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第120話 秤の印の最後の取り立て

通りに、風が止まった。


 男の笑みが揺れたまま、動かなくなる。


 レオンは、柄から手を離さない。


 抜かない。


 抜けば、また別の口実が、商会の手の中に生まれる。


 それだけは、分かっていた。


 先頭の男が、書類を胸の高さへ掲げ直した。


「誤解のないよう、申し上げます」


 声は、あくまで丁寧だった。


「工房開設時、当商会は、街の保護費用を先に納めました。薬材の立替も、保護棟への移送治療費も」


 数字が、几帳面に並んでいるらしい紙だった。


「これらは、いまだ返済されていません。その保全として、我々には正当な権利があります」


「エッグは、その債権の対象ではありません」


 ミミルが、俺の籠を胸へ強く抱いた。


「あの子は、私の相棒です」


 相棒。


 あの日と、同じ言葉だった。


 あの日は、命令書が破られた。


 今日は、まだ、破られていない。


「所有とは、申し上げておりません」


 男の声が、少しだけ滑らかになる。


「中立評議の決定に触れるつもりも、ございません。我々が申し上げているのは、災害下における、公共資産としての確保です」


 封印、所有契約、強制登録。


 禁じられた三つの言葉を、男は器用に避けていた。


 迂回された道は、まだ、塞がっていない。


「公共資産、だと」


 ガルドが、瓦礫を蹴って前へ出た。


「街を守ったのは、こいつだぞ。守られる側が、何様のつもりだ」


「街を守ったこと自体、当商会は否定しておりません」


 男は、少しも動じなかった。


「だからこそ、その力を、これからも街のために使っていただきたい。個人の判断ひとつで、いなくなられては困るのです」


「あんたらに、そう決める権利はねえだろ」


「権利は、書類の中にあります」


 男が、束を軽く振った。


 紙の擦れる音が、やけに乾いていた。


「街を、思えばこそです」


 男は、崩れなかった。


「破棄が続けば、この街の資産価値そのものが失われる。ならば、価値ある個体は、失われる前に保全されるべきです」


 街の心配をしているようで、街を見ていない言い方だった。


 俺の殻の奥が、冷たくなる。


 あの日も、似た言い方を聞いた。


 工房の扉が、三度叩かれた日。


 貴族の使者が、書状を掲げ、ミミルの資格と工房を没収すると告げた日。


 ミミルは、あの日、命令書を破って言った。


 商品でも従魔でもない、相棒だと。


 その言葉のあとに、俺たちは、街を出た。


 工房も、資格も、信用も、なくした。


 それでも、俺たちの旅は、あそこから始まった。


 今、また、同じ通りで、同じ言葉が要る。


 違うのは、あの日は逃げるための言葉で、今日は、留まるための言葉だということだった。


 アリアが、静かに一歩、前へ出た。


「その書類を、見せていただいても」


 男は、一瞬だけ迷い、それでも紙を差し出した。


 拒めば、それ自体が疑いを招くと踏んだらしい。


 アリアが、感応針の先を、印影へそっと近づける。


 針の先が、細かく震えた。


「この印影の魔力……まだ、乾いていません」


「は」


「刻まれてから、まだ半日と経っていない、という意味です」


 アリアの声は、静かなままだった。


「何年も前の債権に、なぜ、これほど新しい印が」


 男の口元が、初めて硬くなる。


「……写しを、取り直しただけです」


「写しに、原本と同じ古さの魔力は、宿りません」


 言葉を返す男の声から、丁寧さが、少しだけ剥がれていた。


 後ろの男の一人が、瓦礫の隙間へしゃがみ込んでいた。


 小さな計量器を手に、崩れた壁の欠片を、指先で拾い上げている。


 欠片ではない。


 殻の色に近い、白い破片を探していた。


「その手、何を探しているんですか」


 ミミルの声が、硬くなった。


「破損した資産に、回収できる部分がないかの確認です」


 男は、それだけ答えた。


 悪びれた様子は、なかった。


 ミミルが、その男の前へ、まっすぐ立った。


「街は、まだ壊れている途中です。今、拾っていいものは、何もありません」


「錬金術師殿のお言葉とは、思えませんね。素材は、いずれ回収されるものです」


「今日じゃない」


 短く、ミミルが言い切った。


 男は、肩をすくめ、しゃがんだまま動かなかった。


 世界が壊れかけている最中でも、目の前の男たちには、まだ、値札の続きが見えているらしい。


 滑稽だと思った。


 同時に、少しだけ、哀しいとも思った。


 値をつける手を、まだ止められずにいる人たちがいる。


 角兎が、その男の指先へ、鼻を強く押しつけて追い払った。


 男は、舌打ちひとつで、立ち上がる。


「話は聞いた、と言ったはずだ」


 レオンが、静かに言った。


 柄には、まだ手を置いたままだった。


「俺の番は、抜くことじゃない。お前たちが、今日、何も持ち帰れないと知ることだ」


 声に、脅しの響きはなかった。


 ただ、譲る気がないという事実だけが、そこにあった。


 男は、レオンの手元を、ちらりと見た。


 柄にかかったまま、動かない手。


 抜かれない剣ほど、始末に困るものはない。


 その表情が、一瞬だけ、そう語っていた。


 ミミルが、外套の内側へ手を入れた。


 薄い帳簿を取り出す。


「受付さん」


 受付嬢が、まだ手の中に、俺の古い木札を握ったままだった。


「これを、確かめてもらえますか」


「これは……」


 受付嬢が、戸惑いながら帳簿を受け取る。


「ロイムさんから、託されたものです」


 ミミルの声は、静かだった。


「品目の欄と、情報の欄が、両方あります」


 受付嬢が、頁をめくる。


「――『工房、割れぬ薬瓶の噂。出所、若い錬金術師』」


 古い記録だった。


 その数行下、指が止まる。


「――『卵殻片、白面へ。教会裏の系統、経由』」


 通りが、しんとした。


 白面。


 回収網の、あの端末たちが名乗る言葉。


 教会の中にある、教会自身も知らない系統。


 ロイムの几帳面な字が、それを、そのまま書き残していた。


 殻片。


 俺の殻から、自然に落ちた欠片だ。


 削られたものではない。


 それでも、値をつけられ、売り先まで決められていた。


 資産と呼ばれることと、殻を売られることは、俺の中では、同じ重さの話だった。


 今も、どこかで、同じことをされている誰かが、いるのかもしれない。


 破棄待機になった井戸も、屋台も、瓦礫も。


 消えたのではなく、どこかへ、移されただけだと、アリアの鑑定板は告げていた。


 移された先で、また、誰かの帳簿に載るとしたら。


 それは、救われたことと、何が違うのか。


 俺には、まだ、分からなかった。


 先頭の男の顔から、初めて、余裕が消えた。


「その帳簿が、どこから……」


 言いかけて、止めた。


 出所を問えば、盗品だと言い張ることもできたはずだった。


 だが、男は、それをしなかった。


「順序が、逆です」


 ミミルが、静かに言った。


「債権があったから、後を追ったんじゃない。回収したいから、後から、債権を用意した」


 似た理屈を、俺たちは、前にも聞いたことがあった。


 薬師のベルクが、同じことを、別の相手に言ったのを覚えている。


 あの時と、今と。


 商会の側の顔ぶれは違っても、やることは、変わっていなかった。


 受付嬢は、帳簿を静かに閉じる。


 代わりに、受付台の奥の棚から、古い通達の写しを取り出した。


「これは、以前、本部から回ってきた通達です」


 紙は、日に焼けて、黄ばんでいた。


 受付嬢の声が、少しだけ、湿っていた。


「ロイムさんは、荷の積み下ろしの帳面をつけに、この受付にも、何度か来ていました」


 商売の慇懃さの下に、几帳面さが、確かにあった。


 その几帳面さが、今、商会の主張を、内側から崩している。


 皮肉だとは、思わなかった。


 ただ、遠くで、誰かが約束を守った、とだけ思った。


 それでも、文字は読めた。


「――継続して意思を示す能力を持つ、自律した同行者として認定します。封印、所有契約、強制登録を禁じます」


 受付嬢は、顔を上げた。


「公共資産という言葉で、この決定を迂回することは、この支部として認めません」


「新しい印影の債権も、証拠にはなりません」


 アリアが、感応針を下ろしながら続ける。


「証拠として扱えるのは、乾いた魔力だけです」


 男は、しばらく、何も言わなかった。


 書類を、ゆっくりと畳んでいく。


 その指の強さに、見覚えがあった。


 谷の入口で、写しの束を、決して離さなかった扉の指と、同じ形をしていた。


 守ろうとするものは、違う。


 守る形は、同じだった。


「帳簿を、正しく残すのは」


 男が、独り言のように言った。


「商会の、仕事です」


 それ以上は、続かなかった。


 男は、ふと、空を見上げた。


 街の上の亀裂は、まだ、そこにあった。


「……仮に、この世界が、作り直されたら」


 声が、途中で止まる。


 誰も、その先を継がなかった。


 継げなかった、というほうが、近いのかもしれない。


 男の部下たちも、書類を持ったまま、空を見上げていた。


 その顔には、もう、値踏みの色は、なかった。


 俺には、その先が、分かる気がした。


 作り直された世界に、債権はいらない。


 保全すべき資産も、取り立てる帳簿も、書いた指も、残らない。


 だが、それを伝える声を、俺は持たない。


 男は、それ以上、何も言わなかった。


「――撤収します」


 短く、部下たちへ告げる。


 瓦礫を探っていた男が、白い欠片を、名残惜しそうに落とした。


 荷馬車が、向きを変える。


 秤と荷箱の印が、傾いた日差しの中で、ゆっくり遠ざかっていった。


 誰も、拍手はしなかった。


 誰も、罵声も浴びせなかった。


 ただ、通りに、静けさだけが戻ってくる。


 受付嬢が、帳簿の最後の頁に、指を止めた。


「……これ」


 差し出された頁に、几帳面な字で、一行だけ書き足されていた。


「これで、返した」


 ロイムの字だった。


 ミミルが、それを見て、小さく息を吐いた。


『……ロイム』


 背の剣に向けてではない、短い念話が、殻の奥から漏れた。


 誰にも届かない声だったが、それでよかった。


 ガルドが、瓦礫の上へ、どすんと座り込む。


「帳面一冊で、商会が引っ込むとはな」


「帳面じゃありません」


 アリアが、静かに言った。


「証拠と、決定です。言葉には、そういう力があります」


 その声に、以前の聖女の口調と、今の口調の、境目はなかった。


 肩掛けを外しても、祈るような言葉づかいは、変わっていない。


 受付嬢が、書類の束から、古い一通を抜き出した。


 角が擦り切れて、紙の端が茶色く焼けている。


「所有権の審査を求めてきた、あの家の書状です」


 盾の形。


 その中に、三本の穂。


 俺が街を出るより前に、押された紋章だった。


「取り下げられています。家名ごと、記録から消えました」


「取り下げ……?」


 ミミルが、顔を上げる。


「代理人が捕まって、家が傾いたそうです。当時のギルド長が、取り下げの控えを、支部へ残していきました」


 受付嬢が、紙を、そっと束へ戻す。


「あの方は、もう引退なさいましたけど。……こういう紙を、必ず一枚、残す人でした」


 俺を欲しがった手のうち、いちばん古い一本は。


 俺の知らないところで、とっくに解けていたらしい。


 ボルグが、空になった壺を抱えたまま、壁の補強を見つめていた。


「半日は保つと言ったが……もう少し、保ちそうだな」


 誰への言葉でもなかった。


 それでも、その声は、俺の殻にも届いた。


 保護パテも、崩壊防止薬も、もう、手元にはない。


 次の罅を、何で支えるか。


 その答えを、誰かが、探さなければならなかった。


「崩壊防止薬の材料は、遠いのでしたね」


 アリアが、そっと聞いた。


「はい。あの骨のそばでしか、揃いません」


 ミミルが、指で、外套の内側をなぞる。


 空の小瓶の形を、確かめるような手つきだった。


「同じものは、作れません」


 その言い方が、少し引っかかった。


 作れない、で終わらせる声じゃなかった。


「同じものでなくても、いいのかもしれません」


 ミミルは、それだけ言って、口を閉じた。


 ミミルの目が、一瞬、遠くを見た。


 それから、俺の籠を、そっと抱え直す。


 言葉には、しなかった。


 でも、何かを、考え始めているのが、伝わってきた。


 黒竜が、崩れた広場の隅で、翼を軽く畳んでいた。


『……あの馬車は、遠くへは、行けまい』


 低い声が、疲れを滲ませている。


 それでも、今の黒竜になら、あの馬車よりずっと遠くまで、飛べる。


 日が、少しずつ傾いていく。


 街のあちこちで、瓦礫を片づける音が、静かに続いていた。


 通りの向こうで、朝の子どもを助けた母親が、屋台のあった場所に立ち尽くしていた。


 何もない場所に向かって、小さく頭を下げている。


 誰も、笑わなかった。


 誰も、無駄だとも言わなかった。


 祈りに似た仕草だけが、崩れた街のあちこちに、残っていく。


 受付嬢が、俺の籠へ、そっと頭を下げた。


「戻ってきてくれて、それだけで……十分でした」


 俺は、右へ揺れた。


 深く。


 夕暮れが近づくころ、一行はようやく、通りの隅で息をついた。


 ミミルは、しばらく黙っていた。


 やがて、俺の籠を抱えたまま、ゆっくりと歩き出す。


 向かう先は、大通りではなかった。


 路地をいくつか折れ、古い工房の並ぶ通りへ。


 石畳の色も、軒先の傾きも、記憶とほとんど変わっていない。


 ただ、通りを歩く人の姿だけが、あの頃より少なかった。


 見覚えのある扉の前で、ミミルの足が止まった。


 長く、空けたままだった扉。


 板は、色褪せていたが、朽ちてはいなかった。


 鍵は、あの夜、机の上に置いてきた。


 鍵をかけずに、扉だけを閉めて、街を出た。


 もう、俺たちの工房ではないから、と。


 ミミルの手が、把手に触れる。


 力を込めずに、押した。


 重い音がして、扉が、内側へ開いた。


「……開きました」


 その声は、震えていた。


 扉の向こうは、暗い。


 乾いた薬草の匂いが、わずかに、まだ残っている気がした。


 棚も、机も、あの夜のまま、置き去りにされているはずだった。


 持っていけなかった硝子筒も、書き切れなかった配合の走り書きも、あの棚のどこかに、そのままあるはずだった。


 ミミルが「同じものでなくても」と言った理由が、ようやく分かった気がした。


 作り方を覚えているのは、ミミルの手だけじゃない。


 この部屋も、覚えている。


 資産だと呼ばれた日も、相棒だと呼ばれた日も、この扉の内側から始まった。


 ミミルは、しばらく、敷居の前で動かなかった。


 背後で、レオンが、聖剣を鞘ごと肩に担ぎ直す。


「今夜は、ここで休むのか」


「はい。……よければ」


 ミミルの声に、迷いが、少しだけ残っていた。


 それでも、誰も、他の場所を口にしなかった。


 俺は、籠の中で、一度だけ震えた。


 ぶる。


「……入りましょうか」


 ミミルの声が、少しだけ、笑っているように聞こえた。


 俺たちは、まだ、誰かの帳簿に載る側でも、誰かの台に置かれる側でもない。


 それだけのことが、今日は、ひどく重かった。


 扉の向こうは、暗いままだった。


 それでも、俺たちの帰る場所の形を、まだ保っていた。

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