第7話 吸水力が強すぎるタオルで、街が救われました
台風は、来ると分かっていた。
朝の通勤電車で、すでに人はそわそわしていた。
車内モニターには「今夜から明日にかけて暴風雨」「不要不急の外出を控えて」といった文字が流れ、スマホの通知も同じことを言っている。
(帰り、地獄だろうな……)
分かっている。
分かっているのに、俺の足は会社へ向かう。
会社の入口に貼り出された「台風接近に伴い安全に配慮して行動してください」という張り紙を見て、思わず鼻で笑った。
「安全に配慮」って、具体的に何を?
早く帰らせるとか?
……そんなこと、するわけがない。
午前中、課長はいつも通りだった。
「電車止まるかもしれないですよね」
同僚が恐る恐る言うと、課長はキーボードを叩く手を止めずに言った。
「止まったら止まったで考えればいいじゃん」
(考えるの、俺たちだよな?)
昼過ぎ、雨音が強くなる。
窓の外は白く霞み、ビルの間を抜ける風が、ひゅうひゅうと嫌な音を立てた。
――それでも。
「相川。今日中にここ、仕上げて」
課長が資料を俺のデスクに置く。
台風のニュースを映したモニターの前で、何食わぬ顔。
「今日中……ですか」
「うん。今日中」
言い方が軽い。
でも、軽いのは言い方だけで、意味は重い。
(帰れるか?)
自分でそう考えた瞬間、無性に腹が立った。
“帰れるかどうか”が、個人の努力の問題になっている時点でおかしい。
ようやく解放されたのは、夜だった。
駅へ向かう道は、すでに川みたいになっていた。
足首まで水。
風は、前から殴ってくる。
駅構内に入った瞬間、湿った人の匂いと、濡れた服の冷たさが混ざった空気がまとわりついた。
床は滑るし、駅員さんは声を張り上げている。
「本日は一部区間で運転を見合わせております!」
(一部じゃなくて、もう全部止まりそう)
電車は遅れながらも動いていた。
車内はぎゅうぎゅう。
濡れた傘同士がぶつかって、水が飛ぶ。
駅を出た瞬間、台風は本気を出した。
傘を差した――つもりだった。
次の瞬間には、傘は裏返り、風に引っ張られて手から抜けた。
「……あ」
傘が、飛んでいく。
夜の闇に吸い込まれるように、くるくる回って消えた。
雨は横殴りで、顔に当たって痛い。
服は水を吸って重い。
靴の中で、足がちゃぷちゃぷ鳴る。
「……最悪だ」
帰宅したとき、俺はすでに「びしょびしょ」を通り越していた。
体温を奪われて、手が震える。
玄関で服を脱ぎ、ぎゅっと絞る。
洗濯機に叩き込み、ようやくタオルを手に取った。
……拭いても拭いても、追いつかない。
「タオルの無力さを知る日が来ようとは」
悲しい発見をしているときだった。
♪テレレレッ♪
「……はいはい」
テレビが勝手につく。
軽快なBGM。派手なテロップ。
画面の中央、ピンク髪の猫耳娘――ミルフィ。
『さあさあ始まりました〜!
お元気ですかにゃ? 異世界通販のお時間ですにゃん!』
「見て、今の俺、見てから言って」
『台風でびしょびしょの人族さん! お困りではないですかにゃ?』
「お困りです」
即答すると、ミルフィは満足そうにうなずく。
『そんなあなたに! こちら!』
出てきたのは……タオル。
白くて、ふわっとしていて、見た目は普通。
『全吸水タオルですにゃ!』
「……ただのタオル?」
『違いますにゃ! 一枚で全身拭けますにゃ!
髪も! 服も! 床の水も! 全部これ一枚で完璧ですにゃ!』
俺は濡れた髪を指でつまみ、ぽたぽた落ちる雫を見た。
「……それ、今の俺に一番必要じゃん」
『鞄に一枚入れておけば、突然の雨でも安心ですにゃ!』
(珍しくまともだ……)
そう思った時点で負けだった。
「注文します」
『ありがとうございますにゃ!』
電話を取る俺の手は、びしょびしょで画面が反応しない。
イラつく。台風のせいで。
――数秒。
部屋の中央がぼんやり光り、ぽとり、と小包が落ちた。
開けると、タオルが一枚。
ふわふわ。いい手触り。
「……これが救世主」
俺は顔を拭いた。
その瞬間。
「……っ!?」
水分が、消えた。
いや、消えたというより、持っていかれた。
肌が、つっぱる。
頬が、痛い。
唇が、きしむ。
「……乾いた……のか?」
鏡を見ると、粉を吹いた頬。
唇はうっすらひび割れ。
目の周りが妙に突っ張って、瞬きが痛い。
「ちょっと待て、俺の水分まで持っていかれてるだろ」
髪を拭くと、サラサラじゃなくて……パサパサ。
静電気で毛先が逆立つ。
「……干し草」
俺はテレビに向かってクレームを入れた。
ミルフィが映るのを待つまでもなく、叫ぶ。
「ミルフィ! 吸いすぎ! 加減考えろって!」
画面が切り替わり、ミルフィが耳をしゅんと伏せた。
『申し訳ございませんにゃ……! 実は手違いで……』
「手違い、って何」
『三千枚のタオルが、薫さんのお部屋に届く予定ですにゃ』
「は?」
『お詫びの品として、そのまま受け取ってくださいにゃ。
返品は……できませんにゃ』
「できませんにゃ、じゃない」
『では、失礼いたしますにゃ!』
「待て! せめて水分返せ!」
通信は一方的に遮断された。
そして、数分後。
部屋の中央が――いや、部屋の中央どころじゃない。
廊下の先から、玄関から、どさどさどさっと音がした。
「……え?」
まず、部屋から出られない。
ドアの向こうが、白い。
恐る恐る押すと、むぎゅっとした感触。
開かない。
つまり。
「……タオルでドア塞がれてる!!」
必死に押し込み、隙間から身体をねじ込むようにして玄関まで出た。
そこにも――タオル。
タオル。
タオル。
タオル。
天井までみっしり積まれている。
「どうしろっていうんだよ!!」
怒り心頭。
でも、怒りをぶつける相手がいない。
タオルしかいない。
そのとき、テレビのニュースが目に入った。
『河川が増水し、堤防の決壊の恐れがあります。
付近の住民の方は――』
画面には、茶色い濁流。
水位はギリギリ。
堤防の上を流れそうな勢い。
――これ、うちの近所じゃねーか。
俺は、タオルを見た。
全吸水タオル。
全ての水分を根こそぎ吸うタオル。
「……これ、使い道があるじゃん」
心臓がどくんと鳴った。
(でも、俺が?)
頭の中で一瞬だけブレーキがかかる。
だって俺は、ただの会社員。
ヒーローじゃない。
むしろ今日も残業させられて、泣きそうだった人間。
でも、もう一度ニュースを見る。
(誰かがやらないと、溢れる)
タオルがある。
俺は、走れる。
そして――あれがある。
俺はテレビに向かって叫んだ。
「ミルフィ!! ドラゴンの肉、頼む!!」
返事はない。
でも部屋の中央が光った。
箱がタオルの間に挟まっていた。
開けると見覚えのある、肉。
説明書には相変わらず「食べすぎ注意」。
「分かってる。学習した」
俺は焼いた。
今度はちゃんと、適量。
……より、少し多め。
「今日は“ちょっと多め”でいい」
口いっぱいに詰め込み、咀嚼し、飲み込む。
身体の奥から熱が湧く。
心臓が強く打ち、血が巡る。
視界が鮮明になる。
寒さも疲れも、どこかへ押しやられていく。
「よし」
タオルを抱えた。
束にして肩に担ぐ。
……重いはずなのに、軽い。
身体が嘘みたいに動く。
「いっちょ行くか、タオル軍団」
俺は寝巻のまま、頬かむりをした。
だって雨だし、顔に当たると痛いし、寒いし。
あと、なんかそれっぽい。
外へ飛び出す。
風が殴ってくる。
雨が刺さる。
でも俺は、走った。
台風の日の街は、映画のセットみたいに無人だ。
堤防に着いたとき、川は吠えていた。
濁流がうねり、泡立ち、堤防を叩いている。
「うっわ……これ、あと少しで溢れる」
俺はタオルをばらまいた。
堤防の際に沿って、一枚、二枚、三枚。
水が当たる場所に置く。
タオルが、吸う。
吸って、膨らむ。
吸って、重くなる。
まるで白い生き物みたいに、水を飲んでいく。
「すげー……」
感心している場合じゃない。
俺は走って戻った。
自宅へ。
タオルを抱えて。
また堤防へ。
往復。
往復。
往復。
途中で足が止まりそうになる。
でも、ドラゴンの肉が背中を押す。
(これ、やりすぎたら寝込むんだよな)
そんなこと、今はどうでもいい。
目の前で川が溢れたら、もっと大変だ。
最後の束を置いた頃、雨は少し弱まっていた。
風も、さっきほど牙を剥いていない。
川は――溢れていない。
タオルの列が、堤防の際でずっしり膨らみ、
濁流を受け止める白い壁になっている。
「……タオルで治水する日が来るとは」
俺は膝に手をつき、息を吐いた。
湯気みたいな息が白く出る。
(助かった……のかな)
翌朝。
案の定、俺は布団の中で死んでいた。
筋肉痛と倦怠感が押し寄せて、全身が鉛みたいだ。
「ぐぐぐ……学習したのに……」
でも、ニュースを見て分かった。
堤防は決壊していない。
被害は最小限。
避難指示は解除へ向かっている。
その日の午後、会社へ行くと、休憩室で皆がテレビを見ていた。
『こちらをご覧ください。堤防付近で撮影された映像です』
画面には――寝巻姿の人物。
頬かむり。
タオルを担いで、猛スピードで走る。
「なにこれ」
「泥棒?」
「ねずみ小僧?」
「いや、小判じゃなくてタオル撒いてる」
笑いが起きる。
俺は、黙ってその映像を見た。
(……俺だ)
でも、言わない。
課長が腕を組んで言った。
「最近の世の中、変なやつがいるもんだな」
(この会社の方が変だよ)
喉まで出かかったツッコミを飲み込む。
誰にも褒められなくていい。
“偉いね”って言われなくてもいい。
町が無事で、
誰かの家が水に飲まれなくて、
誰かが泣かなかったなら、それでいい。
――それだけで、今日はちょっと勝った気がした。
家に帰れば、タオルは……もう、ほとんどない。
堤防に置いたままだ。回収は……考えないことにしよう。
「……結果オーライ、なのかな」
テレビが静かに光った。
♪テレレレッ♪
「……出たよ」
ミルフィが画面の中で、目をそらしている。
『……ご利用、ありがとうございましたにゃ』
「三千枚、どういうことだ」
『手違いですにゃ……! でも結果的に、人助けできましたにゃ!』
「結果論で許されると思うなよ」
『次回は、もっと“人族さんに優しい”商品をご用意しますにゃ!』
「それが一番信用できないんだって」
ミルフィはにこっと笑って、手を振った。
『では! また次回〜!』
画面が消え、部屋に静けさが戻る。
俺はソファに沈み込み、乾いた唇を舐めた。
タオルのせいで、まだ少しカサついている。
「……この異世界通販、やっぱり人間向けじゃない」
でも。
ほんの少しだけ、思った。
(使い方次第では、
人助けくらいは……できるのかも)
俺は、久しぶりに笑った。




