第59話 殻魔獣
探知石は。
布を重ねても。
冷たいままだった。
なのに。
殻の奥が。
じくりと痛む。
腐毒の熱とは違う。
もっと深い場所。
俺を。
俺だと示している何かが。
あの石へ引かれている。
「エッグ?」
ミミルが。
俺の殻へ手を添えた。
小さく。
右へ揺れる。
大丈夫。
そう答えた直後。
視界の端に。
文字が浮かんだ。
================
進化条件を満たしました。
《腐毒卵》
↓
《殻魔獣》
必要条件:
腐毒因子の分離
余剰因子の魔力変換
殻外器官の形成
警告:
進化中は殻の機能が停止します。
腐毒因子の排出に失敗した場合、生命力を失います。
排出された腐毒は周囲を汚染します。
進化しますか?
================
来た。
進化。
待っていた。
はずだった。
今より強くなれる。
ミミルを守れる。
けれど。
周囲を汚染します。
やめろ。
俺一人で死ぬなら。
まだいい。
よくないけど。
まだ、俺の問題だ。
ここには。
傷ついた小さなゴブリンがいる。
スライムがいる。
小鳥がいる。
角のある兎がいる。
腐毒を撒けば。
全員が巻き込まれる。
俺は。
左へ揺れた。
「嫌、ですか?」
違う。
もう一度。
左。
それから。
周りの魔物たちへ向けて。
細かく震える。
ミミルは。
俺と。
住民たちを見回した。
「ここで進化すると、危ないのですね」
右。
「エッグの中に残っている毒が、出てくる?」
右。
ミミルの視線が。
石造りの中和槽へ向いた。
毒吸い草。
保水苔。
スライムの粘液。
水。
俺の腐毒を受け止めるために。
作った槽。
「中和槽で受ければ、進化できますか?」
分からない。
文字は。
答えてくれない。
排出された腐毒を。
あれが全部受け止められるかどうか。
俺は。
左右へ小さく揺れた。
「試してみなければ分からない」
右。
ミミルは。
中和槽の縁へ手を置いた。
水の深さを測る。
毒吸い草を持ち上げる。
槽の底へ沈んだ苔を確かめる。
「量が足りません」
やっぱり。
「でも、増やせます」
ミミルが立ち上がった。
小さなゴブリンへ。
毒吸い草を示す。
「これと同じ草を。触るときは、この布を使ってください」
ゴブリンは。
布を受け取った。
小鳥には。
乾いた苔。
「同じものを、屋根や井戸の近くから集めてください」
小鳥が飛ぶ。
スライムには。
空の木桶。
「水をお願いします。槽へ入る必要はありません」
スライムが。
ぺしゃりと潰れて。
木桶の下へ潜り込んだ。
角のある兎は。
何も言われる前に。
後ろ足で地面を叩いた。
とん。
森へ走る。
全員が。
動き始めた。
俺のために。
ここへ来たばかりの。
ひび割れた卵のために。
……断れない。
断りたくない。
俺も。
ここで変わりたい。
ミミルは。
中和槽の周りへ浅い溝を掘った。
あふれた水が家々へ流れないように。
溝の先へ。
さらに保水苔を敷く。
戻ってきた住民たちが。
集めた素材を置いていく。
毒吸い草。
保水苔。
水。
粘液。
槽の中身が。
元の倍近くまで増えた。
「エッグ」
ミミルが。
俺の前へ膝をつく。
「進化が始まったら、私は何をすればいいですか?」
分からない。
「触れていても大丈夫ですか?」
左。
殻の機能が止まる。
何が起きるか。
俺にも分からない。
ミミルの手まで。
腐毒に触れさせるわけにはいかない。
「分かりました。触れません」
ミミルは。
少しだけ唇を結んだ。
「でも、そばにはいます」
右へ揺れる。
それなら。
頼む。
俺は。
布を敷いた木板に載せられ。
中和槽の中央へ渡された。
下には。
濁った水。
周囲には。
集落の住民たち。
逃げられるように。
全員が槽から離れている。
ミミルだけが。
溝の外側に残った。
「始めてください」
視界に残る文字へ。
意識を向ける。
進化しますか?
右へ。
強く。
揺れた。
================
進化を開始します。
腐毒因子を分離します。
================
熱が。
消えた。
痛みも。
重さも。
何も感じない。
殻が。
俺のものではなくなったみたいだ。
揺れようとする。
動かない。
魔力を流そうとする。
流れない。
完全に。
無防備。
今。
武装ゴブリンが戻ってきたら。
今。
探知石を持つ誰かが来たら。
俺は。
転がることすらできない。
「エッグ」
ミミルの声が。
聞こえる。
「ここにいます」
その声だけを。
追う。
殻の内側で。
腐毒が動いた。
亀裂に染み込んでいた紫色が。
一か所へ集まる。
熱い。
殻の感覚はないのに。
中身だけが焼けている。
紫色の筋が。
ひびを逆向きに昇った。
一筋。
二筋。
三筋。
四筋。
殻の下側へ集まり。
別々の亀裂から。
外へ噴き出した。
しゅう。
中和槽の水が鳴る。
白い湯気。
紫の泡。
「毒が出ました!」
ミミルの声。
「槽の外へは出ていません!」
まだだ。
殻の奥には。
もっとある。
次の腐毒が。
四本の筋へ流れ込む。
しゅう。
水が盛り上がった。
毒吸い草が黒ずむ。
保水苔が紫色へ変わる。
小さなゴブリンが。
新しい草を槽へ投げ入れた。
小鳥たちが。
苔を溝へ落とす。
スライムが木桶を押し。
新しい水を流し込む。
角のある兎が。
後ろ足で木板を支えた。
板が。
腐毒の泡で滑っていた。
兎が離せば。
俺は槽へ落ちる。
それでも。
兎は逃げなかった。
四本の腐毒が。
さらに太くなる。
槽の縁から。
紫色の泡がこぼれた。
溝へ流れる。
苔が吸う。
止まらない。
「毒吸い草を、もう一束!」
ミミルが叫ぶ。
ゴブリンたちが運ぶ。
草が沈む。
黒くなる。
また運ぶ。
俺の中に。
これだけの毒があったのか。
腐毒を抑えた。
痛みが消えた。
それで。
なくなったつもりでいた。
全部。
殻の奥に残っていた。
================
腐毒因子の分離が完了しました。
排出率:100%
周辺汚染:許容範囲
余剰因子を魔力へ変換します。
================
紫色の噴出が。
止まった。
終わった。
そう思った瞬間。
四本の亀裂から。
何かが逆流した。
毒ではない。
槽の中へ出したはずの。
腐毒の形だけが。
殻へ戻ってくる。
紫ではなく。
半透明の魔力として。
一つ目は。
右前。
二つ目は。
左前。
三つ目は。
右後ろ。
四つ目は。
左後ろ。
四本の亀裂から伸びた魔力が。
水面の上で曲がる。
先端が。
開く。
閉じる。
腕だ。
指のない。
太く短い腕。
腐毒を外へ流すためにできた。
四本の通り道。
その通り道へ。
組み替えられた魔力が満ちている。
だから。
四本。
偶然。
生えたわけではない。
俺の毒を。
四方へ逃がした跡が。
そのまま。
殻の外で動く腕になった。
================
殻外器官の形成を確認しました。
《魔力腕 Lv1》が殻外器官として定着しました。
進化条件を達成しました。
《腐毒卵》から《殻魔獣》へ進化しました。
進化成功。
================
成功。
はっきりと。
書いてある。
進化成功。
俺は。
《殻魔獣》になった。
殻の感覚が戻る。
補修層の柔らかさ。
木板の傾き。
湿った風。
そして。
四本の腕。
右前の腕へ。
力を入れる。
木板を叩いた。
ばきっ。
板が割れた。
……え。
俺は。
そのまま中和槽へ落ちた。
「エッグ!」
四本の腕を。
全部伸ばす。
右前が槽の縁。
左前が石壁。
右後ろが水の中。
左後ろが空振り。
体が斜めになる。
顔はないけど。
たぶん。
ひどい格好だ。
右後ろを水から抜く。
左後ろを槽の底へ突く。
二本で押す。
二本で引く。
殻が。
水面から持ち上がった。
自分の力で。
転がっていない。
持ち上がっている。
四本の腕が震えながら。
俺を槽の外へ運んだ。
一歩。
二歩。
三歩。
歩ける。
卵なのに。
歩ける。
……いや。
四本腕で地面を這っているだけだ。
でも。
歩行だ。
「止まれますか?」
ミミルに言われて。
止まろうとする。
右前が動く。
左後ろが滑る。
残り二本が。
なぜか地面を強く押した。
加速した。
「こちらです!」
ミミルが。
厚い苔の山を指す。
突っ込む。
ぼすん。
止まった。
苔まみれで。
止まった。
進化は。
成功した。
制御は。
終わっている。
その後。
俺は広場へ移された。
最初は。
一本ずつ。
右前を上げる。
下ろす。
左前を上げる。
下ろす。
右後ろ。
左後ろ。
一本なら。
動く。
二本になると。
怪しい。
四本同時だと。
俺自身がどこへ行くのか。
俺にも分からない。
「急がなくて大丈夫です」
ミミルが。
地面へ四つの丸を描いた。
「一本ずつ、印へ置きましょう」
右前。
左前。
右後ろ。
左後ろ。
置く。
持ち上げる。
前の二本を伸ばす。
後ろの二本で殻を押す。
進む。
今度は。
苔の山へ突っ込まなかった。
広場の端まで。
自分の腕で歩けた。
次は。
防御。
小さなゴブリンが。
布を丸めた球を投げる。
右前の腕を広げる。
魔力が。
薄い膜になる。
球が当たり。
地面へ落ちた。
もう一つ。
左前。
受け止める。
二つ同時。
左右の腕で。
殻の前を覆う。
受け止めた。
俺の殻には。
触れていない。
今までなら。
避けるか。
殻で耐えるしかなかった。
今は。
殻の外で防げる。
次は。
運搬。
中和を終えた槽から。
黒くなった毒吸い草を出す。
右前と左前で。
草を挟む。
後ろの二本で歩く。
重い。
形が崩れる。
それでも。
汚染された草を。
集落の外れに掘った穴まで運べた。
スライムの木桶も。
薬草の束も。
割れていない小瓶も。
持てる。
歩ける。
防げる。
運べる。
俺に。
腕がある。
四本も。
……人間だった頃より。
二本多い。
少しくらい。
一本分けてもいい。
いや。
分けられないけど。
最後に。
角のある兎が。
木の棒をくわえてきた。
武装ゴブリンが落とした棍棒より。
ずっと細い。
訓練用。
兎が。
棒を地面へ置く。
その横には。
古い切り株。
あれを。
叩けということらしい。
右前の腕で。
棒をつかむ。
持ち上げる。
切り株へ。
軽く。
振る。
つもりだった。
魔力腕が。
膨らんだ。
殻の奥で。
何かが跳ねる。
壊せ。
強く。
もっと。
切り株ではない。
その向こう。
逃げた武装ゴブリン。
俺を捕らえた者。
探知石を持たせた者。
追ってくる者。
全部。
壊せ。
四本の腕が。
一斉に伸びた。
一本が棒を振り下ろす。
切り株が割れた。
二本目が地面を抉る。
三本目が。
そばにあった石を砕く。
四本目が。
動けずにいる。
小さなゴブリンへ向いた。
違う。
そいつは敵じゃない。
止まれ。
腕は。
止まらない。
殻魔獣。
魔獣。
文字の意味が。
殻の内側で熱を持つ。
強くなった。
壊せる。
だから。
壊せ。
「エッグ」
ミミルの声。
腕が。
小さなゴブリンの頭上で止まる。
「こちらを向いてください」
目はない。
それでも。
声の方へ。
意識を向ける。
ミミルが。
右手を上げた。
「右です」
合図。
右は。
はい。
「止まれます」
右。
「その腕は、エッグの腕です」
右。
「壊すためだけのものではありません」
右。
「さっき、みんなを守りました」
右。
「薬草も運びました」
右。
「だから、戻ってきてください」
四本の腕から。
力が抜けた。
魔力が縮む。
小さなゴブリンへ向いていた腕を。
ゆっくり下ろす。
地面へ。
四本とも。
置く。
とん。
角のある兎が。
足を鳴らした。
ひびの奥で。
小さく返す。
俺は。
戻った。
小さなゴブリンは。
しばらく動かなかった。
やがて。
足元に落ちた木の実を拾い。
俺の前へ置いた。
逃げなかった。
怖かったはずなのに。
俺は。
四本の腕を縮めた。
殻へ触れないほど。
小さく。
「今日は、ここまでにしましょう」
ミミルが。
俺のそばへ座る。
「進化は成功しました」
その言葉に。
右へ揺れる。
「腕も四本、できました」
右。
「歩けました」
右。
「守れました」
右。
「運べました」
右。
「でも、攻撃するときは止まれなくなりました」
動けない。
右にも。
左にも。
事実だった。
ミミルは。
探知石を包んだ布を見た。
「強くなった力と、あの石が関係しているかもしれません。そうでなくても、慣れるまでは一人で攻撃しないでください」
右。
今度は。
迷わない。
四本の腕を。
一本ずつ地面へ置く。
右前。
左前。
右後ろ。
左後ろ。
立つ。
まだ。
少し震える。
それでも。
殻だけで。
地面に転がっていた俺が。
四本の腕で。
ミミルの隣に立っている。
強くなった。
間違いなく。
そして。
強くなった俺は。
前よりも。
俺自身を止める方法が必要になった。
森の向こうで。
枝を踏む音がした。
一度。
また一度。
角のある兎が。
耳を立てる。
俺も。
四本の腕を地面へ広げた。
今度は。
壊すためではない。
ミミルと。
集落を。
守るために。
殻魔獣への進化が成立し、腐毒の排出路から四本の魔力腕が形成されました。
便利な腕を得た一方、その力には新しい危うさも伴います。
お読みいただきありがとうございます!
「続きが気になる」「卵、がんばれ」と思っていただけたら、下の☆☆☆☆☆やブックマークで応援してもらえると嬉しいです。感想もひとこと置いていってくれたら、殻にヒビが入るくらい励みになります。
廃棄推奨の最弱卵が世界を孵すまで、どうか見届けてやってください。
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