことだとは、思わない。


 それでも、失うたびに、何かを、新しく受け取ってきた。


 今度は、耐性と、干渉。


 まだ、何に使うのかも、分からない力だった。


 視界が、開く。


 重さが、戻っていた。


 殻の底に、地面の冷たさが、じんわりと伝わってくる。


 息を吸うたびに、夜気が、殻の隙間を通り抜けていく感覚があった。


 久しぶりの、この体の重さが、なぜか、心地よかった。


 最初に映ったのは、ミミルの顔だった。


 涙で、輪郭が滲んでいる。


 それでも、目の端が、少しだけ下がっていた。


 困った時に眉を寄せて、無事な時には、そうやって笑う顔。


 輪郭を失いかけていた、あの顔だった。


 戻ってきた。


 周りを見る。


 焦げた地面ではなく、谷の入口の夜営跡だった。


 傍らに、柄へ布包みを結んだままの、錆びた剣が立てかけてある。


 少し離れた場所で、古びた宝箱と、脚が一本しか残っていない椅子と、地面を引きずって動く、重い扉が、こちらをじっと見ていた。


 誰も、殻の欠片を持って、歩き出してはいなかった。


 焚き火跡の向こうで、黒い竜が、横たわったまま、動かない。


 胸だけが、ゆっくりと、上下していた。


 息はある。


 まだ、目は覚めていない。


 脇腹の鱗は、めくれたまま、まだ塞がっていなかった。


 その上に、アリアが、薬草を練り込んだ布を、丁寧に当てている。


 巻いた布が、幾重にも重なっているのが見えた。


 一晩かけて、何度も、巻き直したのだと分かる巻き方だった。


 誰も、この竜を、置いていかなかった。


 その優しさもまた、この谷に、確かに、あった。


 目を覚ましたら、伝えたいことが、また一つ増えた。


「……戻った」


 レオンが、腰の聖剣に手を添えたまま、呟いた。


「戻ってくるとはな」


 声が、掠れていた。


「正直、覚悟なんて、できてなかった」


 膝が笑っているのを、隠せていなかった。


 アリアが、感応針を握った手で、口元を覆っている。


「鑑定板が……名称が、戻っています」


 声が、震えていた。


 アリアが、震える手で、もう一度、鑑定板を掲げた。


 さっき見たばかりの、全欄が白いままだった、あの表示を、思い出す。


================


 名称:ひび割れ卵


 種別:不明


 危険度:なし


 食用:不可


 素材価値:低


 状態:良好


 備考:特になし


================


 空白だった欄が、全部、埋まっている。


 それだけで、アリアの目に、また涙が浮かんだ。


「あの時、座標が三つ、出ていました。《通路・北側――検出》《記録室・下層――検出》……それと」


 声が、一度、区切れる。


「《――――応答なし》。三つ目だけ、他より薄く、瞬いたまま、消えかけていて……あれ、ここだったんですね」


 角兎が、地面を、何度も蹴りながら、鼻先を殻へ寄せてくる。


 全部、無事だった。


 あの鼓動の底で、迷わずに済んだのは、この光景があったからだ。


 完全な形になれば、もう、何も失わずに済む、と、あの声は言った。


 それでも、完全になった先に、今、この場所は、なかった。


 揃った静けさよりも、揃わないまま届いたこの三つの音のほうが、俺には、ずっと、大事だった。


 生きたい、と思った。


 このまま、この、欠けたやつらと。


 ミミルが、涙を拭いながら、アリアの言葉を、引き取った。


「施設の消去は、通路と記録室、二つは見つけたのに、谷の入口までは、届かなかった。ここは、空白地帯の、外だから」


「それに」


 声が、少し、恥じるように、沈んだ。


「あなたの紋に、私の魔力まで、混ざっていました。同じ紋だと、向こうも、確かめきれなかったのかもしれません」


 届かなかった理由が、ようやく、繋がった。


 外にあったから。


 混ざっていたから。


 どちらも、ミミルが、そうしたことだった。


 助けようとして、勝手に殻へ触れて、勝手に紋を刻んで。


 それが、結果として、俺を、あの走査の目から、隠していたことになる。


 偶然のようで、偶然ではなかった。


 守りたい、という一点が、最初から、こうなることを、少しだけ、手繰り寄せていた気がした。


 俺は、右へ、小さく揺れた。


 感謝を、伝えたかった。


 それでも、揺れながら、確かめずにはいられないことが、まだ、あった。


 探ったのは、前世の、名前だった。


 いつか、名乗るべきか迷った、あの響き。


 文字にも、音にも、ならない。


 どこにも、なかった。


 次に、前世の、顔を探る。


 朝ごとに見ていたはずの、前世の自分の顔が、どんな形をしていたのか。


 思い出す手がかりが、どこにも残っていなかった。


 前世で寝ていた、安アパートの、薄い布団の感触。


 前世の職場にあった、あの重たいデスクの、木目の感触。


 あの部屋で、どんな一日を過ごしていたのか。


 あのデスクで、誰と、何を話していたのか。


 どちらも、探る指先の届く場所には、なかった。


 もう、確かめようが、なかった。


 赤黒い空も、巨大な罅も、白い仮面も、あの叫びも。


 二度と、像を結ばなかった。


 消えている、と、はっきり分かった。


 これまでのように、まだある、遠いだけ、とは、違った。


 完全に、なくなっていた。


 悲しくない、と言えば嘘になる。


 誰だったのか、もう、確かめる術がない。


 それでも、名前を失った寂しさより、今、この場所にいる温かさのほうが、ずっと鮮明だった。


 それでも。


 エッグという名前は、ちゃんと、戻ってきていた。


 ミミルの顔も、戻ってきていた。


 困った時に眉を寄せる癖も、笑うと目の端が下がることも、全部、目の前にある。


 前世の名前と顔は、消えた。


 今の名前と、今、目の前にある顔は、戻ってきた。


 全部は、戻らなかった。


 それでも、殻に刻まれた紋が、俺を組み直す足場になったのは、確かだった。


 欠けたまま、拾い直した。


 いつもと、同じだった。


「エッグ……? どうしました、急に、静かになって」


 ミミルが、覗き込むように、殻へ顔を近づけてくる。


 言葉にできないことは、いつものように、揺れで伝えるしかない。


 俺は、左へ、小さく、揺れた。


 悪い知らせだと、伝わったはずだった。


「何か、失ったんですか」


 右へ。


「戻らないものが、あったんですね」


 もう一度、右へ。


 ミミルは、それ以上、何も聞かなかった。


 ただ、殻を包む手に、少し、力がこもった。


「……教えてくれなくても、いいです。それでも、あなたは、あなたです」


 その一言に、揺れる代わりに、殻の奥が、ふっと、緩んだ気がした。


「感情も一緒に流れ込んでいたなんて……ごめんなさい。相談もせずに」


 ミミルが、殻へ両手を添えたまま、うつむいた。


「重かった、ですよね」


「それに……正直、私にも、あの紋の中で、感情と魔力が、これから先、どうなっていくのか、全部は分かっていません。刻んだ時は、無我夢中で」


 声が、また、少し、不安げに、揺れた。


「もしかしたら、まだ、私の知らない何かが、あなたの中に、残っているかもしれません」


 重くは、なかった。


 むしろ、あの虚無の底で、揃えと迫る鼓動に抗えたのは、あの重さがあったからだ。


 俺は、左へ、揺れた。


 もう一度、強く、左へ。


 伝えたいことが、揺れだけでは、足りない気がした。


 殻の奥で、初めて、言葉のようなものが、形を持った。


 声にはならない。


 それでも、届けと、念じた。


『……ミミル』


 ミミルの肩が、跳ねた。


 目を、大きく見開いて、俺を見る。


「今……」


「聞こえました……!?」


 俺は、右へ、揺れた。


 もう一度、右へ。


 ミミルの目から、また、涙がこぼれた。


 今度は、さっきと違う色の涙だった。


 レオンが、息を呑む音がした。


 角兎が、耳を、ぴんと立てる。


 黒竜だけが、目を閉じたまま、動かなかった。


 その静けさが、少しだけ、寂しかった。


 この声で、みんなを守ってきた竜だった。


 目を覚ましたら、真っ先に、何と言うだろう。


 早く、あの声で、何か言ってほしい。


 そう思った、その時だった。


 夜営跡の空気が、ふいに、ざわついた。


 風もないのに、焚き火の残り火が、大きく揺れる。


 剣の柄に結ばれた布包みも、揺れないはずなのに、微かに震えた気がした。


 背中の側で、空気が、軋んだ。


 振り返る前に、分かった。


 あるはずのない場所に、何かが、開いている。


 ゆっくりと、視線を回す。


 地割れでも、光の渦でもない。


 四角く切り取られた、扉の形をした、闇だった。


 輪郭だけが、白く縁取られている。


 その向こう側に、見覚えのある記録室とは違う、もっと奥まった、白い空間が、覗いていた。


 白い仮面が、幾つも並んで見える。


 あの、平らな声の、いちばん中枢。


 この谷の入口は、施設のどこにも繋がっていないはずだった。


 それなのに。


 俺の後ろで、あるはずのない扉が、独りでに、開いていた。

記憶殻の話でした。全部は戻らなくても、足場にはなる。そういう再生の形を書きたかったです。

 次はいよいよ、この新しい扉の向こうへ進みます。


お読みいただきありがとうございます!



「続きが気になる」「卵、がんばれ」と思っていただけたら、下の☆☆☆☆☆やブックマークで応援してもらえると嬉しいです。感想もひとこと置いていってくれたら、殻にヒビが入るくらい励みになります。



廃棄推奨の最弱卵が世界を孵すまで、どうか見届けてやってください。



▼公式サイト(キャラクター紹介・漫画化などの最新情報)

https://hibiware.akibaground.jp/

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