第6話 マンドラゴラのブーブークッションを仕込んだら、課長が毒ガス扱いされました
その日の午前中、課長は“公開処刑モード”だった。
「相川ァ! この数値、どこから拾ってきた?」
「……先方の資料からです」
「じゃあなんで桁が違うんだよ。見ろ。ここ。ここだよ」
指で机を叩く音が、やけに大きい。
周囲はキーボードを打つふりをして、息を殺している。
(……間違ってない。桁の表記が違うだけだ)
そう言い返せたら楽なのに。
でも、この職場では「正しさ」より「課長の機嫌」が優先される。
「分かりました、直します」
言った瞬間、喉の奥に苦いものが溜まった。
今日も俺は、歯車の音を立てて回る。
午後になって、今度は“静かな圧”が来た。
「相川、さっきの件」
背後から声が落ちる。
振り返ると、課長は笑っていない。
「お前、最近“返事”が軽いよね」
「……そんなことは」
「軽いんだよ。反省してないだろ? 目を見れば分かる」
(目? エスパーかよ)
心の中のツッコミが、喉まで上がってきて、飲み込む。
同僚は誰も助けない。助けられない。
気づけば、胸の内側に小さな黒い染みが広がっていく。
ひとつ、またひとつ。
(……殴りたいわけじゃない)
ただ――
(こいつ、一回くらい大恥かいてもよくないか?)
その考えが浮かんだ瞬間、自分に驚いた。
俺、こんなこと思うタイプだっけ。
でも、次の瞬間には、妙に納得してしまった。
人は追い詰められると、小さな悪意を“自衛”と呼ぶ。
その夜。眠れなかった。
布団に入っても、課長の声が耳の奥で反響する。
スマホを見れば、仕事の通知が光る気がして、見られない。
だから、テレビをつけた。
♪テレレレッ♪
「あ、はいはい。来ましたね」
軽快なBGM。派手なテロップ。
画面の中央には、ピンク髪の猫耳娘――ミルフィ。
『さあさあ始まりました〜!
本日も元気に異世界通販のお時間ですにゃん!』
「元気にしてるの、そっちだけだよ」
『本日は! ストレス社会で戦う人族さん向け商品ですにゃ!』
「戦ってる自覚だけはある」
ミルフィは、両手でクッションを掲げた。
見た目は、どこにでもある丸い座布団。
『こちら! マンドラゴラ・ブーブークッション(静音設計)!』
「……ブーブークッション?」
『マンドラゴラは本来、抜くと“死に至る悲鳴”を上げる植物ですにゃ』
「あー、うっすら知ってる。怖いやつだろ」
『でもそれだと、人族さんには刺激が強すぎますにゃ』
「刺激が強いって、死ぬだろ」
ミルフィはにこっと笑い、画面に図を出す。
【従来】
悲鳴 → 気絶・死亡
【改良版】
おなら音 →侮辱の音声
「キャーッ! おならよ!」
「うわっ臭っ! 最悪!」
「だれ!? 今のだれ!?」
『悲鳴成分を“生命に無害な形(恥をかく)”に変換しましたにゃ!』
「無害……?」
『音そのものより、恥をかかせるリアクションが本体ですにゃ!』
「……なるほど」
誰も怪我しない。
ただ、その場の空気だけが壊れる。
『異世界では、権力者への抗議や宴会用ですにゃ』
「抗議なんだ、それ」
『命までは奪いませんが、空気は確実に壊せますにゃ』
俺は、頭の中で想像した。
課長が座る。
ブゥゥゥーーー!
周囲がクスクス笑う。
課長が赤くなって怒鳴る。
(……いい)
いい、と思ってしまった。
(でも、これは暴力じゃない)
(誰も傷つかない)
(ただ、ちょっと恥をかく)
自分の中の言い訳が、見事に整っていく。
画面下に、注意書きが流れた。
【※密閉空間での使用非推奨】
【※余韻が残る場合があります】
「……余韻って何だ?」
でも、もう遅かった。
俺は電話を取っていた。
数秒。
クッションはいつものように、部屋の真ん中に“ぽとり”と落ちて届いた。
手に取ると、やけに軽い。軽すぎる。
(……これ、本当にマンドラゴラ入ってる?)
翌朝。
会社に着いてからも、胸が落ち着かなかった。
仕込むタイミングをうかがいながら、何度も椅子を見た。
そして、チャンスが来た。
課長が席を外した一瞬。
俺は素早くクッションを椅子の下に滑り込ませた。
その瞬間、手汗がどっと出る。
(今なら……戻せる)
(やめとけ。大人だろ)
(でも……)
頭の中で二つの声が殴り合う。
俺は、結局、戻さなかった。
(……ちょっとだけだ)
課長が戻ってくる。
靴音が近づく。
座る。
ブゥゥゥゥーーーーー!!
低い。長い。妙に荘厳。
空気が震えた気がした。
一瞬の沈黙。
それから、失笑が漏れる。
「……今の、何だ?」
(……よし)
ほんの一瞬、胸がすっとした。
だが、次の瞬間。
「キャーッ! おならよ!」
「うわっ臭っ! 最悪!」
「ちょっと! 誰!?」
悲鳴が、椅子の下だけじゃない――
空間の四方八方から湧いた。
音源が分からない。
なのに、全員の耳に同時に刺さる。
最初は笑いだった空気が、ぐにゃりと歪んだ。
音が止んでも、空気だけが“まだ鳴ってる”みたいだった。
「……なんか、頭痛い」
「気持ち悪……」
一人が眉間を押さえ、座り込む。
次に、別の人がふらつく。
(……え?)
課長が怒鳴ろうとして口を開いた瞬間、
そのまま机に突っ伏した。
次々と倒れる同僚。
椅子からずり落ちる音。
キーボードに額が当たる鈍い音。
――フロアが、沈黙した。
(……ブーブークッション、じゃないのか?)
俺の手のひらだけが、冷たくなっていく。
結局その日は、救急車が来て、騒ぎになって、業務は止まった。
原因は「不明」。
“集団体調不良”。
だが会社の結論は、驚くほど簡単だった。
「遅れは、今日中に取り戻せ」
調査? 再発防止?
そんなものは、存在しない。
数字が遅れた。
だから残業する。
ブラック企業の世界は、
原因よりも帳尻が大切だ。
そして、復活した課長が言った。
「効率化だ。
こんなことで止まるなら、最初から余裕を作れ」
(余裕って、何だ……?)
その夜。
♪テレレレッ♪
『お困りですかにゃ?』
「……そうですね、お困りです」
ミルフィが今度は、指輪を掲げていた。
『**賢者の指輪(効果極小)**ですにゃ!』
『つけた人が、“今やるべき仕事”を直感で理解できますにゃ!』
『迷いなし! 手戻りなし! 優先順位が一瞬で決まりますにゃ!』
「そういうのを出せよ……!」
届いた指輪をはめた瞬間、世界が整列した。
(これが最優先)
(次はここ)
(今は触らない)
作業が“迷いなく”進む。
脳の中の渋滞が消えていく。
「……すごい」
初めて、仕事が“軽い”と感じた。
あまりに快適で、少し涙が出そうになった。
同僚が尊敬の眼差しで俺を見る。
「相川さん、早……」
「助かる……ありがとう……」
課長の眉が、上がった。
「ほう。相川、できるじゃないか」
(やっと褒められた……?)
その瞬間だけ、俺は救われた気がした。
――その瞬間だけ。
「相川、これも頼む」
「ついでにこれも」
「あ、客先対応もできるな?」
仕事が集まり始める。
断る隙がない。
だって、できてしまう。
だから、もっと来る。
終わらせる。来る。終わらせる。
気づけば、周りの席が空になっていく。
「お先に失礼します……」
「ごめん、相川さん……」
誰も悪くない。
ただ、“できる人”に仕事が吸い寄せられるだけ。
課長が満足そうに言った。
「効率化って素晴らしいな。
よし、明日からもこの体制でいこう」
(……なんでだあぁぁ)
ささやかな復讐の後始末がこんなことになるなんて。
テレビが光る。
『効率化は、管理側が勘違いすると危険ですにゃ~』
「それ、売る前に言えって!!」
俺は指輪を外した。
指輪の跡が、薄く残っている。
そして、ふと気づいた。
この職場は、
効率化すら地獄に変える。
俺は小さく息を吐く。
――この異世界通販、
やっぱり人間向けじゃない。
でも、俺は俺で、
もう少し賢くならないといけない気がした。
ちなみに、この事件は、課長の毒ガス級の放屁のせいで、
フロアの全員が気絶したという噂となって、会社全体に広がった。
あだ名が“屁ガス”になった課長の顔を思い出し、俺は静かに出勤を決めた。




