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にぼし

作者: ROSE
掲載日:2026/06/24

 初めは誰かの食べこぼしだと思っていた。他人のデスクに汚いなとうんざりしながらティッシュで摘まんでゴミ箱に捨てた。


 定時五分前のオフィス。自称仕事のできる女、彩希(さき)は既にデスク回りを片付けいつでも帰れるようにと薄手のコートを羽織ったところだ。

 定時きっかりにタイムカード。残業ゼロ。その足で書店に寄り、目ぼしいものを物色して積ん読を増やすのが彩希のささやかな趣味だ。

 八畳のワンルームは家具より本の方が多い。読み終わった本は一部を除いてフリマアプリや古本屋で処分しているとは言えまだまだ読んでいない本は多い。

 人生は短い。その短い人生の中でどれだけたくさんの本を読むことができるか。それが彩希の全てだ。

 今日の気分は翻訳もののロマンス小説。オフィスものは職場の嫌な顔がちらついてしまい好きになれないからどうしても翻訳ものに手が伸びがちだ。

 少し奮発した革製のブックカバーは各サイズ四枚用意している。外で読むなら文庫本がよい。軽くてコンパクトだ。昼休憩に読んでいた雑学文庫からカバーを外して買ってきたばかりの本に掛け替えようとするとぽとりとなにかが落ちた。

「……に、ぼし?」

 アーモンドフィッシュなんかに入っていそうな小魚。けれどもべたつきはない。

 誰だ。他人様の本ににぼしなんかをこぼすやつは。

 彩希はかっとなってブックカバーの内部まで念入りに確認したがそれ以上にぼしも手がかりも出てこなかった。

 絶対に犯人を見つけ出してやる。

 苛立ちすぎて読書の気分ではなくなった彩希はそのままふて寝した。


 翌日、オフィス内を注意深く観察する。

 しかし小魚を食べている人は誰も居ない。昼時にもわざわざコンビニのパンで済ませながら周囲を確認したと言うのに小魚を食べている人は見当たらなかった。

 なのに、机からぽろりと落ちた。

 にぼし。頭も外れていないカタクチイワシが一匹ぽつり。

 あんなに観察していたのにいつの間に?

 彩希は余計に苛立った。

「ちょっと! 人のデスク周りでにぼし食べてるの誰?」

 やや強めに、それでもあくまで落ち着こうと抑えながら訊ねる。

 けれどもオフィス内の誰もが知らないと言う。そもそも職場でにぼしなんか食べない。おやつにしても可愛くない。そんな反応ばかりだ。

 ということは食べこぼしではない。誰かが悪戯している。

 いい度胸している。

 絶対に犯人を捕まえてやろう。彩希は午後の業務中もぴりぴりと張り詰めた状態で周囲を警戒した。

 けれどもその日、収穫はなかった。


 深夜、魚の臭いで目を覚ます。

 いったいなんなのだ。あのにぼしの一件から魚を見るのもうんざりで夕食はサラダで済ませたというのに、どうして魚の臭いがするのだろう。

 眠い目を擦り、電気を点ける。

 臭いの元は枕の隣だった。

「……にぼ、し……」

 どうしてこんなところに。

 枕元にカタクチイワシが三匹ぽろり。

 こんな小魚を買った覚えもないのにどうしてここに。

 誰かが家に侵入して嫌がらせだろうか。

 咄嗟に窓と玄関を確認する。けれども強引に開けられたような形跡はない。

 一体なにが起きているのか。

 気味が悪い。

 彩希は眠ることを諦めて早めの出勤準備をすることにした。


 強い眠気が襲ってくる。

 深夜のにぼし事件で睡眠時間がいつもよりも少ない。

 思わず欠伸が出た。

 どうしてにぼしなのか。一体誰がこんなことをしているのか。

 席を立ってコーヒーを淹れ直す。少しで気休めでも眠気覚ましになってくれればと思った。

 が、味がおかしい。

 ほんのり出汁の味? 

 コーヒーから魚の臭いがする気がした。

 思わずシンクにコーヒーを流す。

「……にぼし……」

 カップの中からカタクチイワシが五匹ぽろり。

 コーヒーを注ぐときには入っていなかったはずなのに、一体いつ入り込んだのだろう。

 気持ち悪い。

 なにが起きているのか。

 激しい頭痛を感じた。

 確か引き出しの中に鎮痛剤を入れていたはずだ。

 彩希は自分のデスクにもどり引き出しを開ける。

 目を疑う。

 きっと幻覚だ。寝不足で疲れているから。

 思わず引き出しを閉めた。

 相当疲れている。今日は早退した方がいいかもしれない。

 もう一度引き出しを開ける。

 ぎっしり。

 ぎっしり。

 ぎゅーぎゅーぎゅー。

 引き出しいっぱいカタクチイワシがぎゅーぎゅー。

 そこに入っていたはずの文房具もお菓子もピルケースも仲良く消えて中身が全てにぼしになっている。

「なっ……なにこれ……」

 印鑑、どこ入れたろう。

 彩希の頭は現実逃避を始める。

 これだけのにぼしがあったら臭うと思うのに、誰もこの状況を気にせず仕事を続けている。

 どうして。

 次の瞬間、頭上からなにかが振ってきた。

 こつん。

 頭にぶつかったそれが足下に落ちる。

 カタクチイワシが一匹。

 どこから?

 見上げると、またこつんと一匹、二匹、三匹、四匹……。

 にぼしの雨が降ってきた。

 それなのに周囲の誰もそれを気にしていない。

 ああ、疲れているんだ。

 早退届の用紙を取りに棚に向かうと、各種用紙が詰まっているはずの小さな引き出しにも先客がいた。

 ぎゅうぎゅう詰めのカタクチイワシ。

 どうして誰もなにも言わないの?

 思わず上司の席を見た。けれども姿がない。

「あれ? 課長見ませんでした?」

 先ほどまで座っていたはずなのにと係長に訊ねても、返事はない。

 無視なんて感じ悪い。

 苛立ちながら課長の席に近づく。メモくらい置いてあるかもしれない。

 けれども様子がおかしい。

「……スーツ?」

 上着だけ椅子に掛けているとかそんな状態なら気にしなかった。

 その席にはスーツが上下、ついでにワイシャツとネクタイ、靴下と革靴まで人間が着ていたような状態で置かれている。

 もっと異常なのは、服にも靴にもぎっしりとつまったカタクチイワシ。

「……ひっ」

 いたずらにしても度が過ぎている。

 彩希は思わず悲鳴を上げそうになった。 

 一体誰の仕業だ。

 慌てて周囲を見渡した。

 けれども誰も居ない。

 気がついたときにはどの席も抜け殻にぎっしりとにぼしが詰まっていた。

 おかしいのは現状なのか自分の頭なのか。

 既に彩希にはわからない。

 お願いだから早くこの状況が終わってくれと願うことしか出来なかった。

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