第24話 素材不足の壁
翌朝。
工房の中は、いつもより少しだけ緊張していた。
扉は仮修理。
窓には封印札。
外にはギルド職員。
机の上には、洗った器具。
棚には薬草。
そして、奥の小箱には、俺の自然に剥がれた殻片。
今日は、低刺激回復薬を一本だけ作るかどうか決める日だ。
俺は低い棚のエッグ箱の中で、自分だけに見える表示を確認した。
================
生命力:3/3
魔力:3/3
ひび割れ率:42%
状態:安定傾向を維持
================
よし。
今日も安定。
ひび割れ率も増えていない。
とりあえず、俺自身の状態は悪くない。
ただし、だからといって何でもしていいわけではない。
安定している時こそ、無理をしない。
前世の俺は、体調が少し戻った瞬間に仕事を詰め込んで、結局また死にかけるタイプだった。
いや、実際に死んだわけだが。
笑えない。
ミミルは俺の前にしゃがみ込んだ。
「エッグ、今日の状態は大丈夫そう?」
右。
大丈夫そう。
「熱はない?」
左。
「痛みは?」
左。
「震えも変じゃない?」
右。
変じゃない。
ミミルは記録帳に書いた。
『朝』
『熱感なし』
『痛みなし』
『震え安定』
『ひびからの光なし』
『安定傾向』
『作業可否は慎重に判断』
それから、ミミルは少し迷うように俺を見た。
「今日、低刺激回復薬を作るかどうかだけど……」
来た。
俺は静かに構える。
「まず、材料を確認してから決める?」
右。
それがいい。
「材料が足りなかったら作らない?」
右。
「足りないからって、エッグから新しく取るのは絶対なし?」
右。
絶対。
そこは迷わず右だ。
ミミルもすぐに頷く。
「うん。そこは絶対しない」
よし。
一番大事な線は引けている。
今日は受付嬢が立ち会いに来ることになっている。
ただし、製法を見るためではない。
安全確認と、ギルド経由で一本だけ提供するための記録係だ。
ミミルは昨日のうちに、受付嬢へそう確認していた。
作業台の近くには立たない。
補助材の細かい量や手順は見ない。
完成品と本数、エッグの状態、無理な採取がないことだけ確認する。
情報を守るためだ。
しばらくして、受付嬢が工房へ来た。
「おはようございます。状態はどうですか?」
ミミルが記録を見せる。
「今のところ安定しています」
俺は籠の中で右へ小さく揺れた。
受付嬢は近づきすぎない距離で頷いた。
「わかりました。今日は私は安全確認と記録のみです。製法の詳細には触れません」
ありがたい。
かなりありがたい。
俺はまた右へ揺れた。
受付嬢は机から少し離れた場所に立った。
「無理そうなら、すぐ中止でお願いします」
「はい」
ミミルは深呼吸して、棚の奥から小箱を取り出した。
小さな木箱。
布で包んである。
中にあるのは、俺から自然に剥がれた殻片だ。
俺は、その箱を見るだけで少し変な気分になる。
もう本体から離れている。
痛みはない。
でも、あれは確かに俺の一部だった。
爪を切った後の爪を見ている感覚に近いのだろうか。
いや、爪より重い。
もっと大事なものを見ている気がする。
ミミルは箱を開ける前に、俺を見た。
「開けてもいい?」
右。
「見るだけで嫌なら、閉じる」
右。
わかってる。
ミミルはゆっくり箱を開けた。
中には、薄い殻片が数枚。
大きなものはない。
最初に剥がれた時より、ずっと少ない。
当然だ。
自然に剥がれたものしか入れていない。
俺を削って増やしていないのだから。
ミミルは一枚ずつ、布の上に置いた。
大きさはばらばら。
色も少し違う。
薄く赤みを帯びたもの。
白っぽく乾いたもの。
端が欠けたもの。
粉のように崩れかけたもの。
ミミルの表情が曇った。
「……思ったより少ない」
そう。
少ない。
俺も見ていてわかる。
一本作るだけなら足りると思っていた。
だが、使えそうな状態のものは限られている。
ミミルは記録する。
『自然脱落殻片』
『残量少』
『大きな欠片なし』
『崩れかけあり』
『使用可否の確認必要』
受付嬢が少し離れた場所から言った。
「残量が足りない場合は中止してください。追加採取は認められません」
「はい」
その言葉に、俺はかなり安心した。
ギルド側からもはっきり言ってくれるのは大事だ。
ミミルは殻片を前にして、悩んだ。
「一本分……あるかな」
俺はじっと殻片を見る。
いや、見えないのだが。
それでも、何となくわかる。
素材としての気配。
いつもの《素材感知》に近い感覚が、殻の内側でかすかに震えた。
俺は無理に集中しないようにした。
使いすぎると疲れる。
でも、今は大事な確認だ。
================
《素材感知 Lv1》の使用を確認。
対象:自然脱落した卵殻片
状態:乾燥、反応低下
一部、薬液安定補助に使用可能
注意:過度な使用は推奨されません。
================
全部が使えるわけではない。
一部だけ。
俺は小さく震えた。
ミミルが顔を上げる。
「どれか、気になるの?」
右。
気になる。
ミミルは殻片を一枚ずつ指差す。
ただし、直接触りすぎないよう、細い木の棒で示した。
「これ?」
左。
「これ?」
左。
「こっち?」
少し迷って、右。
それは薄く赤みが残った小さな欠片だった。
ミミルは慎重に別の布へ移す。
「これが良さそう?」
右。
「じゃあ、これも?」
次に指したのは白く乾いた欠片。
俺は迷って、左へ揺れた。
違う。
たぶん反応が弱い。
ミミルはすぐに書いた。
『赤みのある小片に反応』
『白く乾いた欠片には反応薄い』
『判断は外見とエッグの反応による』
『詳細不明』
詳細不明。
それでいい。
外から見える範囲と、俺の反応だけ。
ミミルは使えそうな欠片を二枚だけ選んだ。
だが、量は明らかに少ない。
「一本分には……少ないかも」
出た。
素材不足の壁。
薬草はある。
水もある。
器具もある。
でも、肝心の補助材が少ない。
俺を削らないなら、増えない。
当たり前だ。
当たり前なのに、いざ目の前にすると重い。
ミミルは黙り込んだ。
受付嬢も何も言わない。
俺も揺れなかった。
ここで焦ってはいけない。
足りないなら、作らない。
それでいい。
だが、ミミルはしばらく考えたあと、別の棚を見た。
「補助材を少なくして、薬自体を薄くする方法なら……」
お。
そう来るか。
「普通の回復薬としての効果は下がるけど、低刺激にはなるかもしれない」
なるほど。
強い回復ではなく、軽傷向けの弱めの薬。
最初の試験対象は軽傷者だ。
なら、無理に効き目を強くする必要はない。
ただし、勝手に薄めた粗悪品にしてはいけない。
ミミルはすぐに受付嬢を見る。
「効果を弱めた試験薬としてなら、ありですか?」
受付嬢は即答しなかった。
書類を確認してから言う。
「薬師ギルドへは、軽傷者向けの低刺激回復薬として提供する予定です。効果が通常より弱いなら、その点を明記する必要があります」
「はい。書きます」
「品質を偽らないなら、試験品としては可能です。ただし、ギルドで簡易確認してから渡します」
「お願いします」
良い。
ちゃんと確認している。
俺は右へ揺れた。
ミミルは俺を見る。
「効果が弱くても、一本作ってみる?」
俺は少し考えた。
殻片は少ない。
使うなら二枚。
いや、もしかしたら一枚で足りるかもしれない。
なるべく少なくしたい。
俺はすぐには揺れなかった。
ミミルが少しずつ確認する。
「無理に作らない方がいい?」
俺は迷って、左。
作らない一択ではない。
「じゃあ、作る方向?」
右。
「でも、殻片は少なめ?」
右。
「二枚使う?」
俺は迷った。
二枚は多い。
今ある使えそうな欠片の大半を使うことになる。
左。
「一枚だけ?」
右。
そう。
一枚だけ。
まずはそれで試したい。
ミミルは慎重に頷いた。
「一枚だけで、効果弱めの試験薬。駄目そうなら中止」
右。
それでいい。
受付嬢は内部記録に書いた。
『自然脱落殻片一片のみ使用』
『追加採取なし』
『効果弱めの試験薬として調整』
『製造中に状態悪化があれば中止』
よし。
線は引けている。
ミミルは作業を始めた。
まず、低級薬草を細かく刻む。
普通の回復薬より、量は少なめ。
刺激の強い苦味草は使わない。
代わりに、穏やかに傷を塞ぐ月露草を少し。
水は一度沸かしてから冷ます。
強い火にかけない。
ゆっくり温める。
香りは薄い。
いつもの回復薬より、薬草臭さが少ない。
ミミルは一つ一つ、声に出して確認した。
「薬草少量」
書く。
「月露草、少し」
書く。
「温度、低め」
書く。
「補助材、一片のみ」
ここでミミルの手が止まった。
俺も少し緊張した。
小さな赤みのある殻片。
ミミルはそれを細かく砕かず、布で包んで軽く押した。
粉にしすぎない。
必要最小限だけ薬液に触れさせるつもりらしい。
俺は右へ揺れた。
いい。
削りすぎない。
溶かしすぎない。
ミミルは布包みの殻片を、薬液にほんの少し沈めた。
薄い赤みが、一瞬だけ水面に広がる。
すぐに消えた。
薬液の色は、淡い緑。
通常の回復薬よりかなり薄い。
ミミルは息を止めるように見守る。
薬液は暴れなかった。
泡立ちも少ない。
嫌な魔力の揺れもない。
俺の殻の中も、特にざわつかない。
================
自然脱落殻片との外部接触を確認。
生命力:3/3
魔力:3/3
ひび割れ率:42%
状態:安定傾向を維持
《魔力安定・未獲得》への適性反応が微量上昇しました。
================
お。
少し反応した。
でも状態は変わらない。
ひび割れ率も上がっていない。
よし。
今回は大丈夫そうだ。
ミミルが小声で聞く。
「エッグ、大丈夫?」
右。
大丈夫。
「続けてもいい?」
右。
ミミルは慎重に薬液を混ぜた。
そして、一定時間が過ぎると、布包みの殻片を取り出した。
殻片は少し白っぽくなっていた。
完全に溶けたわけではない。
まだ形は残っている。
俺はそれを見て、少し安心した。
全部消えたら、たぶん気分が悪かった。
ミミルもほっとしたように言う。
「まだ残ってる」
右。
残ってる。
受付嬢は少し離れた位置から確認する。
「追加はしませんね?」
「しません」
ミミルは即答した。
いい。
すごくいい。
足りないから足す、ではない。
決めた範囲で止める。
これが大事だ。
薬液を濾して、小瓶に入れる。
量は一本分。
色は淡い。
香りも弱い。
見た目は、頼りない。
だが、乱れは少ない。
ミミルは瓶を持ち上げ、少し不安そうに言った。
「できた……けど、効くかな」
それはわからない。
俺にもわからない。
鑑定してもらうしかない。
受付嬢が瓶を受け取り、布で包んだ。
「ギルドで簡易確認します。ここでは評価しません」
そうして、俺たちはギルドへ向かった。
今回は俺も同行する。
保護対象の木札つき籠。
ミミル。
受付嬢。
完成した試験薬一本。
道中、ミミルはずっと瓶を気にしていた。
俺も気になっていた。
殻片一枚で足りたのか。
薄すぎないか。
逆に、何か変な反応はないか。
ギルドの簡易鑑定室では、鑑定士が待っていた。
瓶を受け取り、水晶の前に置く。
淡い光が薬液を包んだ。
================
低刺激回復薬・試験用
品質:低〜中
効果:軽傷の回復補助
特徴:魔力刺激が少ない
備考:効果は弱いが、薬液の乱れは少ない。
試験提供向け。重傷には不向き。
================
低〜中。
効果は弱い。
でも、魔力刺激が少ない。
薬液の乱れも少ない。
目的には合っている。
ミミルは大きく息を吐いた。
「よかった……」
俺も右へ揺れた。
よかった。
完璧な薬ではない。
でも、今回必要なのは完璧ではない。
軽傷者向け。
低刺激。
一本だけ。
それなら、これでいい。
鑑定士は静かに言った。
「通常の回復薬より効果は落ちます。ただ、刺激はかなり抑えられています。試験用としてなら妥当でしょう」
受付嬢が記録する。
『効果弱め』
『低刺激性あり』
『試験提供可』
『重傷使用不可』
『追加製造は状態確認後』
ギルド長もやって来た。
鑑定結果を見て、短く頷く。
「渡していい。条件通り、一本だけだ」
ミミルが頷く。
「はい」
ギルド長は俺を見る。
「エッグの状態は?」
ミミルが答える。
「作業後も、熱や震えの変化はありません」
俺も右へ揺れた。
大丈夫です。
ギルド長は受付嬢へ言う。
「外部には、ミミル工房の試験薬として渡せ。補助材の詳細は伏せる。追加依頼は受けるな」
「承知しました」
その時、俺は少しだけ安心した。
一本。
本当に一本で止まった。
だが、その安心は長く続かなかった。
受付嬢が薬師ギルドへの引き渡し準備をしている時、ギルドの広間から声が聞こえてきた。
「低刺激の薬、できたらしいぞ」
「薬師ギルドに渡すってよ」
「ミミルって見習いだろ? そんな薬作れるのか」
「例の卵が関係してるんじゃねえの?」
まただ。
また卵が混ざっている。
俺は籠の中で小さく震えた。
ミミルの顔も少し強張る。
受付嬢はすぐに広間へ出て、落ち着いた声で言った。
「現在扱っているのは、ミミル工房の試験薬です。詳細はギルド管理下にあります。根拠のない噂を広めないように」
根拠は少しある。
だが、広めないでほしい。
非常に。
冒険者たちは気まずそうに散った。
だが、やはり噂は消えない。
低刺激回復薬。
割れ物保護材。
保護対象の卵。
それぞれ別に管理しようとしても、人の頭の中では勝手につながる。
これが怖い。
ミミルは小さく呟いた。
「やっぱり、目立つね」
俺は右とも左とも揺れなかった。
そう。
目立つ。
一本だけでも目立つ。
役に立つものは、隠しても匂いがする。
ギルド長は俺たちに言った。
「今日はこれ以上動くな。薬はギルドが渡す。ミミルは工房へ戻って休め」
「はい」
「それと、殻片の残量は?」
ミミルは少し言いづらそうに答えた。
「使えそうなものは、もうほとんどありません」
ギルド長の表情がわずかに険しくなる。
「なら、次は作れないな」
「はい。少なくとも、今すぐには」
それが現実だ。
素材不足。
自然脱落しか使わないなら、量は限られる。
低刺激回復薬を求められても、割れ物保護材が評価されても、何でも大量には作れない。
そもそも、俺を削らないという条件がある。
その条件は絶対に動かせない。
ギルド長は頷いた。
「なら、外にもそう伝える。継続提供はできない。次回は未定。材料と状態次第」
右。
それでいい。
受付嬢も書類に追記した。
================
追加提供について:
現時点で継続提供不可。
次回製造時期未定。
材料状態および製作者側の確認が必要。
予約、独占、先払いによる確保は不可。
================
予約不可。
独占不可。
先払い不可。
いい。
かなりいい。
金を積まれても、ないものはない。
俺を削らないなら、素材は増えない。
ミミルはその書類を見て、少しだけ安心したようだった。
工房へ戻る道で、ミミルは黙っていた。
俺も静かにしていた。
一本の薬はできた。
でも、素材はほとんどなくなった。
助けたい人はいる。
でも、次を求められても作れない。
俺を削れば作れるかもしれない。
だが、それはしない。
この壁は、思ったより高い。
工房に戻ると、ミミルは殻片の箱をもう一度出した。
中を確認する。
赤みのある欠片は、あと一つ。
それも小さい。
白く乾いたものはいくつかあるが、反応は弱い。
粉になったものは、使えるかどうかわからない。
ミミルは箱を閉じた。
「……素材、足りないね」
右。
足りない。
「エッグから取れば、作れるのかな」
俺は震えた。
ミミルはすぐに首を振る。
「ごめん。取らない。絶対取らない」
右。
わかってる。
今のは、考えが口に出ただけだ。
でも、その考えはたぶん、これから何度も出てくる。
周りからも言われるかもしれない。
少しだけ。
自然に剥がれるのを待てないか。
どうせ再生するのではないか。
高値で買う。
患者のためだ。
善意も悪意も、同じ言葉を使ってくるかもしれない。
ミミルは箱の上に手を置いた。
「足りないなら、別の方法を探す」
右。
それがいい。
「エッグの殻片じゃなくても、近い働きをする素材があるかもしれない」
右。
あるかもしれない。
探す価値はある。
「薬草とか、貝殻粉とか、魔力を落ち着かせる石とか……」
ミミルは記録帳を開き、新しいページに書いた。
『代替素材候補』
『月露草』
『白貝殻粉』
『沈静石の粉』
『低刺激樹脂』
『乾燥水苔』
『要調査』
代替素材。
次の課題が決まった。
俺の殻片を使わずに、低刺激を再現できる素材。
それが見つかれば、俺を削らずに薬を作れる。
ミミルも工房を続けられる。
困っている患者も助けられる。
もちろん、簡単ではないだろう。
でも、方向は見えた。
その夜。
俺はエッグ箱の中で、ステータスを確認した。
================
生命力:3/3
魔力:3/3
ひび割れ率:42%
状態:安定傾向を維持
《魔力安定・未獲得》への適性反応が微量上昇しました。
《素材感知 Lv1》の熟練度が微量上昇しました。
================
状態は維持。
ひび割れ率も変わらない。
今日はそれだけで十分だ。
ミミルは机で代替素材候補を書き出していたが、途中で筆を止めた。
「今日はもう寝る」
右。
えらい。
ちゃんと寝るのは大事。
ミミルは布団に入る前に、俺の箱の前で小さく言った。
「エッグ、今日はありがとう。でも、次はエッグの殻片じゃない方法を探そう」
右。
そうしよう。
素材不足の壁。
それは、俺たちにとって大きな問題だった。
でも同時に、必要な壁だったのかもしれない。
俺を削って進む道ではなく。
俺を守りながら進む道を探すための壁。
低刺激回復薬は一本だけできた。
だが、次は未定。
その未定を埋めるために、明日から代替素材を探す。
俺は静かに震えを止めた。
割れないために。
削られないために。
そして、少しずつ役に立つために。




