第8話 呪われたイヤホンを課長に使わせたら、俺が愛の告白したことになりました
その日も会社は平常運転だった。
つまり、地獄である。
「相川ァ……お前さぁ、ほんと“使えない”よなぁ」
背後から落ちてくる声は、怒鳴り声ではない。
もっと嫌な、ねっとりした声だ。
怒鳴られた方がまだマシだと、人は知ってしまう。怒鳴られたら、終わるから。
この職場の小言は終わらない。延々と、俺の呼吸を奪っていく。
「はい……」
返事をした瞬間、課長が鼻で笑った。
「“はい”じゃないだろ。“申し訳ありません”だろ。社会人の基本も分かってないのか?」
同僚たちは視線を画面に向けたまま、キーボード音を大きくした。
誰も助けない。助けられない。
助けた瞬間、次の矛先が自分に向くのを知っているからだ。
(……聞きたくない)
課長の言葉を、聞きたくない。
毎日毎日、嫌味を聞き続けて、胃が縮む。
家に帰っても、声が耳の奥に残っている。
殴りたいわけじゃない。
辞めたいわけでもない。
……いや、辞めたいとは毎朝思ってるけど、今は考える余裕すらない。
ただ――
(この人の声だけ、消えてくんないかな)
その夜。
残業を終えて、魂だけ持って帰宅した俺は、ふらふらとテレビの電源を入れた。
♪テレレレッ♪
「あ、はいはい。来ましたね」
軽快すぎるBGM。派手すぎるテロップ。
画面の中央で、ピンク髪の猫耳娘――ミルフィが元気よく手を振っている。
『さあさあ始まりました〜!毎度お馴染み、異世界通販のお時間ですにゃん!』
「どこから来るんだよ、その元気」
『本日は!人間関係の摩擦に疲れた人族さん向けの商品ですにゃ!』
「摩擦しかないよ、日本て」
ミルフィが掲げたのは、よく見かけるデザインの白いケースに入った小さなイヤホンだった。
『こちら!呪われたイヤホンですにゃ!』
「いや、呪われてるのかよ!!」
俺は反射でツッコんだ。
ツッコミって便利だ。危険を理解しているフリができる。
でもミルフィは、いつも通り笑顔で続ける。
『大丈夫ですにゃ!そんなに害はありませんにゃ!』
「呪いって言ったよな!?害がない呪いって何!?」
『このイヤホンは、使用者の“心が一番聞きたい言葉”に寄せて変換しますにゃ』
「……どういう意味?」
『課長の嫌味は誉め言葉に、愚痴は応援に、罵倒は小鳥のさえずりになりますにゃ!』
「……それは……」
喉まで「欲しい」が出かかった。
欲しい。俺の耳に、フィルターが欲しい。
現実の声を直接受け止めるのが、もうしんどい。
画面下に、注意書きが流れた。
【※長時間の使用はお控えください】
【※真実が聞こえなくなる恐れがあります】
「真実が聞こえなくなるの、めちゃくちゃ怖いんだけど?」
『大丈夫ですにゃ!嫌なことは聞こえない方が幸せですにゃ!』
「さらっと怖いな!幸せの定義が雑すぎる」
さらにミルフィが言う。
『装着すると透明になるので、不審に思われることもありませんにゃ!』
「そこだけ無駄に丁寧!」
俺は悩んだ。悩んだ“つもり”だった。
でも本当は、もう決まっていた。
疲れ切った心は、正しさより“楽”を選ぶ。
俺は電話を取った。
翌朝。
イヤホンを耳に入れて出勤した瞬間、世界が変わった。
「相川。昨日の資料、あれ何?」
課長の声がした。
――いつもなら胃が縮む音だ。
でも、イヤホン越しに聞こえたのは、
(今日も頑張ってるね)
「……え」
「お前、ほんと“詰め”が甘いよなぁ」
(惜しい! あと少し!)
「えっ」
「ちゃんと考えろ。言われなくても分かるよな?」
(君ならできるよ)
俺は、思わず笑顔になっていた。
口角が勝手に上がる。肩が軽い。
「は、はい!」
返事が元気になりすぎて、同僚がこちらを見る。
「相川さん……今日、テンション高くない?」
「うん。なんか、世界が優しくて」
「え、こわ」
その日は、信じられないほど仕事が進んだ。
課長の小言が、全部「励まし」に聞こえる。
同僚の冷たい一言も、全部「気遣い」に聞こえる。
褒められて伸びるタイプなんだな、俺。
――午後。
問題が起きたのは、取引先との電話だった。
『今回の依頼、超簡単です。予算も希望通り。よろしくお願いします』
イヤホン越しに、俺はこう聞いた。
このイヤホンはほぼ正反対に変換されるから……
(=難しいけど、お願いしたい。予算は渋い。納期も厳しい)
というワケね。理解。
資料を見る。
確かに、無茶な納期だ。
部署全体で死に物狂いなら、ギリギリ……いや、ギリギリでも危ない。
死人が出る。
俺は深呼吸して返事をした。
「申し訳ありません。その条件では、ちょっと難しいかと……」
電話の向こうが、一瞬沈黙した。
『……そうですか。残念ですが、分かりました』
その瞬間、背中に冷たい汗が走った。
(え?今の……)
イヤホンの中では、優しい声だった。
でも、言葉の端に、わずかな棘が刺さった気がした。
――数時間後。
課長が席から立ち上がり、俺のデスクへ来た。
「相川」
低い声。
俺は条件反射で身構える。
だがイヤホンは、いつも通り“優しい世界”を作ってくれた。
「お前、取引先を飛ばしたって?」
(よく言ってくれたね)
「サンライズ・トレーディング社は、他社にこの条件でOKもらって、ウチとは終わりだそうだ!今後の取引はない、とな!」
課長の顔は、地獄の鬼みたいに噴火していた。
眉間の皺が深く、目が血走っている。
なのに――俺の耳だけは、天国だった。
(あんな取引、断って当然だ)
(縁が切れてせいせいする)
俺は、背筋がぞわっとした。
(……表情と、音が合ってない)
怖い。
笑顔で褒めているのに、目が「殺す」と言っている人間が怖いのと同じだ。
褒めている“はず”なのに、空気が恐怖そのもの。
課長が机を叩いた。
「お前さぁ!!どう責任取るつもりなの!?」
(疲れただろうから、今日はもう帰って休め)
耳が、そう訳した。
周囲の空気は凍っているのに、俺はイヤホンの中でだけ優しい言葉を浴びている。
取引先との電話で、今後の取引については何も言っていなかった。
つまり、正反対に聞こえていたわけではなかったということだ。
(……これ、俺の都合のいいようにしか聞こえてない)
突然、胸が苦しくなる。
上司の言葉だけじゃない。
取引先の電話も。
同僚の反応も。
俺が「こうであってほしい」と思う内容に、勝手に変換されている。
(俺が聞いてるのは、現実の反対じゃなくて)
(俺の願望……?)
怖い。
このイヤホン、ストレスを減らしてくれるんじゃない。
現実から俺を切り離して、楽な夢を見せているだけだ。
課長が、さらに何か言った。
俺は耳の中の「優しい言葉」と、目の前の「鬼の顔」の差に耐えられなくなって、席を立った。
「……すみません。少し……」
その瞬間、同僚が小さく息を吐いた。
「相川さん……」
普段なら冷たい同僚が、ほんの少しだけ目を和らげていた。
イヤホンは、その声をこう訳す。
(その取引、なくて良かったよ)
……え?
表情と声が合ってる……?
イヤホン越しでも、ちゃんと温度がある、気がする。
もしかして、これは本当のことなのか……?
――イヤホン越しじゃ、分からない!
混乱したまま、トイレの個室に逃げ込む。
耳に指をかけ、イヤホンを外そうとした。
――外れない。
「……は?」
引っ張っても、びくともしない。
スマホの画面が勝手に光り、文字が浮かんだ。
【この装備は呪われています】
「そういう意味でも呪われてるのかよ!!」
俺は、個室で小声で叫んだ。
ドン引きされるので叫べない。ブラック企業は、叫ぶ自由すら奪う。
「ミルフィ!!」
俺は帰宅するなり、テレビに向かって叫んだ。
リモコンは操作していない。
でも、こういう時に限って――点く。
♪テレレレッ♪
『お困りですかにゃ?』
ミルフィが、いつも通りの笑顔で手を振っていた。
「外れないんだけど!?解除条件は!?」
『電池が切れたら外れますにゃん』
「最初に言えって!!」
『同梱の説明書に書いてありますにゃ』
「どこに!!」
説明書の隅に、米粒みたいな文字で書かれていた。
【※電池切れまで外れません(呪い効果)】
「読めるかー!!」
『薫さん、説明書は読まずに使うタイプですにゃ。では、良い人族ライフを〜♪』
ミルフィが手を振った瞬間。
――ぽろり。
耳からイヤホンが落ちた。
ちょうど電池切れだったらしい。
「……タイミング良すぎだろ」
イヤホンを握りしめ、俺は震えた。
恐怖と怒りと、少しの興味。
(……でも、これ)
(外れないことを利用できる)
次の日。
俺はフル充電したイヤホンを持って出勤した。
課長が、イヤホンで音楽を聴きながら出勤し、昼休みもイヤホンをしているのを知っていた。
(……入れ替える)
復讐の規模としては小さい。
でも俺の人生は、小さい復讐でしか回復できないくらい削られている。
離席した課長のデスクにそっと近づく。
引き出しのイヤホンを、さりげなく入れ替えた。
デザインはほぼ同じ。
俺は心の中で、深く頷く。
(くくく、呪われるがいい)
昼休みから戻った上司が、耳を気にしている。
何度も耳に触れている。
(……困ってるな)
午後。
課長は俺を会議室に呼び出した。
「相川!!」
鬼の顔。
「先日の件、どう責任を取るつもりだ!!」
俺は、深く息を吸った。
もうどうでもいい。
課長の声をまともに受け止めると死ぬので、俺は言い返す。
「知るかよ!!
どうせ受けたって“こんな無茶な条件で取ってきやがって”って言うんだろ!
責任は上司が取るもんだろーが!!」
課長が、固まった。
「…………」
そして、気まずそうに視線を彷徨わせる。
「……あ、相川くん」
声が上ずっている。
「別に、そういうことに偏見があるというわけではないんだ……」
「……私は、妻と子がいる身で……」
「は?」
俺は意味が分からず固まった。
「き、君の気持ちは……分かった……」
――この人、今、何を受信した?
「しかし、君の気持ちに応えるわけには……」
俺は秒で察した。
このイヤホンは装着した人の、都合の良いように変換する。
(この反応……俺が愛の告白をした感じになってる!!)
課長が、耳を押さえながら立ち上がる。
「取引先と会う約束があった……じゃ……」
そう言って、そそくさと会議室を出て行った。
俺は会議室に一人残され、椅子にへたり込む。
「……何だ、これ。相打ち?」
笑っていいのか分からない。
でも、笑うしかない。
翌日。
上司の嫌味は――体感で5%オフだった。
ほんの少しだけ。
ほんの少しだけ、世界がマシになる。
会社が変わるわけじゃない。
上司が改心するわけでもない。
それでも、5%は5%だ。
俺はデスクに戻り、小さく息を吐いた。
(……この異世界通販)
(やっぱり人間向けじゃない)
でも、
俺も俺で、少しだけ賢くなった気がした。
そして、机の上の充電ケーブルを見て、異世界にも電気はあるんだな、と今更気づくのだった。




